2019年 6月11日

古田史学会報

152号

1,天平宝字元年の功田記事より
 服部静尚

2,「船王後墓誌」の宮殿名
大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か
 古賀達也

3,『史記』の中の「俀」
 野田利郎

4,「東鯷人」「投馬国」
「狗奴国」の位置の再検討
 谷本茂

5,『邪馬一国の証明』が復刻
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学
十八・「磐井の乱」とは何か(2)
古田史学の会事務局長 正木裕


古田史学会報一覧

 『史記』の中の「俀」 野田利郎(会報152号)

『隋書俀国伝』の「本国」と「附庸国」 行路記事から見える事 阿部周一(会報148号)


『史記』の中の「俀」

姫路市 野田利郎

 『隋書』の東夷伝では「倭国」でなく「俀国」と書く。「俀」の使用は『隋書』のみと思っていたが、『史記』にある諸侯の内、魯の君主の名に「俀」があった。
 この「俀」が君主となるとき嫡子二名が殺害され、庶子の「俀」が不正に継承したことが特記されている。『隋書』の「俀国」の由来に関する参考と思われるので、ご報告する。

 

一.『史記』の構成と「俀」

 『史記』は紀元前九一年頃に司馬遷が著した、黄帝から前漢の武帝までの史書である。『史記』は「本紀」十二巻、「表」十巻、「書」八巻、「世家」三十巻、「列伝」七十巻から成る。この内、「俀」は「表」と「世家」に人名として記載され、二つの「俀」は同一人物を指している。

 

二.「世家」の魯国

 世家とは諸候が天子を囲繞いじょうして、輔弼の任を尽くす家柄の世系伝記である。「俀」は「世家」三十巻の内、第三(史記巻三十三)の魯周公世家の君主宣公の名である。
 魯は周代、春秋時代、戦国時代に亘って存在した国である。代々の魯公(魯の君主)の爵位は侯爵であり、姓は姫である。周公旦の子伯禽はくきんが成王によって封ぜられて成立した。
 魯周公世家の「文公十八年二月から宣公一八年」の原文と訳は次の通りである。
原文・訳ともに明治書院の新釈漢文大系、吉田賢抗著『史記五(世家上)』を用いた。同書は、瀧川亀太郎著の「史記会注考証」を底本とする。
(原文)
 十八年二月,文公卒。文公有二妃。長妃齊女哀姜,生子惡及視。次妃敬?,嬖愛,生子俀。俀私事襄仲,襄仲欲立之。叔仲曰、不可。襄仲請齊惠公。惠公新立,欲親魯,許之。
 冬十月,襄仲殺子惡及視而立俀。是為宣公。哀姜歸齊。哭而過市曰、天乎、襄仲為不道,殺適立庶。市人皆哭。魯人謂之哀姜。魯由此公室卑,三桓彊。
 宣公俀十二年,楚莊王彊,圍鄭。鄭伯降。復國之。
 十八年,宣公卒,子成公黑肱立,是為成公。季文子曰:「使我殺適立庶失大援者,襄仲。」襄仲立宣公,公孫歸父有寵。宣公欲去三桓,與晉謀伐三桓。會宣公卒,季文子怨之,歸父奔齊。

(訳)
 十八年二月に文公が没した。文公には妃が二人あった。正夫人は齊の公女の哀姜あいきょうで、惡あくと視を生んだ。側室は敬嬴けいえいで、嬖愛されて俀たいを生んだ。俀はひそかに公子の襄仲じょうちゅうに親しみ近づいた。襄仲は、子の俀を君に立てようとしたが、叔仲しゅくちゅうが「いけない」というので、襄仲は齊の惠公けいこうに助力を請うた。惠公は即位したばかりで、魯と親善をのぞんでいたので、これを許した。
 冬十月、襄仲は惡と視を殺して俀を立てた。これが宣公である。哀姜は齊へ帰って行った。途中、哭泣しながら町の盛り場を通って、「ああ、天よ、襄仲は無道にも嫡子を殺して庶子を立てました」と、悲しみ叫んだ。町場の人たちはみな哭泣した。
 こんなわけで、魯の国の人々は彼女を憐れんで哀姜といった。魯はこうしたことから公室の権威がおちて、三桓が強盛になった。
 宣公俀の十二年,楚の莊王の軍は強大で、鄭ていを包囲した。鄭伯は降服したが、又、これをもとに返した。
 十八年に宣公は没し、子の黒股こくこうが立った。これが成公である。これより先、季文子きぶんしは「わが魯をして嫡子を殺して庶子を立て、齊という大国の援助を失わせたのは、あの襄仲だ」と言ったが、すでに襄仲は宣公を立て、その子の公孫帰父は宣公の寵遇を得ていた。宣公は三桓を退けたいと思って、晋の援助を得て三桓を伐とうと謀ったが、たまたま宣公は死んでしまわれた。季文子はこうしたことで襄仲を怨んでいたので、帰父は齊へ出奔した。
(語釈)
①俀 音はタイ。左伝に「倭」に作り、一説に「接」に作る。いま俀に従う。(注1)

②襄仲 魯の公子で名を遂という。襄仲は魯の君主荘公の子で、文公の側室の敬嬴と私通していたという。桓公から宣公までの君主は次の通り。
・桓公(允)前七一一年―前六九四年
・荘公(同)前六九三年―前六六二年
・閔公(啓)前六六一年―前六六〇年
・僖公(申)前六五九年―前六二七年
・文公(興)前六二六年―前六〇九年
・宣公(俀)前六〇八年―前五九一年

③三桓さんかん 桓公の子で、荘公の弟である孟孫・叔孫・季孫の三氏。それぞれ分かれて代々魯の実権を握る。

 

三.「表」の「俀」

 『史記』にある十個の年表の内、「十二諸候年表第二」(史記巻十四)に魯国の宣公俀の記載がある。「十二諸候年表」は十二の諸候国を、それぞれ年代別に記した年表となっている。前六〇九年、六〇八年の魯国に宣公の記事がある。原文、訳ともに明治書院発行の新釈漢文大系、寺門日出男著『史記三上(十表一)による。中華書局出版の『史記』を底本し、滝川亀太郎『史記会注考証』などを参照したとある。
(原文)
(イ)前六〇九年、文公一八年 襄仲殺嫡,立庶子為宣公。
(ロ)前六〇八年 魯宣公俀元年。魯立宣公,不正,公室卑。

(訳)
(イ)前六〇九年、魯の襄仲は文公の嫡子を殺して庶子を立て、宣公とした。
(ロ)前六〇八年 魯の魯宣公俀の元年。魯は宣公を国君に立てたが、正しい継承でなく、魯の公室は権威が地に落ちた。

 

四.『隋書』の「俀」との関連

 史記の魯公の「俀」は、本来の継承者である嫡子二名を殺害し、擁立された君主である。宮廷クーデターといえる。年表は、このことを特大し、短い文で「魯立宣公、不正」(魯、宣公を立てるが不正)と書いている。
 唐代に『隋書』を著した、魏徴が日本列島からの使者の国に「俀国」の文字を充てた時、『史記』では、「俀」が「不正に継承した君主」と書かれていることを知らなかったとは思われない。
 隋書の「俀国」とは「倭国」を「不正に継承した国」であることが考えられる。このような視点からの「俀」の考察がなかったので、本報告となった。
 なお、次の「注」に記載したように、二十四史百衲本では魯公世家記の宣公の即位前を「俀」、即位後を「倭」とする。ただし、同版本の表は即位後も「俀」となっている。また、その他の版本では即位後も「俀」であり、仮に、「俀」が即位前としても、「俀」が魯国の宣公を指すことは確かである。

(注1)
 『史記』の二十四史百衲本には、魯公世家記の宣公の即位前を「俀」、即位後を「倭」と書いている。このことに関し、昭和六十一年頃に千歳氏と古田氏との議論があったので補足する。
(一)千歳竜彦氏は史記の百衲本の「俀」と「倭」とは明らかに同一人であるから、隋書の「倭」と「俀」を同じ国であることの論拠とした。(一九八六年発行、『市民の古代第八集』、「『日本書紀』と『隋書』」)

(二)古田武彦氏は千歳稿に対し、『古代は沈黙せず』の第五篇「古典研究の根本問題」で次のような論評を行った。

①「史記会注考証」、「標点本」はすべて「俀」とするが、「二十四史百衲本」では「倭」と「俀」を区別する。現存、最古の版本による「二十四史百衲本」で一ページ前後の短文に二つの文字を使用しているのは書写の誤りなどでなく、「有意」つまり「故意」に記載したものである。

②「俀」は「よわい」、「倭」は「みにくい」意味である。隋書は史記の区別を継承し、北朝へ朝貢した時期を「俀国」とし、南朝に朝貢した時期を「倭国」とした。その上で、「俀国」内の異権力から朝貢した国を「倭国」としたと説明する。


 これは会報の公開です。

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