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「船王後墓誌」の宮殿名
大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か
京都市 古賀達也
一、はじめに
七世紀の金石文である「船王後墓誌」に記された宮殿名について、晩年の古田説では同墓誌は九州王朝系のもので、そこに記された各天皇は九州王朝の「天皇(旧、天子)」であり、その宮殿は福岡県と山口県にあったとされました。この古田説に対して、わたしは反対意見を述べたことがありました。本稿では古田先生との問答を紹介し、同金石文が近畿天皇家系のものであることを説明します。
二、「船王後墓誌」の天皇の宮
その古田説とは次のようなものでした。ミネルヴァ書房(二〇〇九年七月二〇日)『なかった 真実の歴史学』第六号に収録された「金石文の九州王朝 歴史学の転換」から「船王後墓誌」の要旨を抜粋します。
【要旨抜粋】
「船王後墓誌」(大阪、松岳山出土、三井高遂氏蔵)
(表)
「惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第
(裏)
三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」
《訓よみくだし》
「惟おもふに舩氏、故王後首おびとは是れ舩氏中祖王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀おさだの宮に天の下を治らし天皇の世に生れ、等由羅とゆらの宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦あすかの宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故ありこの刀自とじと共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古とらこの首おびとの墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固ろうこせんがためなり。」
《趣意》
第一、舩氏の(故)王後の首は、舩氏の中祖に当る王智仁の首の子、那沛の(故)首の子である。
第二、彼(舩王後)は三代の天皇の治下にあった。まず、「オサダの宮の天皇」の治世に生れ、次いで「トユラの宮の天皇」の治世に奉仕し、さらに「アスカの宮の天皇」の治世に至り、その「アスカ天皇」の末、辛丑年(六四一)の十二月三日(庚寅)に没した。
第三、(アスカ)天皇は彼の才能がすぐれ、功勲のあったために、「大仁」と「第三品」の官位を賜わったのである。
第四、その後(二十七年経って)妻の安理故、刀自の死と共に、その大兄、刀羅古の首の墓と一緒に、三人の墓を作った。彼らの霊を万代に弔い、この宝地を固くするためである。
【抜粋終わり】
以上の各天皇の宮に対する通説の比定は次のとおりです。
①乎娑陀宮 敏達天皇(五七二~五八五)
②等由羅宮 推古天皇(五九二~六二八)
③阿須迦宮 舒明天皇(六二九~六四一)
この比定に対して古田先生は次の疑問を提示されました。
(一)敏達天皇は、日本書紀によれば、「百済大井宮」にあった。のち(四年)幸玉宮に遷った。それが譯語田おさだの地とされる(古事記では「他田宮」)。
(二)推古天皇は「豊浦宮」(奈良県高市郡明日香村豊浦)にあり、のち「小墾田おはりだ宮」(飛鳥の地か。詳しくは不明)に遷った。
(三)舒明天皇は「岡本宮」(飛鳥岡の傍)が火災に遭い、田中宮(橿原市田中町)へ移り、のちに(十二年)「厩坂うまやざか宮」(橿原市大棘町の地域か)、さらに「百済宮」に徒うつった、とされる。
(四)したがって推古天皇を“さしおいて”次の舒明天皇を「アスカ天皇」と呼ぶのは、「?」である。
(五)しかも、当、船王後が「六四一」の十二月三日没なのに、舒明天皇は「同年十月九日の崩」であるから、当銘文の表記、「阿須迦天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。」と“合致”しない(この点、西村秀己氏の指摘)。
(六)その上、右の「時期」の中には、多くの「天皇名」が欠落している。
(1)用明天皇(五八五~五八七)
(2)崇峻天皇(五八七~五九二)
以上、「六四一」以前
(3)皇極天皇(六四二~六四五)
(4)孝徳天皇(六四五~六五五)
(5)斉明天皇(六五五~六六一)
(6)天智天皇(六六一~六七一)
(7)弘文天皇(六七一~六七二)
(8)天武天皇(六七三~六八六)
当銘文成立(六六八頃)以前
(七)「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の「治世年代」は“永かった”と見られるが、舒明天皇の「治世」は十二年間である。
(八)当人(舩王後)は、「大仁」であり、「第三品」であるから、きわめて高位の著名人であるが、日本書紀には、敏達紀、推古紀、欽明紀とも、一切出現しない。最大の「?」である。
古田先生は以上の疑問を挙げられ、次の仮説(理解)を提唱されます。
三つの「天皇の宮室」の名は、いずれも九州王朝の「天皇(旧、天子)の宮室」名である。もし「近畿天皇家の宮室」だったならば、右のように諸矛盾“錯綜”するはずはない。その上、何よりも「七世紀中葉から末(七〇一)」までは「評の時代」であり、「評督の総監督官」は「筑紫都督府」である。
「乎娑陀おさだ宮」 曰佐(乎左) (福岡県那珂郡。和名類聚抄。高山寺本)博多の那珂川流域の地名。
「等由羅宮とゆら」 豊浦宮(山口県下関市豊浦村)
日本書紀の仲哀紀に「穴門豊浦宮」(長門、豊浦郡)(二年九月)とある「豊浦宮」。
「阿須迦宮あすか」 飛鳥あすか。福岡県小郡市の「飛鳥の浄御原の宮」。
そしてこれらの三宮とも、神籠石山城の分布図の内部に「位置」しており、「わたしの判断を“裏付ける”」とれさました。
三、天皇末年と九州年号改元の不一致
「船王後墓誌」の宮殿名や天皇名に関する古田説に対して、最初に鋭い指摘をされたのは正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)でした。それは、墓誌に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」の阿須迦天皇の末年とされる辛丑年(六四一)やその翌年に九州年号は改元されておらず、この阿須迦天皇を九州王朝の天皇(天子)とすることは無理というものでした。
六四一年は九州年号の命長二年に当たり、命長は更に七年(六四六)まで続き、その翌年に常色元年(六四七)と改元されています。九州王朝の天子が崩御して九州年号が改元されないはずはありませんから、この阿須迦天皇を九州王朝の天子(天皇)とすることはできないと正木さんは気づかれたのです。
この正木さんの指摘を古田先生にお伝えしたところ、しばらく問答が続き、「阿須迦天皇の在位期間が長ければ『末』とあってもそれは最後の一年のことではなく、後半の数年間を指すと解釈できる」と結論づけられました。その解釈が次の文章となったわけです。
〝(五)しかも、当、船王後が「六四一」の十二月三日没なのに、舒明天皇は「同年十月九日の崩」であるから、当銘文の表記、「阿須迦天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。」と“合致”しない(この点、西村秀己氏の指摘)。〟
〝(七)「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の「治世年代」は“永かった”と見られるが、舒明天皇の「治世」は十二年間である。〟
古田先生の論稿ではこの順番で論理を展開されていますが、当初、わたしとの問答では(七)の「解釈」が先にあって、その後に西村さんの意見(五)を取り入れて自説を補強されたのでした。しかし、それでもこの古田説は成立困難と、わたしは古田先生や西村さんに反対意見を述べました。
四、「阿須迦天皇の末」の意味
「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇」の在位期間が長ければ『末』とあってもそれは最後の一年のことではなく、晩年の数年間を指すと解釈できるとする古田先生は、西村秀己さんの次の指摘を根拠に「阿須迦天皇」を舒明天皇とする通説を否定されました。
すなわち、舒明天皇は辛丑年(六四一)十月九日に崩じており、船王後が没した十二月三日は舒明在位期間中ではなく、墓誌の「阿須迦天皇の末」とは合致しないとされたのです。この西村さんの指摘はわたしも西村さんから直接聞いていたのですが、次の理由から賛成できませんでした。
①舒明天皇は辛丑年(六四一)十月九日に崩じているが、次の皇極天皇が即位したのはその翌年(六四二年一月)であり、辛丑年(六四一)の十月九日より後は舒明の在位期間中ではないが、皇極天皇の在位期間中でもない。従って辛丑年(六四一)を「阿須迦天皇(舒明)の末」年とする表記は適切である。
②同墓誌が造られたのは「故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬」と墓誌にあるように、戊辰年(六六八年)であり、その時点から二七年前の辛丑年(六四一)のことを「阿須迦天皇(舒明)の末」年と表記するのは自然であり、不思議とするにあたらない。
③同墓誌中にある各天皇の在位期間中の出来事を記す場合は、「乎娑陀宮治天下 天皇之世」「等由羅宮 治天下 天皇之朝」「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」と全て「○○宮治天下 天皇之世(朝)」という表記であり、その天皇が「世」や「朝」を「治天下」している在位期間中であることを示す表現となっている。他方、天皇が崩じて次の天皇が即位していないときに没した船王後の没年月日を記した今回のケースだけは「阿須迦天皇之末」という表記になっており、正確に使い分けていることがわかる。
④以上の理由から、「西村指摘」は古田説を支持する根拠とはならない。
このような理由により、むしろ同墓誌の内容(「阿須迦天皇之末」)は『日本書紀』の舒明天皇崩御から次の皇極天皇即位までの「空白期間」を正しく表現しており、同墓誌の解釈(「阿須迦天皇」の比定)は、古田説(九州王朝の天皇)よりも通説(舒明天皇)の方が妥当であるとわたしは理解しています。
五、「阿須迦天皇」は舒明天皇のこと
「船王後墓誌」の「阿須迦天皇」を九州王朝の天皇(旧、天子)とする古田説が成立しない決定的理由は、阿須迦天皇の末年とされた辛丑年(六四一)やその翌年に九州年号は改元されておらず、この阿須迦天皇を九州王朝の天皇(天子)とすることは無理とする「正木指摘」でした。
すなわち、六四一年は九州年号の命長二年に当たり、命長は更に七年(六四六)まで続き、その翌年に常色元年(六四七)と改元されています。六四一年やその翌年に九州王朝の天子崩御による改元がなされていないことから、この阿須迦天皇を九州王朝の天子(天皇)とすることはできないとされた正木さんの指摘は決定的です。
この「正木指摘」を意識された古田先生は次のような説明をされました。
〝(七)「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の「治世年代」は“永かった”と見られるが、舒明天皇の「治世」は十二年間である。〟
古田先生は治世が長い天皇の場合、「末年」とあっても没年のことではなく晩年の数年間を「末」と表記できるとされたわけです。しかし、この解釈も無理とわたしは考えています。それは次のような理由からです。
① 「『阿須迦天皇の末』という表記から見ると、当天皇の『治世年代』は“永かった”と見られる」とありますが、「末」という字を根拠に「治世が永かった」とできる理由が不明です。そのような意味が「末」という字にあるとするのであれば、その同時代の用例を示す必要があります。
② 「船王後墓誌」には「阿須迦天皇之末歳次辛丑」とあり、その天皇の末年が辛丑と記されているのですから、辛丑の年(六四一)をその天皇の末年(没年)とするのが真っ当な文章理解です。
③ もし古田説のように「阿須迦天皇」が九州王朝の天皇(旧、天子)であったとすれば、「末歳次辛丑(六四一)」は九州年号の命長二年に当たり、命長は更に七年(六四六)まで続きますから、仮に命長七年に崩御したとすれば、末年と記された「末歳次辛丑(六四一)」から更に五年間も「末年」が続いたことになり、これこそ不自然です。
④ さらに、「末歳次辛丑(六四一)」が「阿須迦天皇」の没年でなければ、墓誌の当該文章に「末」の字は全く不要です。すなわち、「阿須迦天皇之歳次辛丑」と記せば、「阿須迦天皇」の在位中の「辛丑」の年であることを過不足なく示せるからです。古田説では、こうした不要・不自然で、「没年」との誤解さえ与える「末」の字を記した理由の説明がつかないのです。
以上のことから、「船王後墓誌」に記された天皇名や宮殿名を九州王朝の天子とその宮殿とする解釈よりも、『日本書紀』に記述された舒明天皇の没年と一致する通説の方が妥当と言わざるを得ません。
六、墓誌銘の史料性格
また、古田先生は〝(六)その上、右の「時期」の中には、多くの「天皇名」が欠落している。〟として、「船王後墓誌」には当時の近畿天皇家の多くの天皇名が欠如していることを自説の根拠の一つにされています。しかし、これは墓誌銘という「船王後墓誌」の史料性格を無視したものと言わざるを得ません。
限られたスペースに被葬者の生前の主たる業績などを記すという墓誌銘の史料性格から、その業績に関係する天皇やその宮を過不足なく記せば墓誌の目的は果たせるのですから、『日本書紀』のような歴史書と同様に全天皇名や宮を記す必要など全くありません。従って、この古田先生の指摘は、「船王後墓誌」には九州王朝の天皇とその宮のことが記されているという根拠にはなり得ません。
七、「天子」と「天皇」の格付け
古田先生は晩年において、近畿から出土した金石文に見える「天皇」や「朝廷」を九州王朝の天皇(天子)のこととする仮説を次々に発表されました。その一つに今回取り上げた「船王後墓誌」もありました。今から思うと、そこに記された「阿須迦天皇」の「阿須迦」を福岡県小郡市にあったとする「飛鳥」と理解されたことが〝ことの始まり〟でした。
この新仮説を古田先生がある会合で話され、それを聞いた正木さんから疑義(正木指摘)が出され、後日、古田先生との電話でそのことについてお聞きしたのですが、先生は正木さんの疑義に納得されておられませんでした。古田先生のご意見は、「天皇」とあれば九州王朝の「天皇(天子)」であり、近畿天皇家は七世紀中頃において「天皇」を名乗っていないと考えられていることがわかりました。そこでわたしは次のような質問と指摘をしました。
① 従来の古田説によれば、九州王朝の天子(ナンバー1)に対して、近畿天皇家の「天皇」はナンバー2であり、「天子」と「天皇」とは格が異なるとされており、近畿から出土した「船王後墓誌」の「天皇」もナンバー2としての近畿天皇家の「天皇」と理解するべきではないか。
② 法隆寺の薬師仏光背銘にある「天皇(用命)」「大王天皇(推古)」は、七世紀初頭の近畿天皇家が「天皇」を名乗っていた根拠となる同時代金石文であると古田先生は主張されてきた(『古代は輝いていた Ⅲ』二六九~二七八頁 朝日新聞社、一九八五年)。
③ 奈良県の飛鳥池遺跡から出土した天武時代の木簡に「天皇」と記されている。
④ こうした史料事実から、近畿天皇家は少なくとも推古期から天武期にかけて「天皇」を名乗っていたと考えざるを得ない。
⑤ 従って、近畿から出土した「船王後墓誌」の「天皇」を近畿天皇家のものと理解して問題なく、遠く離れた九州の「天皇」とするよりも穏当である。
以上のような質問と指摘をわたしは行ったのですが、先生とは合意形成には至りませんでした。
八、飛鳥池出土木簡の証言
古田先生が近畿から出土した金石文に見える「天皇」や「朝廷」を九州王朝の天皇(天子)のこととする仮説を発表された前提として、近畿天皇家は七世紀中頃において「天皇」を名乗っていないとされていました。わたしは飛鳥池遺跡出土木簡を根拠に、天武の時代には近畿天皇家は「天皇」を名乗るだけではなく、自称ナンバーワンとしての「天皇」らしく振る舞っていたと考えていました。そのことを次の「洛中洛外日記」に記していますので、抜粋転載します。
【以下、転載】
第四四四話 2012/07/20
飛鳥の「天皇」「皇子」木簡
(前略)古田史学では、九州王朝の「天子」と近畿天皇家の「天皇」の呼称について、その位置づけや時期について検討が進められてきました。もちろん、倭国のトップとしての「天子」と、ナンバー2としての「天皇」という位置づけが基本ですが、それでは近畿天皇家が「天皇」を称したのはいつからかという問題も論じられてきました。
もちろん、史料批判を経た同時代金石文や木簡から判断するのが基本で、『日本書紀』の記述をそのまま信用するのは学問的ではありません。古田先生が注目されたのが、法隆寺の薬師仏光背銘にある「大王天皇」という表記で、これを根拠に近畿天皇家は推古天皇の時代(七世紀初頭)には「天皇」を称していたとされました。
近年では飛鳥池から出土した「天皇」木簡により、天武の時代に「天皇」を称したとする見解が「定説」となっているようです。(中略)
他方、飛鳥池遺跡からは天武天皇の子供の名前の「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」などが書かれた木簡も出土しています。こうした史料事実から、近畿天皇家では推古から天武の時代において、「天皇」や「皇子」を称していたことがうかがえます。
さらに飛鳥池遺跡からは、天皇の命令を意味する「詔」という字が書かれた木簡も出土しており、当時の近畿天皇家の実勢や「意識」がうかがえ、興味深い史料です。九州王朝末期にあたる時代ですので、列島内の力関係を考えるうえでも、飛鳥の木簡は貴重な史料群です。
【転載終わり】
九、「戦後実証史学」の「岩盤規制」
七世紀中頃の前期難波宮の巨大宮殿・官衙遺跡と並んで、七世紀後半の飛鳥池遺跡出土木簡(考古学的事実)は『日本書紀』の記事(史料事実)に対応(実証)しているとして、近畿天皇家一元史観(戦後実証史学に基づく戦後型皇国史観)にとっての強固な根拠の一つになっています。
古田史学を支持する研究者にとって、飛鳥池木簡は避けて通れない重要史料群ですが、これらの木簡を直視した研究や論文が少ないことは残念です。「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡典嗣先生の言葉を繰り返しわたしたちに語られてきた古田先生の御遺志を胸に、わたしはこの「戦後実証史学」の「岩盤規制」にこれからも挑戦します。
なお、「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡先生や古田先生の遺訓を他者に強要するものではありません。
「論証よりも実証を重んじる」という研究姿勢に立つのも「学問の自由」ですから。また、「学問は実証よりも論証を重んずる」とは、実証を軽視してもよいという意味では全くありません。念のため付記します。
〈追記〉本稿で紹介したように古田先生は「西村指摘」を自説の根拠とされましたが、西村氏ご自身はは当古田説には反対とのことです。
(二〇一九年四月十一日、改定記了)
※本稿は「洛中洛外日記」一七三七話~第一七四六話を編集・追記したものです。
これは会報の公開です。
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