新・万葉の覚醒(Ⅰ)・(Ⅱ)正木裕
盗まれた氏姓改革と律令制定 (上)・(下) 正木裕
神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」とは何か 正木裕(会報156号)
新・万葉の覚醒(Ⅱ)
万葉集と現地伝承に見る「猟に斃れた大王」
川西市 正木 裕
一、人麿作の「吾大王」の猟の歌
前号では、古田武彦氏の見解に基づき、万葉集を「歴史史料」として扱う際には、編者が後から付加した「題詞は二次資料」で、作者が作った「本文が一次資料」であること、題詞と本文に齟齬がある場合は、本文をもとに考えるのが原則であり、こうした立場からは、万葉一九九番歌の「皇子」は、歌の「本文の内容」から「夏の壬申の乱で活躍した高市皇子」ではなく、「真冬の半島で戦い、白村江で囚われた九州王朝の皇子薩夜麻」であり、父の「吾大王」とは天武ではなく、九州王朝の天子(大王)であり、九州年号常色元年(六四七)に即位し、同白鳳元年(六六一)に崩御した人物となると述べた。(注1)
本稿では、この「吾大王」は、人麿の万葉歌では「猟」と関係して歌われることが多くあり、そこに「吾大王」の崩御の経緯と、百済が唐に滅ぼされる際には半島に出兵しなかった倭国(九州王朝)が、白鳳改元後劣勢が明らかな「百済遺臣」の支援に大軍を送り、その結果白村江で大敗北を喫した原因が隠されていることを明らかにしたい。
1、万葉二三九番で歌われるのは長皇子ではなく「吾大王」
そこで「吾大王」が歌われる万葉歌を順次取り上げ、その内容を分析しよう。まず題詞では「長皇子」の猟の際の歌とされる、人麿作の万葉二三九番から始める。(*括弧内は原文の表記)
◆万葉二三九番歌 長皇子遊猟路池之時柿本朝臣人麿作歌
やすみしし 吾大王 高照らす 吾日の皇子の 馬並めて 御猟り立たせる 若薦を 猟路の小野に 獣こそば(十六社者) い匍ひ拝め 鶉こそ い匍ひ廻れ 獣じもの(四時自物) い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻り 畏みと 仕へまつりて ひさかたの 天見るごとく まそ鏡 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき 吾大君かも
◆万葉二四〇番 ひさかたの 天帰の月を網に刺し 我大王は盖きぬがさにせり
長皇子は天武と天智の娘大江皇女の間に出来た皇子で、序列は一位。和銅八年(七一五)に没している。通説では、題詞に基づき、猟にでた長皇子を、獣や鶉までもが威光にひれ伏し拝み仰ぎ見るのだと解釈されている。しかし、「やすみしし(世界を隅々まで統べる)」との枕詞は「皇子」ではなく最高権力者たる者(天子・天皇。ここでは「吾大王」)に用いられるものだから、「やすみしし 吾大王」とは長皇子ではないことになる。
2、「獣や鶉」の描写は「吾大王の死を悼んでひれ伏す姿」
しかも、「獣や鶉」の描写は前号で示した人麿の一九九番歌と対比して考えれば「威光にひれ伏す姿」にはならないのだ。二三九番歌と同じ「獣や鶉の匍い伏す姿」が、一九九番歌では「吾大王」とその皇子の「葬送」際に、「死を悼んでひれ伏す姿」として歌われている。
◆万葉一九九番歌。(略)
吾大王 皇子の御門を 神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲の 麻衣着て 埴[垣]安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 獣じもの い匍ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を 振り放け見つつ 鶉なす い匍ひ廻り 侍へど 侍ひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも 未だ過ぎぬに 思ひも 未だ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして あさもよし 城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ 。
通常の二三九番歌の解釈では、人麿が「威光にひれ伏す」描写にも、「死を悼んでひれ伏す」描写にも、同じ句を「使いまわした」ことになる。しかしそうではなく、同じ「吾大王」を歌っているのだから、二三九番もまた「葬送」の際の歌だった、だから人麿は同じ句を用いたのだと考えるべきではないか。一九九番歌を知っている者(聞いたり読んだりした経験のある者)からすれば、「獣や鶉」が歌われれば、同じ葬送の情景を思い浮かべることになるだろうからだ。ちなみに、「四時自物(ししじもの)」「十六社者(ししこそは)」は「四×四=十六」を詠み込んだ人麿ならではの優れた技巧となっているが、同時に「しし」の音は「死死時・死死者」をも連想させるものなのだ。
また、二四〇番の「天帰」は通常「天行あまゆく」と読まれている。しかし、これは原文から離れた「意訳」で、「あまき・あまぎ」と読むのが自然だ。そうであれば「天に帰る」即ち「崩御した」意味を含むことになる。つまり、葬送に際し獣や鶉が「天に帰る吾大王」を仰ぎ拝みながら見送った歌となるだろう。
前号で一九九番歌中の「城上きのへの殯宮」は大和には見出し難いが、筑紫朝倉郡には存在することを指摘した(*上座かむつあさくら郡「城邊」)。そして、「天帰」を「あまき・あまぎ」と読むなら、同じ朝倉には、この読みに通じる「甘木あまぎ」(*古代の「夜須郡」のうち。元は甘木市、現在は朝倉市甘木)が存在する。これらの二首は同じ「吾大王」を歌い、「獣や鶉」の表現も共通する。従って、「同じ地域」それも筑紫朝倉付近の出来事を題材とした可能性が高いのではないか。
人麿は「天帰」の語に①天に帰る(崩御)②地名の「甘木」③月が帰る時刻(早暁)の意味を込め、「いつ(早暁に)・どこで(筑紫朝倉・甘木付近で)・誰が(吾大王が)・どうした(猟で崩御した)」ということを見事に詠み込んだのだ。
3、万葉四五番~四九番歌に猟で死んだ「吾大王」を偲ぶ歌が
さらに、人麿の万葉四五番~四九番歌にも「吾大王」の猟の歌がある。「黄葉の 過ぎにし君が 形見」とあるから、これも故人を偲ぶ歌だ。
◆万葉四五番歌 軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麿作歌
やすみしし 吾大王 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて こもりくの(隠口乃) はつせの山は(泊瀬山者) 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて
◆万葉四六番歌 安騎あきの野に 宿る旅人 うち靡き 寐いも寝ぬらめやも いにしへ思ふに
◆万葉四七番歌 ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉もみじばの 過ぎにし君が 形見とぞ来し
◆万葉四八番歌 東の野に かぎろひの立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ(月西渡)
◆万葉四九番歌 日並皇子(ひなみしのみこ 日雙斯 皇子)の命の 馬副そへて(日雙斯 皇子命乃 馬副而)み猟り立たしし時は来向ふ
題詞では「軽皇子(文武の皇子時代の名称)」の猟の歌とあり、そこから、通説では、四五番歌の「吾大王(日の皇子)」を軽皇子に、四九番の「日並皇子」を草壁皇子にあて、軽皇子が安騎の野に猟に行き、父草壁皇子を偲んだ歌とする。
しかし、先述のとおり「やすみしし吾大王」とあるからには、軽皇子も草壁皇子も「吾大王」にはあたらない。「日の皇子」と「日並皇子」は別人で、天子(大王)が「日」、その「日」に並ぶ存在(日並)が皇子という位取りとなろう。そして四九番歌には「馬副而うまそへて」とあるから、「皇子」が「吾大王」の横に馬を並べて猟に出た情景を歌ったものとなろう。(注2)
結局ここで偲ばれている人物は、軽皇子でも草壁皇子でもなく、我が国の№1の、日の皇子たる「やすみしし吾大王」だと考えられる。
二、猟で没した「吾大王」
1、「吾大王」が没した「安騎の野」は筑紫「秋月盆地」
そして、四七番歌では「安騎の野」が形見だと歌う。これは「安騎の野」で没した、だからわざわざ故人を偲びに訪れたとしか考えられない。つまり「吾大王」は「安騎の野」で没した、だから彼を偲んで訪れたことになろう。通常「安騎の野」は奈良県宇陀市の大宇陀町付近とされ、阿紀神社にこの歌の句碑もあるが、草壁皇子がこの地で没したことは無いし、文武が草壁を偲ぶ、特段の「よすが」となるエピソードも無い。
また、四五番歌には「隠口乃こもりくの 泊瀬山」とあり「隠口」は隠来・隠国・隠久とも書かれ、「泊瀬(初瀬・長谷)」の枕詞とされる。しかしなぜ「隠口」が泊瀬の枕詞となるのか、その理由・由緒は定かではない。
ところで、筑紫朝倉には甘木とともに「秋月」(注3)がある。『筑前国続風土記』(貝原益軒、一七〇三年)にはその「秋月盆地」を、入口である「長谷山口」の地形・地理を踏まえて「隠口の初瀬」と呼んでいる。
◆『筑前国続風土記』(巻之十夜須郡)
北は八丁に、西は長谷山はせやま口、南は湯の浦に、東は野鳥口なり、秋月の西なる山を観音山という。此の山にて秋月を隠し、山の外よりは見えず。彌長やながの方より谷を上りゆけば、秋月ほどの里はあるべしとも見えず、あたかも隠口の初瀬のごとし。
「彌長」は現在の「弥永(いやなが 福岡県朝倉郡筑前町弥永)」だが、ここから秋月を見ると「長谷山口」付近で両側から山が迫り、盆地は隠され「入り口」だとは容易に分からない。まさに「隠口の初瀬」と呼ぶに相応しい地勢となっている。(注4)
また、「都を置きて」山道を越えればそこが「安騎の大野」だと歌うが、秋月は筑紫の都たる「太宰府」や、甘木方面から草葉川(宝満川支流)、小石原川(筑後川支流)沿いに「谷を上った」先に開けている。さらに、「秋月ほどの里はあるべしとも見えず」とは「国そのものも隠れている」ことで、「隠国」との表現に相応しい。また「秋月ほどの里」との表現は秋月盆地が、相当の広さを持つことを示している。
このように、「秋月の野」こそ「安騎の大野」に相応しいといえよう。
2、「隠久乃 始瀬乃山」で「吾大王」が亡くなった
そして万葉四二〇番歌では、その「隠久乃 始瀬乃山」で「吾大王」が亡くなったと記す。これも題詞では忍壁親王の子石田王を偲ぶ歌とされるが、『続日本紀』などにも見えない「ただの王」を「吾大王」というのも不自然だ。万葉四五番歌と同じ「隠口乃 泊(始)瀬山」で亡くなったのなら、同じ「吾大王」と考えるべきだろう。(注5)
◆万葉四二〇番歌 石田王卒之時丹生王作歌一首
なゆ竹の とをよる御子 さ丹つらふ 我が大君は(「吾大王者」)こもりくの 初瀬の山に(「隠久乃 始瀬乃山尓」)神さびに 斎きいますと 玉梓の 人ぞ言ひつる およづれか 我が聞きつる たはことか 我が聞きつるも 天地に 悔しきことの 世間の 悔しきことは 天雲の そくへの極み 天地の 至れるまでに 杖つきも つかずも行きて 夕占問ひ 石占もちて 我が宿に みもろを立てて 枕辺に 斎瓮を据ゑ 竹玉を 間なく貫き垂れ 木綿たすき かひなに懸けて 天なる ささらの小野の 七節菅 手に取り持ちて ひさかたの 天の川原に 出で立ちて みそぎてましを 高山の 巌の上にいませつるかも(「石穂乃上尓伊座都類香物」)
◆万葉四二一番歌 およづれのたはこととかも 高山の 巌の上に 君が臥やせる(「石穂乃上尓 君之臥有」)
◆万葉四二二番歌 石上布留の山なる杉群の 思ひ過ぐべき君にあらなくに
(同石田王卒之時山前王哀傷作歌 或本反歌二首)
◆万葉四二四番歌 こもりくの泊瀬娘子が手に巻ける 玉は乱れてありと言はずやも」
◆万葉四二五番歌 川風の寒き長谷を嘆きつつ 公きみが歩くに似る人も逢へや
3、「吾大王」の猟場も秋月周辺に
さらに万葉三番歌と四番歌にも「我大王」の猟の様子が歌われている。◆万葉三番歌 天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌
やすみしし 我大王の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし み執らしの 梓の弓の 奈加弭なかはずの 音すなり 朝猟に 今立たすらし 夕猟に 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 奈加弭の 音すなり
◆万葉四番歌反歌
たまきはる 内の大野に 馬數なめて 朝ふますらむ 其の草深野
この歌で猟場とされる「内野・大野」が甘木や秋月の周辺に存在する。
大宰府のすぐ東北の「三郡山地」(北は玄海灘から筑紫平野と直方平野の間を東南に約六〇㎞伸び福岡県を二分する山地。宝満山・三郡山・砥石山等がある)の山麓に大野(飯塚市内住)があり、『筑前国続風土記』にも「大野といふ所あり。是れまた内住ないじう村に属せり。(略)神功皇后此の所を過ぎたまひし時、山中にはめづらしき大なる野なりとのたまひし故、大野と名づく。」と記される。その南東が内野(飯塚市内野)で、JR筑前内野駅があり、そこをさらに東南に進んだところが秋月だ。内野の東には「猟野(かんの 桂川町猟野)」「猪鹿(とろく 飯塚市猪鹿)」があり、一体が猟場であったことを偲ばせる。
4、九州王朝の大王は「題詞」で天皇家の皇子と入れ替えられた
このように、万葉歌で歌われる「吾大王」は、「題詞」からは万葉四五番では草壁皇子、一九九番歌では天武、二三九番では長皇子、二四〇番では石田王など様々な天皇家の皇子に擬えられているが、「本文」に記す地名や地理、その内容から、実際は九州年号白鳳元年(六六〇)に崩御した九州王朝の「吾大王」であり、奈良の宇陀なる「泊瀬」ではなく、「隠口」の「長谷山」を超えた「筑紫秋月盆地(安騎の大野)」で猟の際に没した大王と考えられる。ちなみに、故古田武彦氏は二三九番歌について、万葉歌の「題詞と本文」の史料批判をもとに、次のように述べている。
◆「本来九州王朝の王者に対する追悼歌であって、人麿の歌を、万葉集(巻三)は、まったく別個の大和飛鳥の皇子(長皇子、天武天皇の第四皇子)の生前の“猟歌”“猟からの凱旋歌”であるかのように、『偽構』し、『変修』した。これが万葉集の手法である」(『古代史の十字路―万葉批判』)
三、死して雷山に祀られた九州王朝の「吾大王」
1、人麿の万葉歌の「雷岳」は筑紫「雷山」
万葉二三五番歌には不可解な人麿の「雷岳」の歌がある。
◆万葉二三五番歌 天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麿作歌一首
すめろぎ(皇)は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも
左注 右、或る本に曰はく、忍壁皇子に獻るといへり。その歌に曰はく、大君は 神にしませば 雲隠る 雷山(伊加土山)に 宮敷きいます
「題詞」によれば、これは天皇(持統)が奈良飛鳥の「雷岳(明日香村大字雷の「雷の丘」とする)」に遊行した際の歌だとする。しかし「雷の丘」は高さ一〇mほどの丘で 「天雲の 雷の上」 に「雲隠る」となるはずもなく、もちろん宮の遺跡や古墳も無い。そこで「人麿は雷丘を雨雲や雷に見做した」とか、「遥かな天空を宮に見做して、天皇の神性を称えた」(中西進ほか)等と解釈することになる。しかしこうした解釈はあまりにも「奇矯な発想」といえる。
そもそも「神にしませば(神二四座者)」とは「神であり万能の存在だから」ではなく「崩御されて神となった」ことをいう。
◆万葉二〇五番歌 弓削皇子薨時置始東人作歌
おほきみ(王)は 神にしませば 天雲の 五百重が下に 隠りたまひぬ
一方、筑紫には標高九五五mの「雷山」(福岡県糸島市)があり、古来雷神の鎮座する霊山とされ、中腹に雷神(水火雷電神)を祀る「雷神宮」(*「いかづち神社」とも)があって、古来より雨乞いの神事が行われている。雷山には玄海灘から吹き寄せる風が当り、頻繁に雲が湧き、雨を呼び雷を降らせることで知られている。こうした筑紫「雷山」こそ万葉二三五番歌の「雷岳」「天雲之 雷之上」「雲隠伊加土山」に相応しいといえよう。
万葉二三九番歌には「十六社ししこそ」とあるが、筑紫雷山周辺には「十六社」に相当する「十六しし天神社(*「じゅうろくてんじん」とも)」が集中している。「十六天神社」は糸島市二丈波呂、糸島市二丈武、雷山村山北、福岡市西区太郎丸などにあり、祭神は主に瓊々杵尊や伊弉諾・伊弉册など「天孫族の祖」たちが祀られている。
雷山の頂上には天宮(石宝殿)があり、瓊々杵尊(中殿)、天神七代(左殿)、地神五代(右殿)が祀られ、山麓には雷山千如寺、雷山神籠石なども存在する。「吾大王」がここに祀られたとすれば「天雲の 雷の上に 廬りせるかも・雲隠る 雷山に 宮敷きいます」との表現通りとなろう。
2、万葉歌の「吾大王」の通称は「伊勢王」
そして、万葉一九九番歌から「吾大王」の崩御時期は「白村江直前」と考えられるが、九州年号白鳳元年(六六一)の六月に「伊勢王」が、天智七年(六六八)には「伊勢王と弟王」が薨去している。
◆『書紀』斉明七年(六六一)(白鳳元年)六月「伊勢王、薨みうせぬ」
◆『書紀』天智七年(六六八)(白鳳八年)六月「伊勢王と其の弟王おとみこと日接しきりて薨せぬ」
『書紀』で「伊勢王」は、白雉元年(六五〇)の白雉改元儀式で「白雉を載せた御輿」を担いだほか、「天武末から持統当初」にかけ再三その事績が記されている。
①白雉元年(六五〇)二月十五日(*白雉の輿を担ぐ)
②天武十二年(六八三)十二月十三日(*諸国境堺を定めるため天下を巡行する)
③天武十三年(六八四)十月三日(*諸国の堺を定める)
④天武十四年(六八五)十月十七日(*再度東国に向かう)
⑤朱鳥元年(六八六)正月二日(*無端事あとなしごとに答える)
⑥朱鳥元年(六八六)六月十六日(*飛鳥寺におもむく)
⑦朱鳥元年(六八六)九月二七日(*天武の葬儀で誄をする)
⑧持統二年(六八八)八月十一日(*葬儀を奉宣する)
これらを『書紀記事』のまま信じれば、「伊勢王」は個人名ではなく官職名、あるいは地位の俗称であり、「伊勢王」と称する人物が何代か複数存在したことになろう。
しかし、「白雉改元」は倭国(九州王朝)の事績であり、また、天武・持統紀の記事②~⑧を、古田武彦氏の、「『書紀』の持統天皇の吉野行幸記事は、九州王朝の天子(大王)の事績が三十四年繰り下げられたもの」との論証(注6)に準拠し「三十四年前」に遡らせると、「六四九年(九州年号常色三年)~六五四年(同、白雉三年)」に収まることになる。例えば、「評制」も九州王朝の制度と考えられるところ、諸国境堺確定のため天下を巡行した六八三年の三四年前は六四九年となり、常陸や伊勢で「評制」が施行され、かつ「郡の分割」などが行われている。
3、切り分けられた九州王朝の「吾大王」の事績
つまり、万葉歌で「吾大王」とされる白村江以前の九州王朝の大王(天子)は、『書紀』では「伊勢王」と呼ばれ、その事績が幾つかに切り分けられ、天武・持統紀に繰り下げられたのだと考えられる。
そして、九州年号の改元は天子の交代を意味するから、九州年号白鳳元年(六六一)と白鳳八年(六六八)記事は「重複記事」であり、実際は「白鳳元年」に「伊勢王」即ち万葉歌でいう「吾大王」が没したことになる。
この白鳳元年六月の「吾大王」の崩御と薩夜麻への交代を境に、倭国(九州王朝)の外交・軍事方針が「専守防衛」から「百済支援・半島出兵」へと「唐突」に変わり、早くも八月には百済救援のため大軍を半島に送っている。
◆『書紀』斉明七年(六六一)(白鳳元年)八月に、前将軍大花下阿曇比邏夫連・小花下河辺百枝臣等、後将軍大花下阿倍引田比邏夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石等を遣して、百済を救はしむ。
そうであれば、「伊勢王」崩御は、単なる「猟の際におきた偶発的な事故」でなく、「外交方針を百済支援に変えたい」勢力が関与していた可能性もあるのではないか。「伊勢王と弟王の薨去」という異常事態もそれをうかがわせる。
次号では万葉に歌われる「吾大王」の後を継いだ「皇子」の運命をたどっていきたい。
(注1)本稿は古田武彦氏の『人麿の運命』『古代の十字路 -- 万葉批判』、『壬申大乱』という「万葉三部作」をもとにしたうえで、筆者の見解を加えたものである。
(注2)二三九番歌の原文は「馬並而」で、これなら「馬を並べ(各馬は対等)」でいいが、四九番歌の「馬副而」では「主」があっての「副」だから、馬(当然馬に乗る人物)の間に序列があることになる。従って「吾大王(日の皇子)」の馬に、「皇子(日に並ぶ皇子)」が馬を副(そへ)て(並べて)、猟に出かけた描写とするのが自然だろう。
また四八番歌の「かぎろひの立つ・月西渡」の句も「天帰の月」同様に「早暁の出来事」であることを示している。
(注3)古代の筑前国夜須・下座郡のうち。「城上」も同じ「下座郡」。現在は朝倉市秋月。結局、甘木・秋月・朝倉・城上は一帯の領域を示すことになる。
(注4)秋月城は黒沢監督の映画「隠し砦の三悪人」の舞台となっている。
(注5)万葉歌の読み下しでは「大王」も「王」も、場合によっては「天皇」「皇」も区別せず「おほきみ」とすることが多いが、位により使い分けられていると考えて、原文をも表記すべき。
(注6)古田武彦氏の「三十四年の繰り下げ」論証については前号の(注3)で解説
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