滋賀県出土法隆寺式瓦の予察(会報149号)
前期難波宮「天武朝造営」説の虚構 -- 整地層出土「坏B」の真相 (会報151号)
『論語』二倍年暦説の史料根拠
京都市 古賀達也
一、はじめに
二〇一八年四月の「古田史学の会」関西例会で、わたしは「『論語』二倍年暦説の論理構造」を発表したのですが、批判意見が出され論争となりました。その批判意見の一つとして、『論語』そのものからは二倍年暦との論証は成立しておらず、『論語』の時代の前後の「周代」史料(『管子』『列子』)に二倍年暦が採用されていても、『論語』が二倍年暦で記されているとは限らないというものでした。
わたしの理解では『論語』の前後に相当する「周代」史料に二倍年暦が採用されていれば、その間に位置する『論語』も二倍年暦と捉えるのが「周代」史料に対する基本的理解であり、『論語』だけは一倍年暦とする側にこそ論証が求められると考えています。しかし、関西例会での論争(わたしからの説明)では納得していただけなかったため、どのような史料や論理を提示すれば説得できるだろうかと思案しました。
関西例会では論争がよく勃発するのですが、大半はわたしがその当事者です。論争の結果、わたしが間違っていると気づけば自説を撤回しますし、どちらが正しいか判断がつかない場合はペンディングして検討を続けます。また、自説が正しいとは思うが、相手を納得させることができなかった場合は、どうすれば納得してもらえるだろうか、説明のどこが十分・不適切であったのかを考えるようにしています。
学問研究とはこのようにして深化発展するものと確信していますし、異なる意見が出され、論争や検証が行われることこそが大切です。誰からも疑問や反対意見が出なければ、その学説はその時点で発展が止まります。古田史学と言えども例外ではありません。
二、「周代」史料の二倍年暦
わたしが『論語』(孔子〔紀元前五五二~四七九年〕)の時代の「周代」史料に二倍年暦が採用されているとした根拠は次の「周代」史料でした。
■『管子』(春秋時代〔?~紀元前六四五年〕、管仲の作とされる)
「召忽曰く『百歳の後、わが君、世を卜る。わが君命を犯して、わが立つところを廃し、わが糺を奪うや、天下を得といえども、われ生きざるなり』。」(大匡編)
■『列子』(春秋戦国時代〔紀元前四〇〇年頃〕の人、列禦寇の書とされる)
「人生れて日月を見ざる有り、襁褓を免れざる者あり。吾既に已に行年九十なり。是れ三楽なり。」(「天瑞第一」第七章)
「林類年且に百歳ならんとす。」(「天瑞第一」第八章)
「穆王幾に神人ならんや。能く當身の楽しみを窮むるも、猶ほ百年にして乃ち徂けり。世以て登假と為す。」(「周穆王第三」第一章)
「役夫曰く、人生百年、昼夜各々分す。吾昼は僕虜たり、苦は則ち苦なり。夜は人君たり、其の楽しみ比無し。何の怨む所あらんや、と。」(「周穆王第三」第八章)
「太形(行)・王屋の二山は、方七百里、高さ萬仞。本冀州の南、河陽の北に在り。北山愚公といふ者あり。年且に九十ならんとす。」(「湯問第五」第二章)
「百年にして死し、夭せず病まず。」(「湯問第五」第五章)
「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」(「楊朱第七」第二章)
■『荘子』(紀元前三六九~二八六年頃の人、荘周の書とされる)
「今、吾れ子に告ぐるに人の情を以てせん。目は色を視んと欲し、耳は声を聴かんと欲し、口は味を察せんと欲し、志気は盈(み)たんと欲す。人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。病瘻*びょうゆ・死喪しそう・憂患ゆうかんを除けば、其の中、口を開いて笑う者、一月の中、四、五日に過ぎざるのみ。天と地とは窮まりなく、人の死するは時あり。時あるの具ぐを操とりて、無窮の間かんに託す、忽然こつぜんたること騏驥ききの馳せて隙げきを過ぐるに異なるなきなり。」(盗跖篇第二十九)
※病瘻*びょうゆの 瘻*は、強いて言えば、「やまいだれ」に由の下に八。
■『荀子』(周代末期の人、荀況〔紀元前三一三?~二三八年〕の思想を伝えたもの)
「八十の者あれば一子事とせず。九十の者あれば家を挙こぞって事とせず。」(巻第十九、大略篇第二十七)
「古者、匹夫は五十にして士つかう。天子諸侯の子は十九にして冠し、冠して治を聴く其の教至ればなり。」(巻第十九、大略篇第二十七)
■『礼記』(周代から漢代の儒教関係の書を編集したもの。前漢代の成立か。)
「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す。三十を壮といい、室有り(妻帯)。四十を強といい、仕う。五十を艾といい、官政に服す。六十を耆といい、指使す。七十を老といい、伝う。八十・九十を耄という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」(曲礼上篇)
■『曾子』
「三十四十の間にして藝なきときは、則ち藝なし。五十にして善を以て聞ゆるなきときは、則ち聞ゆるなし。七十にして徳なきは、微過ありと雖も、亦免ゆるすべし。」(曾子立事)
「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(曾子疾病)
※各生没年には諸説がある。周代の二倍年暦採用が正しければ、これら年代の西暦との対応も見直さなければならない。
以上の「百歳」のような超高齢記事の存在から、『管子』をはじめ『荀子』『礼記』に至るまで「周代」史料の「年齢記事」が基本的に二倍年暦で著されているとわたしは判断しました。したがって“『論語』だけは一倍年暦で記述されていた”と理解する方が不自然です。
なお、ここで紹介した「周代」史料とは、必ずしも周代で成立したというわけではなく、周代の説話や史料に基づいて、後の漢代に成立した史料を含みますが、具体的な年齢記事は周代の記録をそのまま採用したと考えています。なぜなら、成立時代(一倍年暦の時代)の寿命の二倍の年齢にわざわざ変更し、当時としては不自然な長寿年齢(百歳など)に書き換える必要や必然性はないからです。逆に、その当時の一倍年暦の認識により、「百歳」とあった「周代」史料の年齢記事を不審として、「五十歳」と一倍年暦に換算することはあり得ます。その場合は、「周代」史料でありながら、年齢記事は換算修正された一倍年暦表記となります。
三、孔子の弟子の二倍年暦
わたしは二倍年暦から一倍年暦への公権力による暦法変更は秦の始皇帝による度量衡の統一の頃に行われたのではないかと推定しています(まだ史料根拠は見つかっていません)。そうしたことから、漢代成立史料に「百歳」とかの二倍年暦による「長寿」記事が散見されるという史料状況が発生します。逆から言えば、周代における二倍年暦の存在がなければ、そのような史料状況は発生しません。もし周代からずっと一倍年暦であれば、漢代に成立した「周代」史料に「百歳」などという長寿記事は空想の産物でもなければ出現できないのです。
「周代」史料に散見する「百歳」などの超長寿記事は通常の会話(説話)部分にも出現しており、当時の人々の普通の認識として語られています。たとえば、孔子の弟子の曾参の会話として次のような記事が『曾子』に見えます。
「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)
この記事は「曾子曰く」で始まり、曾参が親孝行について述べたもので、その普通の会話中に「人の生るるや百歳の中」という普通の人を対象にした発言です。従って、当時の一般的な人間の二倍年暦による「百歳(一倍年暦の五十歳)」の人生中に「疾病あり、老幼あり。」と記していることからも、孔子の弟子の曾参は二倍年暦により寿命や年齢を認識していたと考えざるをえません。この史料事実から、曾参の師である孔子も二倍年暦により年齢を認識をしていたと考えるのが真っ当な文献理解です。
四、『論語』二倍年暦の論証
『論語』中に年齢記事はそれほど多くなく、一倍年暦で七十歳(孔子の年齢記事「七十従心」)の当時としては長寿の人がたまたまいたという解釈も一応は可能です。そこで、別の視点から『論語』の年齢記事が二倍年暦と理解すべき論理(論証)について説明します。
たとえば孔子の弟子の曾参が二倍年暦で語った 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)以外に、『曾子』には次の年齢記事が見えますが、先の記事が二倍年暦であれば、これも二倍年暦記事と考えなければなりません。
「三十四十の間にして藝なきときは、則ち藝なし。五十にして善を以て聞ゆるなきときは、則ち聞ゆるなし。七十にして徳なきは、微過ありと雖も、亦免(ゆる)すべし。」(『曾子』曾子立事)
大意は、三十~四十歳で無芸であったり、五十歳で「善」人として有名でなければ大した人間ではないというものですが、これは二倍年暦による年齢表記ですから、一倍年暦の十五~二十歳、二十五歳ということになります。これと類似した「人物評価」が『論語』にも見えます。「後生畏るべし」の出典となった次の記事です。
「子曰く、後生畏る可し。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみ。」(『論語』子罕第九)
この記事も四十歳五十歳になっても名声が得られないようであれば、とるに足らない人間であるという趣旨で、先の『曾子』と同じように四十~五十歳(一倍年暦の二十~二十五歳)が人間評価の基準年齢としています。従って、先の『曾子』の記事が二倍年暦であることから、この『論語』の記事も二倍年暦で語られたと理解すべきです。また、記事の内容から考えても、当時の古代人にとって五十歳は一般的には「寿命の限界」、あるいは高齢ゾーンであり、そうした「最晩年」に名をなしていなければ畏るるにたらない、というのでは全くナンセンスです。このことをわたしは『論語』二倍年暦説の史料根拠と指摘してきましたし、古田先生も同様の見解を発表されています(『古代史をひらく』ミネルヴァ書房、二四三頁)。
以上の理由により、『論語』も二倍年暦で記されているとするのが穏当な史料理解です。
五、二倍年暦と「二倍年齢」
二倍年暦研究をしていて、いつも悩まされる問題がありました。それは二倍年暦から一倍年暦への変化に伴って発生する「二倍年齢」という概念でした。すなわち、天文観測技術の発展により一年を三百六十日(より正確には三百六十五日)とする一倍年暦が発明され、公権力により一倍年暦の暦法が採用されたのですが、このとき人間の年齢だけは従来の二倍年暦で計算するという「二倍年齢」表記が一倍年暦の暦法と共に併存する現象が発生しうるという問題です。一倍年暦を採用した公権力が年齢計算でも一倍年暦を同時に採用していればことは簡単なのですが、今までの研究結果からは「一倍年暦暦法下の二倍年齢表記」という史料痕跡が存在しており、『論語』についてもその可能性をどのように論理的に排除できるのかという視点が必要となります。
一例をあげれば、記紀に記された継躰天皇の寿命が『古事記』では四十二歳(四八五~五二七)、『日本書紀』では八十四歳(四五〇~五三四)となり、継躰天皇の寿命が『古事記』との比較から『日本書紀』では二倍年暦に基づいた痕跡を示しています。すなわち、『日本書紀』に見える継躰の生年が「二倍年齢」により没年から逆算して記されたと思われます。しかし、『日本書紀』は一倍年暦で編年されていますし、継躰天皇の時代であれば、九州王朝は年号を建元しており、当時採用していた暦法が一倍年暦であったことを疑えません。
この史料事実は、暦法は一倍年暦の時代でも、人の年齢は二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」で計算され伝承されたことを示しているのです。ですから一倍年暦と「二倍年齢」併存の可能性を疑うという視点が、二倍年暦研究における史料批判には必要です。
六、後世の「百歳」記事
「周代」史料に散見する「百歳」記事により、周代では二倍年暦での百歳を人間の一般的な寿命と認識されていたと考えられますが、この「百歳」という表記は一倍年暦の時代になっても、一倍年暦の「五十歳」に換算されることなく、そのまま「一人歩き」した痕跡が後代史料に残っています。たとえば唐代の白楽天の詩にも次のような「百歳」が見えます。
「人生百歳 通計するに三万日 何ぞいわんや百歳の人 人間じんかん百に一もなし」(白楽天「対酒」)
二倍年暦の認識がない唐代において「人生百歳」という表現がそのまま残っているのですが、「そんな長寿の人は百人に一人もいない」という詩です。同じ唐代の大詩人李白も「百歳(年)」という周代成立の表記を使用した次の詩を作っています。
「百年三万六千日 一日すべからく三百杯を仰ぐべし」(李白「襄陽歌」)
「白髪三千丈」と詠った李白らしく、「百年」を生涯の意味で用いた詩です。他方、「百歳」という超寿命に疑義を示した史料もあります。中国の古典医学書『黄帝内経素問』に見える、黄帝から天師岐伯への質問です。
「余われ聞く、上古の人は春秋皆百歳を度えて動作は衰えず、と。今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰うるというは、時世の異なりか、人将さにこれを失うか。」(『素問』上古天真論第一)
このように二倍年暦による「百歳」を一倍年暦表記と理解したため、「今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰う」のは「時世の異なりか」と質問したわけです。ということは、この記事の成立時は既に一倍年暦の時代になっており、そのときの人の一般的寿命が百歳ではなく五十歳と認識されていたことがわかります。この『黄帝内経素問』の書名は『漢書』芸文志に見えることから、前漢代に編纂されたようです。同書はその後散逸しており、唐代に編集された『素問』『霊柩』として伝えられています。
このような暦法の変化による後世への影響発生に似た事例として、里単位の変遷があります。たとえば周代の「短里(一里約七十六m)」により成立した「千里馬(一日千里〔約七十六㎞〕を駆ける名馬)」という用語が、「長里(一里約四百三十五m)」の時代でも名馬を意味する「慣用句」として使用されるのですが、長里ですと一日四百三十五㎞を駆ける空想上のペガサスの話になってしまいます。
人間の寿命を「百歳」とした周代の二倍年暦の実在を認めなければ、「千里馬」と同様に、古代における人間の寿命記事に対しても正しい理解が得られないのです。同時に『素問』のこの記事は周代の二倍年暦実在の証拠でもあるのです。
七、日本の「百歳」記事
「周代」史料の「百歳」記事が、わが国ではどのようにとらえられていたのかについてご紹介します。
わたしが九州年号研究において、江戸時代の学者たちが九州年号をどのようにとらえていたのかの調査で、筑前黒田藩の儒者、貝原益軒の著作を調べていたときに次の記事に注目しました(貝原益軒は九州年号偽作説)。
「人の身は百年を以て期となす。上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり。六十以上は長生なり。世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し。人生七十古来まれなり、といへるは、虚語にあらず。長命なる人すくなし。五十なれば不夭と云て、わか死にあらず。人の命なんぞ如此みじかきや。是、皆、養生の術なければなり。」(『養生訓』巻第一)
この「人の身は百年を以て期となす」という益軒の認識は「周代」史料に基づいています。たとえば『礼記』に次の記事が見えます。
「百年を期といい、やしなわる。」(『礼記』曲礼上篇)
また「上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり」も「周代」史料の『荘子』の次の記事によると思われます。
「人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。」(盗跖篇第二十九)
筑前黒田藩の儒者である貝原益軒が、これら儒教の著名な古典を知らなかったとは考えられません。『養生訓』の記事から判断すると、益軒は「周代」史料に見える「百歳」などの超長寿記事が二倍年暦とは考えもつかなかったようで、そのため「世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し」と記したのでしょう。
先に紹介した『黄帝内経素問』の「年半百(五十歳)」という表現と同様に、ここでも「周代」史料の「百歳」記事に対してちょうど半分の「五十以下短命なる人多し」としており、江戸時代の日本人の一般的な寿命が五十歳以下と認識されていたことがわかります。これら『黄帝内経素問』『養生訓』の記事によれば、中国の周代から日本の江戸時代に至るまで、人間の一般的な寿命が五十歳と認識されており、人類史上初の長寿社会に生きているわたしたちは、この寿命の推移に留意する必要があります。現代の寿命認識で古典の年齢記事を理解することは危険です。
八、超長寿社会での誤解
文献史学や古典の史料批判というテーマから離れて、そもそもなぜ『論語』二倍年暦説への批判が発生するのかという現代日本人の認識について考えてみることにします。
『論語』二倍年暦説への反対意見には通底する「共通誤解」があるのではないでしょうか。それは紀元前数百年頃の周代においても「七十歳や八十歳を越える長寿の人は少なからず存在していた」とする考えが暗黙の前提となっているようです。この認識は学問的根拠を持たない「錯覚」ではないかとわたしは思っています。かく言うわたしも同様に錯覚していました。
わたしは古代における二倍年暦の研究過程で、周代のような紀元前数百年頃の人間の寿命は五十歳かせいぜい六十歳までで、それを越えるケースは極めて希ではないかと考えるようになりました。その理由の一つは、「周代」史料の二倍年暦による高齢寿命記事は管見では「百歳(一倍年暦の五十歳)」か「百二十歳(一倍年暦の六十歳)」までであり、「百四十歳(一倍年暦の七十歳)」「百六十歳(一倍年暦の八十歳)」とするものがほとんど見えないことです。すなわち周代の人間の寿命は五十~六十歳頃が「限界」のようなのです。
他方、人類史上初の超長寿社会(平均寿命は女性約八十七歳、男性約八十一歳。二〇一六年厚生労働省調査)に突入した現代日本に生きるわたしたちが、人間の寿命が古代においても七十歳や八十歳に及ぶ例が少なからずあったのではないかと錯覚するのも無理からぬことですが、その日本においても平均寿命が五十歳を越えたのはそれほど昔のことではありません。このことを説明した武田邦彦さん(中部大学教授)の著書を紹介します。
「一九二〇年代前半の日本人の平均寿命は男性が四十二・一歳、女性は四十三・二歳でした。赤ちゃんのときに他界する方を除いても五十歳には達しません。江戸時代には四五歳くらいで隠居するのが普通でしたが、昭和になっても五十歳を越えたら確実に『老後』でした。」(武田邦彦『科学者が解く「老人」のウソ』産経新聞出版、二〇一八年三月)
このように大正から昭和初期の日本でもこれが実態でした。紀元前数百年頃の周代の実状はおして知るべしです。
(二〇一八年十月一日、筆了)
これは会報の公開です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。古田史学会報一覧へ
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"