『論語』二倍年暦説の史料根拠 (会報150号)
「船王後墓誌」の宮殿名 -- 大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か (会報152号)
前期難波宮「天武朝造営」説の虚構
整地層出土「坏B」の真相
京都市 古賀達也
一、はじめに
学問研究は一直線には進まず、右往左往・二転三転することが常です。自説が絶対に正しいなどとは思わず、自説に欠点や弱点はないだろうか、自説に最も不利な事実は何だろうか、もっと他に有力な説が成立する余地はないのか、などと用心する謙虚な姿勢が大切です。しかし残念ながら当人は自説は正しいと思いこんでいますから、こうした弱点や欠点を自ら見つけることができないのが普通です。したがって論文発表前に研究会などで口頭発表し、批判や意見を仰ぐことが重要となります。
そうした場に恵まれず、一人で間違わずに研究を続けるのは難しいものです。最初に間違ってしまうと、注意してくれる優れた研究者が近くにいないので、その後はどんどん大きく間違ってしまい、論文発表後に他者から指摘されても今更後にも退けず、〝ドツボ〟にはまります。そのような研究者をわたしは何人も見てきましたから、自らがそうならないよう、遠慮なく辛辣に批判してくれる研究者が集う「古田史学の会・関西例会」には感謝しています。〝学問は批判を歓迎する〟のです。
そんなわけで、二〇一九年早々に二転三転したテーマについて紹介します。それは前期難波宮整地層から出土したとされる須恵器坏Bの編年についてです。二〇一八年、「洛中洛外日記」で連載したテーマですが、急展開(転回)しました。
二、七世紀編年の標準須恵器「坏B」
須恵器坏Bの編年とその学問的影響について、次の「洛中洛外日記」で繰り返し論じました。短期間でこれほど同一テーマを論じたのは初めてですが、これは七世紀における土器や遺構の年代が坏Bの編年により大きく変わる可能性があるため、念入りに論じたものです。
○一七五三~一七六二話2018/09/19~29
七世紀の編年基準と方法(一)~(十)
○一七六四~一七七三話2018/09/30~10/13
土器と瓦による遺構編年の難しさ(一)~(九)
○一七八七話2018/11/20
佐藤隆さんの「難波編年」の紹介
○一七八九~一七〇九話2018/11/22
前期難波宮出土「須恵器坏B」の解説(一)~(二)
○一七九三~一七九五話2018/11/30~12/01
前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(一)~(三)
○一七九六~一八〇〇話2018/12/03~07
「須恵器坏B」の編年再検討について(一)~(五)
難波宮整地層から出土したとされる坏Bを根拠に、前期難波宮を天武期の造営とする小森俊寬さん(元・京都市埋蔵文化財研究所)の著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究』(注①)があるのですが、理化学的年代測定や前期難波宮の水利施設から大量に出土した七世紀前半から中頃に編年されている坏Hと坏Gにより、ほとんどの考古学者が孝徳期造営説を支持し、それが通説となっています。
その結果、七世紀後半頃と編年されていた坏Bが、もし前期難波宮整地層から出土していたのであれば、七世紀前半頃発生の可能性が出てきます。そうすると、大宰府政庁Ⅰ期の整地層から出土した坏Bの編年も七世紀前半頃と編年できる可能性が生じ、太宰府条坊都市の造営を七世紀前半とできるかもしれないと、先の「洛中洛外日記」で指摘してきました。
他方、「難波編年」を提唱された佐藤隆さんの報告書(注②)によれば、前期難波宮整地層からは坏Bは出土していないとされており、整地層からの坏B出土を根拠とされている小森さんの見解と齟齬がありました。そこで、「前期難波宮整地層出土須恵器坏B」を記した報告書を捜しました。ようやく見つけたのが『難波宮址の研究 研究予察報告第四』(昭和三六年大阪市教育委員会、一九六一年)にあった「実測図第十一 整地層下並竪穴内出土遺物実測図(Ⅱ)」の「Ⅱ層(難波宮整地層)出土」と解説されている一個の坏B「35」でした。しかし、この坏B「35」についての解説が同報告書にはなく、そのことがずっと気になっていました。そこで大阪歴博に赴き、再度当時の報告書を精査したところ、思わぬ記述が別の報告書にあるのを発見したのです。
三、坏Bは後期難波宮整地層から出土
『難波宮址の研究 研究予察報告第四』に掲載されている坏B「35」の解説記事を探したところ、『難波宮址の研究 研究予察報告第五 第二部』(昭和四〇年大阪市教育委員会一九六五年)に坏B「35」と思われる須恵器[7](注③)とそれよりも大きい須恵器坏B[8]の図面(Fig.11 難波宮整地層出土土器、二四頁)や写真(第十四次 東地区整地層下灰色土層出土遺物〔須恵器〕Fig.11-7、九五頁)が掲載されており、次のように説明されていました。
「坏(7・8) いずれも聖武朝難波宮造営時の再整地層と思われる部分から出土したもので、いずれも体部が外傾し、底部に高台のつく式である。(7)は口縁復元径14.4㎝、器高4.6㎝で、全体暗褐色を呈し、軟質である。(8)は口縁復元径19.3㎝、器高5.3㎝の大形で、堅緻なつくりのものである。」(二六頁)
更に坏7と坏8の年代について次のように説明されています。
「その出土が聖武朝時の再整地層に限定せられることから、その存続年代の一点を聖武朝難波宮の造営期間―神亀三年(七二六年)から天平六年(七三四年)頃のうち、初期の段階に近い時期に想定することができる。」(三一頁)
このように、小森さんが天武朝説の根拠とされた整地層出土の坏Bは聖武朝の後期難波宮の「整地層(再整地層)」からの出土だったのです。報告書には聖武朝時の再整地層からの出土と記されているにもかかわらず、前期難波宮整地層からの出土品として、天武朝造営説の根拠とされたのです。すなわち、出土層位の誤解に基づいて、前期難波宮の天武朝造営説が発表され、孝徳期造営説との論争が続けられてきたのです。なお、この坏7と坏8も小森さんは著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究』で難波宮整地層出土として「14-7」「14-8」の表記で提示されています。
ちなみに、同報告書が発行された昭和四十年当時は、聖武朝期の遺構がようやく本格的に出土してきた時代であり、「前期難波宮」や「後期難波宮」という学術用語が報告書にはまだ現れていない時代です。もちろん、前期難波宮の全容など不明な時期です。ですから、整地層も「前期」「後期」と厳密に呼び分けられることなく「難波宮整地層」という表記が使用されています。そのため、小森さんは「難波宮整地層」を前期難波宮整地層と勘違いされた可能性もありますが、同報告書には「その出土が聖武朝時の再整地層に限定せられる」などと数カ所にそれとわかるように記されており、それら全てを見落とされたのであれば不用意というほかありません。
四、瓦堆積層から出土していた坏B
小森さんの著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究』には、「35」「14-7」「14-8」以外にも「51」「52」という坏Bが掲載されており、その出典調査も行いました。
その坏B「51」「52」は『難波宮址の研究 第七 報告編(大阪府道高速大阪東大阪線の工事に伴う調査)』(大阪市文化財協会、一九八一年三月)で報告されていました。出土地は「MP-1区」と命名された「森ノ宮ランプ」の場所です。当該須恵器は「難波宮跡」として報告された層位から出土しており、「Fig.44 難波宮整地層内出土須恵器」(九四頁)にその断面図が「51」「52」として掲載されています。いずれも底部に高台を持ち、坏Bに間違いありません。この「51」「52」の出土地や出土状況について、次のように説明されています。
「今回報告する調査地区は、難波宮跡の中枢部を断続的に横断しており、その内容は多岐にわたるので、瓦塼類の出土地点建物との関係については表4に示した。瓦塼類の総量はコンテナバットに約一〇〇箱で、軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦・熨斗瓦・面戸瓦・塼がある。軒丸瓦は九型式四七点のうち新型式が一、軒平瓦は十型式四五点のうち新型式が二ある。
内裏地域の瓦塼類の出土は瓦堆積や掘立柱抜き取り穴など後期難波宮の遺構に伴っている。MP-1区出土の瓦類は、掘立柱建物SB10021の柱抜取り穴とその直上層の瓦包含層からその大半が出土しており、それらは建物SB10021に葺かれた屋瓦と考えることができる。」(八一頁)
「51・52はこれらの蓋に伴う高台をもつ坏で、51は七五次調査南トレンチ三区の瓦堆積出土、52は七五次調査中央トレンチ十一区難波宮整地層上堆積層出土である。」(九三頁)
このように坏Bの「51」「52」が出土した遺構と当該層位は、瓦がコンテナバットに約一〇〇箱も出土した瓦葺きの後期難波宮の「堆積層」であることが示されています。「52」に至っては「難波宮整地層上堆積層出土」と、整地層の上の堆積層からの出土と説明されています。小森さんはこれらの説明を全て見落とし、両坏Bを前期難波宮整地層からの出土と誤解され、前期難波宮天武朝造営説を唱えられていたのです。
わたしの前期難波宮九州王朝副都説に対する批判の根拠として小森さんの天武朝造営説が利用されてきたのですが、この小森説が出土事実に対する誤解の産物(誤論)であったことがわかり、あの長期にわたったわたしへの批判や論争は何だったんだろうと残念な気持ちです。しかし、この経験により〝学問は批判を歓迎する〟という言葉が正しかったことを改めて確信することができました。おかげで、わたしは七世紀の須恵器編年を本格的に勉強することができ、考古学に関する知見を深めることができました。批判していただいた方々に感謝します。
五、小森さんの誤読・誤解の原因
小森さんの誤解を誘発した『難波宮址の研究 第七』での「難波宮整地層出土」という表記ですが、このことについて、大阪歴博学芸員の松尾信裕さんにその事情をお聞きすることができました。およそ次のような理由により、「前期難波宮整地層」や「後期難波宮整地層」ではなく「難波宮整地層」という表記を採用されたことがわかりました。
①整地層からは様々な時代の土器が出土するために、整地層造営時の編年が出土土器からは困難なケースが多い。
②難波宮整地層の上には前期難波宮と後期難波宮が造営されており、その遺構や遺物が併存して出土する。そのため、前・後どちらの造営時か不明な場合は、「難波宮整地層」という表現に留めるのが学問的に正確である。
③その「整地層」出土遺物の編年は個別の出土状況や共伴遺物から、前期難波宮時代のものか後期難波宮時代のものかを判断しなければならない。
④今回の坏Bの出土状況や層位については、報告書に後期難波宮時代の「瓦堆積層」からのものとわかるように明記している。
以上のように、考古学的に正確な表記を採用されていたことがわかりました。こうした学問的に厳密な配慮により報告書が書かれているにもかかわらず、小森さんは考古学者としての当然の学問的配慮を理解されないまま、天武朝造営説を提起されたと言わざるを得ません。
なお付言しますと、難波宮整地層上に焼土などが堆積していた場合は、それを『日本書紀』朱鳥元年(六八六)条に見える難波宮火災の痕跡と見なすことができ、その「焼土」の下の整地層は六八六年以前に存在した前期難波宮整地層と判断できます。しかしながら、その整地層内からは様々な時代の土器が出土しますから、その土器を根拠に整地層造営年代の判定は困難でした。
結果として前期難波宮造営年代の最大の根拠となったのは、井戸がなかった前期難波宮の水利施設が宮殿近くの谷から出土し、その水利施設造営時期の層位から大量に出土した坏Hと坏Gが根拠となって、前期難波宮造営を七世紀中頃と編年することができました。更に、その水利施設から出土した桶の木枠の年輪年代測定が六三四年であることや前期難波宮のゴミ捨て場の谷から出土した「戊申年(六四八年)」木簡、前期難波宮北側の柵跡から出土した木柱の年輪セルロース酸素同位体比年代測定による最外層年輪の年代(七世紀前半)などが土器編年とのクロスチェックとなり、ほとんどの考古学者の支持を得て、前期難波宮孝徳期造営説が通説となったことは、これまでも説明してきた通りです。
六、太宰府政庁Ⅰ期出土坏Bの〝壁〟
小森さんの天武朝造営説は、その根拠とした坏Bの出土層位(後期難波宮整地層)を前期難波宮の整地層と誤解した結果であることがわかり、わたしの疑問は氷解しました。前期難波宮九州王朝副都説(孝徳期造営)への批判の根拠の一つにこの小森さんの説が採用されていたのですが、他者の論文を精査することなく使用することの危うさが感じられた一件でした。
前期難波宮造営時期についての論争は改めて決着がついたのですが、このことにより更に重要な問題が自説に立ちはだかることになりました。それは九州王朝の都、太宰府条坊都市の造営を七世紀前半とする文献史学の研究に基づく仮説(注④)が出土土器の編年と一致しないという問題です。
太宰府市や九州歴史資料館の考古学者の見解では、太宰府条坊から七世紀前半の土器の出土は確認されておらず、条坊都市造営を七世紀前半とすることには考古学的根拠がないとのことです。この考古学的事実が自説成立にとって最も困難な〝壁〟でした。なんとか土器編年の見直しができないものかと考え、天智期とされている太宰府政庁Ⅰ期整地層出土坏Bの編年を、前期難波宮整地層出土とされた坏Bを根拠に五十年ほど遡らせることができるかもしれないと、わたしは期待したのですが、その可能性と構想が今回の追跡調査により壊れ去りました。
七、おわりに
学問研究にとって大切なことの一つに、自説にとって最も不都合な事実に着目するという姿勢があります。自説に有利な事実のみに依拠し、不利な事実や見解に対しては、たとえば〝一元史観の考古学者の編年など信用できない。自説にあわないから無視してよい〟とする論者を見かけますが、この姿勢は学問的に間違っています。自説に不利な事実から逃げることなく、研究を続ける精神力が学問には必要です。わたしはあきらめることなく、太宰府出土土器の編年研究を続けます。(二〇一九年一月三一日、記了)
(注)
①小森俊寬『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、七~十九世紀-』(京都編集工房、二〇〇五年十一月)
②佐藤隆『難波宮址の研究 第十一 前期難波宮内裏西方官衙地域の調査』(二〇〇〇年三月、大阪市文化財協会)
③『難波宮址の研究 研究予察報告第四』掲載須恵器「35」と『難波宮址の研究 研究予察報告第五 第二部』掲載須恵器[7]が同じ土器であると判断したのは次の資料事実等による。
(a)それぞれの図版を比較すると、両土器のサイズや形態が近似している。
(b)『研究予察報告第四』には発掘調査地区名(出土地)を「第十二次北地区」とされている。他方、『研究予察報告第五』では「第十四次東地区(第十二次北地区)」と併記されており、「第十二次北地区」と「第十四次東地区」が同じ場所であることを示している。
(c)『研究予察報告第四』には須恵器「35」以外に子持勾玉「37」が掲載されているが、その勾玉と同型同サイズで破損箇所も同じ子持勾玉「6」が『研究予察報告第五』に掲載解説されている。このことから、『研究予察報告第四』では解説無しで実測図に掲載された出土物が『研究予察報告第五』で再録解説されていることがわかる。同様の再録遺物はこの他にも見える。
このように『研究予察報告第四』の実測図に解説無しで掲載された須恵器「35」などを、次号の『研究予察報告第五』で再録解説した事情について、両報告書の執筆者である中尾芳治氏に確認したいと考えている。
④古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) 観世音寺と水城の証言」『古田史学会報』五〇号、二〇〇二年六月。
古賀達也「『大宰府』建都年代に関する考察 九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判」『古田史学会報』六五号、二〇〇四年十二月。
古賀達也「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』一一〇号、二〇一二年六月。
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