大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1) (その2) (その3)
新・万葉の覚醒(Ⅰ)・(Ⅱ)正木裕
盗まれた氏姓改革と律令制定 (上)・(下) 正木裕
新・万葉の覚醒(Ⅰ)
川西市 正木 裕
一、古田武彦氏の「万葉三部作」と九州王朝の七世紀の歴史
故古田武彦氏は一九九四年の『人麿の運命』に始まり、二〇〇一年の『古代の十字路―万葉批判』、『壬申大乱』までの、いわゆる「万葉三部作」(注1)において、「万葉歌の題詞や左注は二次史料で、本文が第一史料」という「歴史学的視点からの万葉歌の解釈原則」を確立し、この原則をもとに、従来奈良・大和を舞台としたり、近畿天皇家の天皇や皇族を歌ったとされる万葉歌、特に柿本人麿の歌に、本来九州が舞台であったり、九州王朝の大王らを歌ったものがあることを見出された。これにより万葉歌を、九州王朝の「文学作品」と認識することはもちろん、失われていた九州王朝の歴史の復元を可能とする、貴重な「歴史史料」として活用できることとなった。これは九州王朝史の研究における大きな研究成果であり、この分野で同氏の研究の一層の発展・進展が期待されたところだ。
ただ、この時期は『東日流外三郡誌』についての激しい偽書攻撃が展開され、その対応に追われる中で、さらなる万葉関連著作が出版されなかったのは極めて残念なことといえよう。
そこで本稿では、古田氏の残された万葉研究の成果をもとに、万葉歌を多元史観に基づき「誰について・どのような局面で歌われたのか」を再度検証し、「九州王朝の歴史」、特に七世紀後半の時代の歴史の中に位置づけていくこととする。
二、万葉一九九番歌の「皇子と吾大王」
人麿作の万葉一九九番歌は(末尾に抜粋を掲示)、題詞に高市皇子への挽歌と書かれ、通説でもそのように解釈されている。しかし古田氏は、万葉歌の解釈において、「題詞は二次資料、本文が一次資料」であり、題詞と本文が矛盾する場合は本文を正と扱うべきとされ、
①高市皇子が活躍した壬申の乱は夏の戦いであるのに、歌中に「み雪降る・大雪の 乱れて来れ」とあるように、冬、それも厳冬の戦いの歌であること、
②同じく歌中の「背面の国(*北方の国)」「狛劔(*百済に「固麻城」)」「和射見(*同じく「倭山」)「百済の原」「虎か吼ゆ(*虎は大和でなく朝鮮半島にいる)」などから戦地は「半島の百済」と考えられること、
③「城上の宮を常宮と高く奉り」とあるが、大和に「城上きのへの殯宮」は見出しがたく、高市皇子の挽歌とは考えづらいとされた。
そして、
①筑紫朝倉郡には「城上」が存在すること(上座かむつあさくら郡「城邊きのへ」)。
②また、万葉百九十六番に、一九九番と同じ「城上の宮を常宮と定めた」「吾王」の名は明日香皇子とある(御名に懸かせる明日香川)ところ、その朝倉郡に「明日香皇子」を祀る「麻氏氐良布神社」があること、
③白村江で筑紫君薩夜麻が捕虜となったが、その前哨として冬の百済での戦があったこと、などから、この歌は「皇子」といっても天皇家の高市皇子ではなく、九州王朝の明日香皇子に奉げられたもので、明日香皇子とは筑紫君薩夜麻をさす、
とされた。これは周知のところだろう。
ここで問題にしたいのは「皇子」ではなく、「明日香の真神の原に天つ御門を定めて、神さぶと磐隠れ」たとされる「吾大王」だ。つまり「吾大王」は、飛鳥宮を造った後崩御し、今は神として祀られているという。題詞に従えば「吾大王」は高市皇子の父で「明日香の宮」を造ったとあるのだから、当然のように「天武」を指す。しかし、古田氏の解釈では九州王朝における「薩夜麻の前代の天子」になる。(注2)
そして「皇子ながら任したまへば」「嘆きも未だ過ぎぬに」とあるのは、「大王」が崩御し、「皇子」が後を継いでから間もなく「皇子」も「葬る(葬送する)」ことになったという意味だ。尤も結果的に薩夜麻は捕虜になって生存していたのだが、戦後に帰還せず、行方の知れない薩夜麻は当然戦死したと推測されたと考えられる。
つまり、「皇子」が白村江で捕虜となった薩夜麻であれば、「吾大王」とは「六六〇年の白鳳改元前」の九州王朝の天子であり、古田氏が「斉明元年(六五五)から天智二年(六六三)にかけて佐賀なる吉野の宮に三十一回行幸した」とする人物となるのだ。(注3)
三、「吾大王」の即位
この「前代の天子」について、古賀達也氏は「善光寺文書」に「命長七年(六四六)丙子(*正しくは丙午)二月十三日」との日付入りで、天子が重病に落ち、弥陀如来に済度(苦海から救い、彼岸へ導くこと)を願った記事があり、翌六四七年に九州年号が「常色」と改元されていることから、六四六年に多利思北孤の太子「利歌弥多弗利」が崩御し、翌年新天子が即位したのではないかとされている。(注4)
これを示すのが『書紀』の「三十四年後の記事」だ。古田氏は『書紀』の持統天皇の吉野行幸は「九州王朝の天子の佐賀吉野への行幸」が三十四年繰り下げられたものとされたが、六四六年の三十四年後の天武九年(六八〇)十一月丁酉(二六日)に、「天皇、病したまふ。」との記事がある(*六四六年では十一月九日が丁酉で、十四日が辛丑)。
◆天武九年(六八〇)十一月丁酉(二六日)に、天皇、病したまふ。因りて一百僧を渡せしむ。俄ありて愈えぬ。
また、常色元年(六四七)の三十四年後、天武十年(六八一)正月壬申(二日)に幣帛の頒布記事、己丑(十九日)に「天社地社の神の宮の修理」を命じた記事がある。
◆天武十年(六八一)春正月辛未の朔壬申(二日)に、幣帛を諸の神祇に頒あからまだす。(同「壬申」は命長七年十二月十四日)(略)己丑(十九日)に、畿内及び諸国に詔して、天社地社の神の宮を修理らしむ。(同「己丑」は常色元年一月二日)
「幣帛の頒布」とは、国家祭祀の際「官幣」が頒布され、各地の神社に持ち帰り祭神に奉幣するというもの。通常は大嘗祭などで行われるが、「大喪の礼」でも幣帛は頒布される。そして、五月己卯(十一日)には、「皇祖の御魂を祭る」、七月丁酉(三十日)に大解除をおこない、十五日に皇后が経典の説法を命じたとある。
◆天武十年(六八一)五月の己巳の朔己卯(十一日)に、皇祖の御魂を祭る。(三十四年前なら常色元年四月「己卯」二三日か六月「己卯」二四日)
◆天武十年(六八一)七月丁酉(三〇日)に、天下に令して、悉に大解除おおはらえせしむ。此の時に当りて、国造等各祓柱奴婢一口を出して解除す。閏七月の戊戌の朔壬子(十五日)に、皇后、誓願して、大きに斉して、経を京内の諸寺に説かしむ。(同じく常色元年七月「丁酉」十三日、七月「壬子」二八日)
天武十年のこうした時期に、なぜ「天社地社の神の宮」つまり、諸国の社殿の整備がおこなわれたのか、なぜ「皇祖の御魂」が祀られたのか、また「皇祖」とは誰なのか、なぜ「皇后」が説法を命じたのか判然としない。しかし、これらの記事が六四六年から六四七年にかけての「一連の『利』の法要」と「吾天子の即位」に関する行事とすればよく理解できよう(注5)。なお大解除は斎宮選定の儀式の際などにも行われるから、皇后の斎いつき行事(大きに斉して)とも一致する。
また、同じ天武十年正月の丁丑(七日)記事に、「大山上草香部吉士大形に、小錦下位を授けたまふ。仍りて姓を賜ひ難波連と曰ふ。」とあるが、韓国扶余ふよの遺跡から、「那尓波連公なにわのむらじのきみ」と記された木簡が発見されている。扶余は百済が滅亡する六六〇年まで古代百済の首都で木簡も六六〇年までのもの。従って難波連賜姓も常色元年(六四七)に九州王朝の「吾大王」が即位した際の事績となろう。
四、「吾大王」の事績
1、筑紫小郡の飛鳥浄御原宮造営
古田氏の万葉歌の解釈では、この「吾大王」が「明日香の宮」を造ったことになる。そして、『書紀』の大化三年(六四七)には、小郡の宮を造り、礼法を定めたとある。
◆大化三年(六四七)是歳、小郡を壊ちて宮造る。天皇小郡宮に処して、礼法を定めたまふ。其の制に曰はく、「凡そ位あらむ者は、要ず寅時に、南門の外に、左右羅列りて、日の初めて出づるときを候ひて、庭に就きて再拝みて、乃ち庁に侍れ。若し晩く参む者は、入りて侍ること得ざれ。午の時に至るに臨みて、鍾を聴きて罷れ。其の鍾撃かむ吏は、赤の巾を前に垂れよ。其の鍾の台は、中庭に起てよ」
『岩波注』は、この小郡宮は「難波の小郡にあった宮」で、「朝廷の迎賓などの施設の名」とする。しかし、天皇が居して、有位の官僚が「南門外に羅列、庭で再拝し参内、鐘に合せて入退庁する」という描写は、単なる迎賓施設ではなく、相当規模の宮殿や朝庭(おおば 中庭)・朝堂を備えた庁舎であった事を示している。そうした正規の宮を難波宮造宮直前の時期に、場所も難波宮に近接して造営するとは考え難く、そもそも本拠の飛鳥の宮でなく、難波で「律令(礼法は「令」にあたる)」を作ったとするのは不自然だ。
これに対し古田氏は、「小郡」とは「筑紫小郡」のことであり、上岩田遺跡・井上廃寺一帯は、当時「飛鳥」と呼ばれ、小郡の宮とは筑紫小郡に存在し「飛鳥浄御原宮と呼ばれた、九州王朝の宮である」とされた。(注6)
考古学的にも、筑紫小郡の上岩田遺跡(Ⅰ期)には東西約十八m、南北約十五m、高さ約一m強の基壇と、寺院の金堂とみられる瓦葺き建物、及びそれを囲み規則正しく配置された東西二三・四m×南北六m、東西十六・八m×南北六・八mほかの建物群の遺構が見つかり、筑後国府の建物より大型で、単なる「評衙」ではなく、寺院と役所を兼ね、高い機能を備えた施設と推測されている。
その造営時期は、山田寺式軒丸瓦(単弁蓮華紋)の出土、及び天武七年(六七八)の筑紫大地震で倒壊した跡があることから、七世紀半ば(六四〇年代)と考えられ、六四七年の小郡宮造営記事の年代と一致する。
つまり、この小郡の宮が飛鳥(明日香)の宮であれば、造ったのは万葉歌で「吾大王」とされる薩夜麻の前代の九州王朝の天子となる。
2、律令制定と法式改定、評制施行と難波宮造営
次に、「礼法を定む」だが、三十四年後の天武十年(六八一)二月に「律令制定と法式改定」記事がある。
◆二月甲子(二五日)「朕、今より更また律令を定め法式を改めむと欲おもふ。故に倶ともに是の事を修めよ。」
前掲の大化三年の「礼法制定」記事の「其の制に曰はく~」以下の内容は、「律令」(『令義解・令集解』)に記す開閉門条(第一開門の鼓撃は「寅一点」)や暁を奉じる役人(鶏人)は「赤い頭巾の類を着す」とあるのと同じだ(岩波註)。さらに翌天武十一年(六八二)八月にはズバリ「礼法」を指す「礼儀言語の状」「難波朝廷の立礼」の詔が出されている。これらも常色元年~二年の「吾大王」の事績となろう。
「吾大王」は、その後六四九年ごろ全国に評制を施行し、これに対応する難波宮を造営、再び筑紫に還り大野城や水城、筑紫土塁群を整備したことは、これまで再三述べてきたところだ。
その中で「吾大王」は、「佐賀なる吉野」を軍事拠点とし行幸を繰り返すのだが、このことを
①考古学的に立証するのが「大宰府―小郡―吉野」を結ぶ堤土塁であり、
②文献的に示すのが『書紀』斉明二年(六五六)(九州年号では白雉五年)「是歳」の「吉野宮を作る」記事と、「田身嶺たふのみね」に周れる垣を冠したことや「狂心たぶれこころの渠」を穿った記事だ(詳細は省略)。
3、万葉歌に詠み込まれた「吾大王」の事績
そして、これらの事績を詠んだのが、万葉三十六番歌ほかの吉野についての柿本人麿の歌だ。古田氏は『壬申大乱』中の「まぼろしの吉野」において、三十六~三十九番歌を「奈良の吉野宮ではなく佐賀の吉野宮を詠んだもの」とされた(三十七~三十九番は資料)。そして三十六番歌には「吾大王」とある。
◆万葉三十六番 吉野宮に幸しし時柿本朝臣人麻呂の作る歌
やすみしし 吾大王の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 舟並めて 朝川渡る
舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激る 瀧の宮処は 見れど飽かぬかも
奈良の「吉野宮」に比定される宮滝付近には瀧はない(「宮滝には滝はありません」吉野資料館)し、切り立った河岸段丘で舟を並べて競い合える川でない。また「宮滝遺跡」の主要建物は聖武天皇時代のものであり、天武・持統朝では二間×六間と二間×四間の掘立柱建物が東西に二軒あるのみ。とても「太敷いた宮柱」の建物といえない。
一方、佐賀には有名な吉野ヶ里や吉野山があり、嘉瀬川はその吉野山を発し、「瀧の宮処」の句の通り中流に雄淵の滝(佐賀市富士町。高さ七十五m)、下流の旧流路に接して「吉野(兵庫町)」があり、「宮処」の地名もあるのだ。(注7)
そして、『書紀』では難波宮完成後の白雉四年(六五四)(九州年号白雉二年)に斉明らが「倭京」に帰ったとある。そして翌六五五年から延べ三十一回の吉野行幸が始まる。この「倭京」を大和飛鳥ではなく、筑紫と考えれば(注8)、斉明ではなく九州王朝の天子「吾大王」が太宰府に帰り、一連の大工事を始め、佐賀吉野に行幸したことになる。なお、大宰府政庁(二期)の創建が六七〇年頃で、水城や大野城も工事中で未完成だったとすれば、当時はまだ「小郡の飛鳥」に都していた可能性が高いだろう。(注9)
このように人麻呂の歌から、その一端に過ぎないが「吾大王」すなわち九州王朝の大王(天子)の事績を知ることができるのだ。
次回は、彼の崩御も、同じく柿本人麿ほかの万葉歌に詠み込まれており、そこから九州王朝の「崩壊の始まり」が読み解けることを述べる。
(注1)『人麿の運命』(一九九四年三月原書房)、『古代の十字路―万葉批判』(二〇〇一年四月東洋書林)、『壬申大乱』(二〇〇一年十月東洋書林)
(注2)ここでは万葉歌の表記に従い「吾大王」とするが、私は同じ九州王朝の天子について、九州年号をもとにした論考では「常色の君」とか、『書紀』をもとにした論考では「伊勢王」と表記している。
(注3)古田氏は『書紀』に記す持統天皇の「持統三年・九州年号朱鳥四年(六八九)から持統十一年・九州年号大化三年(六九七)四月にかけての、述べ三十一回の吉野行幸」は、三十四年前に九州王朝の天子が佐賀なる吉野の軍事基地を視察した記事を、三十四年繰り下げて盗用したもので、本来は九州年号白雉四年(六五五)~九州年号白鳳三年(六六三)の間のこととする。
ただし、六六〇年以後に行幸したのは、当然後を継いだ薩夜麻となり、そうであれば、薩夜麻が捕囚となったのは、三月の州柔つぬ・避城へさしの戦いではなく、八月の、陸では州柔城を新羅が包囲し、海では直後の白村江で倭国が大敗した時だったと思われる。この時百済王豊璋も一時行方不明になったとされるように、大きな混乱が起きており、薩夜麻の生死や所在が不明になっても当然な状況にあったからだ。
◆『三国史記』(百済記)王扶余豊脱身而走。不知所在。或云奔高句麗。
(注4)◆『善光寺縁起集註』(善光寺文書)「御使 黒木臣 名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩 仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念 命長七年丙子二月十三日 進上 本師如来寶前 斑鳩厩戸勝鬘 上」
これは聖徳太子から善光寺如来へ宛てたものとされるが、六四六年には聖徳太子や太子に擬せられた多利思北孤は没しているところから、多利思北孤の太子「利歌弥多弗利」の書状と考えられる。
古賀達也「『君が代』の『君』は誰か―倭国王子『利歌弥多弗利』考―」(『古田史学会報』三四号一九九九年十月)
(注5)その証拠が赤渕神社縁起の「宮の修理祭礼」記事に残っている。
様々な縁起書の中で、『赤渕宮 神淵寺』には「常色三年六月十五日在還宮為修理祭礼」とあるが、『但州朝来郡牧田郷内高山 赤渕大明神 表米大明神』には「常色三年丁未六月十五日?(遷)宮アリ」とあり「丁未」は常色元年の干支だ。そして『赤渕大明神縁起記』には「定年号常色元年丁未」とあるから、本来は「常色元年丁未六月十五日在還宮為修理祭礼」とあったものと思われる。つまり、常色元年一月に天社地社の修理が命じられ、六月十五日に表米宿祢が宮に還り社を修理、六月「己卯」二四日に祭礼(「利」の法要)を行ったことになる。
(注6)同地は古代には「御原郡」に属し、「ひちゃう(飛鳥)」地名が存在したこと(明治期に「御井郡井上村飛鳥」)、井上地区は長者掘に囲まれ、その「浄水」は同地区の湧水に発し、「飛鳥」地名の場所に流れ込むなど、「浄の御原の宮」と呼ばれるにふさわしいことなどを挙げられた。
なお、上岩田遺跡(Ⅰ期)には、東西約十八㍍、南北約十五㍍、高さ約一㍍強の基壇と、瓦葺き建物や、柵に囲まれた大型の建物群が確認されている。これらは筑紫大地震(六七八)による倒壊の跡が見られることや、井上廃寺付近からは九州最古の白鳳前期とされる「山田寺瓦」が出土しており、これらは七世紀中盤には存在したことが知られる。
(注7)『和名抄』に「肥前国神崎郡宮処みやこ)」。『肥前国風土記』に「宮処郷在郡西南同天皇行幸之時、於此村奉造行宮 、因曰宮処郷(*倭名抄では「美夜止古呂」)(現神埼郡千代田町境原・兵庫町若宮付近か。)
(注8)九州年号には「倭京」(六一八~六二二)がある。
また、天武一〇年(六八一)八月記事に、多禰島(種子島)は「京を去ること、五千余里」とある。これは約五三〇mの律令の一里で約二七〇〇㎞、約七五mの短里で約四〇〇㎞となる。飛鳥から種子島は約七〇〇~八〇〇㎞でいずれにも合わないが、太宰府から種子島は短里で約四〇〇㎞と『書紀』の記述と一致し、「京」は太宰府を指すこととなる。
(注9)筑紫観世音寺の創建は『日本帝皇年代記』『勝山記』に白鳳十年(六七〇)とあり、瓦の編年等から大宰府政庁(二期)の造営はほぼ同じか若干遅い六七〇年代と考えられる。
(参考)万葉百九十九番歌(高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首)(*抜粋)
(略)明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし 吾大王のきこしめす 背面の国の(略)まつろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任したまへば(略)高麗剣 和射見が原の 仮宮に 天降りいまして(略) 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに ささげたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の風の共 靡くがごとく 取り持てる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林につむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの畏く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ(略)嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして あさもよし 城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ(略)
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