2019年 6月11日

古田史学会報

152号

1,天平宝字元年の功田記事より
 服部静尚

 

2,「船王後墓誌」の宮殿名
大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か
 古賀達也

3,『史記』の中の「俀」
 野田利郎

4,「東鯷人」「投馬国」
「狗奴国」の位置の再検討
 谷本茂

5,『邪馬一国の証明』が復刻
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学
十八・「磐井の乱」とは何か(2)
古田史学の会事務局長 正木裕


古田史学会報一覧

『後漢書』「倭國之極南界也」の再検討(会報150号)
「東鯷人」「投馬国」「狗奴国」の位置の再検討 (会報152号)

神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」とは何か 正木裕(会報156号)


「東鯷人」「投馬国」「狗奴国」の位置の再検討

神戸市 谷本茂

一、はじめに

 弥生時代後期の日本列島の「種族」「国」に関する不確実な認識が幾つか存在する。多元史観の立場に立つ研究者の間でも安定した共通認識が確立していないことも少なからずある。ここでは、「東鯷人」「投馬国」「狗奴国」について、再検討し私見を述べる。

 

二、「東鯷人」の位置

 『漢書』、『後漢書』に著名な記載「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國」がある。『翰苑(第三十巻)』に「東鯷人の居」に関する情報がある。古田武彦氏は、当初、「銅鐸文化圏」の人達としたが、その後、これを撤回し、九州南部の東海岸を中心とする領域の人達とみなした。(『百問百答』)
 『翰苑(第三十巻)』(張楚金撰、雍公叡注)の本文と細注によれば、
三韓 境は鯷壑ていがくに連なり地は鼇波ごうはに接す。
[魏略曰く韓は帯方の南にあり。東西は海を以て限りとなし、地は方四千里。(中略)鯷壑は東鯷人の居、海中の州なり。(中略)]
南は倭人に届き、北は穢貊に隣す。(後略)

とある。従って、東鯷人の居住領域は、地図を参照して明らかなように、朝鮮半島南部から見て東側にある海を越えた領域[出雲から能登半島にかけての海岸領域]である。三韓の南に倭人、東に東鯷人が居るわけで、「東鯷人=銅鐸圏の人達」の理解が正しい。

 

三、「投馬国」の位置

『三国志』魏志・倭人伝に「(不彌國)南至投馬國水行二十日」の記載がある。

(三‐一)南至投馬國水行二十日を帯方郡から投馬國までの行程と理解する論者の比定地として、
坂田隆氏(一九八三年『邪馬壹国の論理と数値』)=投馬國は遠賀川沿いの直方平野付近
野田利郎氏(二〇一七年『「邪馬台国」と不弥国の謎』)=福岡県の北部

などがある。最近でも、石田敬一氏が野田氏説に好意的に言及し、石田泉城氏は「投馬国=済州島」説を提起している(『多元TAGEN』一五一、二〇一九年五月)ように、起点を帯方郡とする理解は根強いようである。

(三‐二)「水行二十日」を不彌國からの「傍線行程」と理解し、不彌國からの方向は南、日数行程は実行程(直線距離でなくてもよい)と考える論者の比定地として、
古田武彦氏(一九七一年『「邪馬台国」はなかった』)=南九州・鹿児島湾の最奥部周辺とする。「水行二十日」は「九州東岸廻りの航路」の行程であると考える。
坂田隆氏(一九八三年)は、この古田氏の説を、「「水行二十日」というと一〇〇〇~一一〇〇㎞ほどの道のりにあたる。九州北部の不弥国から一〇〇〇~一一〇〇㎞も南進すれば、薩摩・大隅をはるかに越え、優に沖縄に達してしまう。」と批判している。鋭い指摘である。

 「水行二十日」を仮に魏使の水行と同様の速度での行程とすれば、水行一日=約五〇〇短里(約四〇㎞)とみなし得るので、水行二〇日=約八〇〇㎞と推定できる。(先の坂田氏の推定値よりやや少ないが、±二五%程度の誤差はあり得るので、オーダーとしては同程度といってよいであろう。)博多から直線距離で八〇〇㎞南に行くと沖縄本島の丁度東の海域に至る。実行程(迂回航路)でも奄美大島と沖縄本島の中間海域まで届く。

 これらの考察から、「不弥国からの傍線行程」説を仮定すると、
①九州島内に投馬國が存在すれば、鹿児島辺りとしても陸路で博多から約三〇〇㎞であり、(陸行一日=約二五〇短里(約二〇㎞)の換算で)陸行約十五日の行程である。それを水行二十日で往来するとすれば、不自然であるし、わざわざ危険で日数もかかる航路をとるメリットもない。

②「水行」行程しか示されてないということは、「投馬國」へは陸路では行けないことを示唆しているように思われる。つまり九州島の南の海域に存在する可能性が高いのではないだろうか。

③木下尚子氏(一九九六年)の『南島貝文化の研究 貝の道の考古学』(法政大学出版局)によれば、「弥生中期後半~後期」の南海産貝輪・銅釧分布」図(一四七頁)などに、明瞭に、九州西北部を中心として薩摩半島西岸、山口県西部、出雲半島、瀬戸内側(広島県と兵庫県)に散在する南島圏との交易を示す遺跡が示されている。そして木下氏は、
「当時の貝輪のおもな使用者は、西北九州人・福岡平野人・響灘沿岸人で、それぞれゴホウラ・イモガイまる型、ゴホウラ諸岡型、同土井ヶ浜型という独自の型をもっている。」
「貝輪が福岡平野から周辺の平野に広がっていく情況や島根・瀬戸内地域に分布をのばす現象は、同時期の青銅器[谷本注=細型銅剣とその鋳型]の分布性に共通する。」

と指摘している。卓見である。

④以上から、「投馬國」は、南西諸島の貝輪・銅釧路生産文化圏に存在した国であると考えられる。

 関西例会での発表時に、大下隆司氏から、「博多と鹿児島を結ぶ陸路は当時未整備(存在しなかった)のではないか。だから水行記載だけで構わないとも言える。」との指摘があった。しかし、「投馬国」が五万余戸の有力な勢力であるにも拘わらず「女王国」と結ぶ陸路が全く無かったという想定は私には考えにくい。また、古賀達也氏からは、「奄美・沖縄諸島の当時の人口が五万戸に相当する数だったとは考えにくい。」というコメントがあり、私は「古代の人口論は根拠に乏しく立論の基礎とはなりえない」旨の意見を述べた。
 試みに人口比を検討すると、現在、漸減中の壱岐島の人口は約二・七万人、急増中の沖縄県の人口は約一四一万人であるから、その比率は一対五十二である。比較的安定していた戦前のデータでは、壱岐島約五万人に対して沖縄約六〇万人であるから、比率は一対十二である。魏志倭人伝では、一大国〇・三万戸に対して投馬国五万戸であり、比率は一対十七弱となる。時代と諸環境により地域の相対人口は大きく変動するから、私は古代地域論の中で「当時の推計人口」を主な論拠とする方法には懐疑的であるが、図らずもこの数値においては、古賀氏の「人口への疑問」は妥当ではなく、逆に三世紀において沖縄諸島に壱岐島の人口の十七倍程度がいた可能性は否定できないように思える。
 ここでは詳説する字数の余裕が無いが、古田氏の「傍線行路」解釈は依然妥当だと考えられるので、私としては、不弥国からの「傍線行程」水行二十日の「投馬國」は奄美・沖縄海域の諸島に居住する人達という理解を、多元史観の一つの可能な仮説として、ここに提示する。

四、「狗奴國」の位置

 通説は、九州の南半部に存在したとする。「熊襲」と関連付ける、あるいは「隼人」と関連付ける諸説がある。「熊野」と解釈してヤマトの南に比定する説もある。
 古田武彦氏は、当初、邪馬壹国の南に位置するという(無意識的な)認識であったが、読者からの指摘(二つの大国の邪馬壹国と投馬国の間に南北に挟まれて敵対国の狗奴国が存在するのは納得できない)により再考し、変遷を重ねた結果、『後漢書』倭伝の「女王国より東に海を度わたること千余里、狗奴國に至る」の「千余里」を後漢代の里(長里)とみなし、最終的に、博多から東に直線距離で約五〇〇㎞にある茨木市・高槻市周辺に比定した。すなわち、当時の銅鐸圏中枢部(東奈良遺跡等)が「狗奴国」であるとした。(『百問百答』)
 『三国志』魏志倭人伝には「(前略)次に奴國あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴國あり。」とあって、地理的な規定性に乏しいことは周知の史料事実である。しかし、『翰苑(第三十巻)』の注には、「魏略曰女王之南又有狗奴國」と女王(国)と狗奴国の位置関係が明示されている。(信頼性にやや欠けるが、『太平御覧』巻七八二 四夷部三にも、「魏志曰」として、「女王之南又有狗奴國」と引用している。上記の『翰苑』引用の魏略と同文が『魏志』にも存在したのであろうか?または、『太平御覧』の杜撰な編集作業により「魏略」を「魏志」と間違えて引用したものであろうか?)いずれにしても、矢張り、「狗奴國」は女王の居る所(邪馬壹国)から南の方角にあるのではないだろうか?

 『後漢書』に依拠しないで、『三国志』、『魏略』の記述に依拠する限り、
①卑弥呼の統治する「三十国」の領域の南、または女王の都する所(邪馬壹国)の南に「狗奴國」が存在したことになる。「三十国」領域は、古田氏や野田氏の指摘の通り、銅矛・(九州式)銅戈圏[拡張解釈すれば、平型/中細型銅剣圏も含まれるか?]の領域と重なって、または、その内部に存在するはずであるから、古田氏自身の「二島定理」を認める限り、「その南」を「境界の尽きる所の南」と解しても、大阪府の領域には全く当てはまらない。[図1の地図を参照]

青銅祭器の分布 弥生時代中期〜後期:異種の二大文化圏

②川越哲志編『弥生時代鉄器総覧』(二〇〇〇年)に基づき、弥生時代後期・終末期の鉄鏃出土地一覧表を作り、遺跡の分布図をプロットすると、熊本県白川→阿蘇山周辺山麓→大分県大野川を結ぶ線のベルト地帯に出土地・出土数とも集中しているようである。ここに何らかの「境界」があったことが認められる。[図2の地図と表を参照]

弥生時代鉄器総覧より

九州における弥生時代・終末期 鉄鏃出土分布図

③「邪馬壹国連合体」と競合した「狗奴國」は、弥生時代後期・終末期の金属器文化圏分布による限り、九州南半部にあった蓋然性が高い。そうすると、先の②の「境界線」は「邪馬壹国連合体圏」と「狗奴国圏」との境界(主な戦闘領域)を示すものではないだろうか?つまり、「狗奴國」は九州南半部に存在し、「女王国」に対峙していたことになろう。
 関西例会での発表時に、古賀達也氏から、「考古学者の見解によれば、そのベルト地帯付近には鉄器生産の場所が多かったということで、鉄鏃の出土密集地が、境界や戦闘領域を示すとは言えないのではないか」という指摘があった。出土事実の詳細を吟味すべきであるとの注意で、今後詳しく検証していく必要はあるが、生産地だから多く出土するのは当然との常識論は成り立たないように思う。このベルト地帯の多量の出土物は主として「消費」地域を示すものであり、鉄鏃の生産命令および保管は、図2の地図の福岡県西北部および宮崎平野の出土地域に関連があるとみなすべきではないだろうか。つまり、ベルト地帯以外の出土密集地に「邪馬壹国」と「狗奴国」の中枢領域がある可能性が高いと考える。

④もしこの仮説が妥当だとすれば、三世紀前半の日本列島西半部(南西諸島を除く)には、「邪馬壹国連合体圏」「狗奴国圏」「銅鐸圏(東鯷人の後裔)」の少なくとも三つの異文化圏が存在していたことになる。さらに、西南諸島部には「投馬国圏」、奈良盆地には侵入後に閉塞状態であった「ヤマト入植圏(神武の系統)」が存在したであろう。

⑤これらの視点に立てば、古田氏が説を変遷させる起点となった「読者からの指摘」の問題も解消する。「狗奴國」は「邪馬壹國」と「投馬國」に直接的に南北に挟まれてはいなかったことになるからである。
 「投馬國」が九州の南方の海域にあったと想定することにより、私の内部では、三世紀の日本列島の状況がより鮮明になったと感じる。会員諸兄の御批評を乞う。当会報に賛否に拘わらずコメントをお寄せ戴ければ幸いである。

   (二〇一九年五月二十一日浄書了)


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