縄文にいたイザナギ・イザナミ (会報145号)
箸墓古墳の本当の姿について 大原重雄(会報154号)
弥生環濠施設を防御的側面で見ることへの疑問点
京都府大山崎町 大原重雄
(1)吉野ヶ里遺跡の環濠施設の復元について
発掘調査で当時大きな話題となった物見櫓については、環濠の突出部と関係していると言えないこと、監視するためとは思えない奥まったところにあること、柱穴の確認ができないところにも設置していることなど、その復元に問題が多いのですが、最近は現地では北内郭の施設の物見櫓は監視の役割とともに祭祀のためもあるといった説明に手直しされています。
しかし物見櫓以外にも疑問、異論は出されています。その一つに環濠にともなう付属施設として、土塁があげられています。掘削した溝の縁を溝に沿って盛り上げるものですが、久世辰男は以下のような疑義を呈されています。「佐原真氏の熱弁により、弥生時代の環濠は外側に土塁を持っていたとされ」、吉野ヶ里遺跡も土塁を外側に作られています。(図①)外壁内濠となりますがここには二つの問題があります。「考古学的事実として溝の外側に土塁が実際に検出されることは極めてまれであり、溝の覆土から間接的に類推されるにすぎない」のです。
さらに外側の土塁の設置した場合の機能、効果の問題があります。図②にありますように、外側に土塁を築くと防御は不利になるのです。敵は土塁を登り矢で環濠の手前にいる相手を狙うことができます。吉野ヶ里も本当に防衛するなら環濠があってその内側に土塁を盛り上げてこそ意味があると思われます。大宰府の水城も広い濠が博多湾側にありその奥の大宰府側に土塁があります。上陸後に攻めてくる敵国の侵入を水を入れた広い濠と高い土塁で阻止するのです。(図③)
さらにその土塁の上に張り巡らされた柵の復元にも問題があります。
(2)土塁にめぐらされた柵
佐原氏は千田嘉博との対談で、「千田さんからいろいろ教わって弥生時代の戦争について参考にしている」とし、次にその千田氏から「弥生集落の外壁内濠は中世城郭の知見から再検討できるのでは」と述べておられるにもかかわらず、指摘を無視して持論を展開されています。そんな佐原氏も見直しを考えたものがあります。
吉野ヶ里は環濠に沿った土塁の上に密接式の柵が張り巡らされています。ほとんど隙間のない間隔で杭の壁が作られています。外壁内濠の主張をゆずらない佐原氏も、土塁の上に復元された密接式の柵については、自分にも責任があると述べています。間隔をあけた柵の遺構の出土により、柵を隙間なく作ることはなかったのです。佐原氏は「すべて間隔を置いた柵に改めるべき」とされましたが、吉野ヶ里は遺構の痕跡すら確認できないのに修正するどころか、ますます隙間のない柵で取り囲まれるようになりました。すなわち吉野ヶ里遺跡の復元は、濠の外側に出土していない土塁を盛り上げ、さらにその土塁の上に確認もされず他の遺跡の事例にも反する密接式の柵を張り巡らすという虚構の復元だったのです。
(3)朝日遺跡も防御施設でなかった。
愛知県清須市の朝日遺跡は東海地方最大の弥生集落といわれ、環濠に逆茂木や乱杭が見つかり弥生時代争乱の証拠とされた防御施設のある遺跡として有名です。しかも土塁は環濠の内側に築かれています。土塁とその手前の濠、そしてそこに逆茂木・乱杭などのバリケードと、まさに防衛対策を備えた集落のように思われます。各地の遺跡の復元整備や弥生時代の復元画にも大きな影響を与え、吉野ヶ里の復元も朝日遺跡が参考とされたのです。
しかし守るべき集落とバリケードの位置関係に疑問があります。南北にある二つの集落の接する部分にだけ逆茂木・乱杭が存在し、集落の東西の両側は墓域が広がっています。いったいこの防御施設はどこからの敵の侵入を想定しているのか疑問でしたので現地の博物館の学芸員さんに、お尋ねしました。すると、防御施設を疑問視する見解の存在することを説明されたのです。一番のポイントとなる逆茂木、乱杭はこの場所に川が流れており、洪水・水害対策の施設だと調査員の赤塚次郎氏は指摘しています。この逆茂木は期間が限定され、流水性の砂層が堆積していることが根拠となるのです。また乱杭も数多く設置されていますが、実際に先端部が尖った状態で出土した木材はないようです。また学芸員の説明ではどうしてこの場所に集落を作ったのか不思議とされています。弥生時代当時は海岸線が迫っており、濃尾平野を縦に走る複数の大きな河川もあり、たいへん水のつきやすい場所なのです。近くに台地もあるのですが、なぜわざわざ条件の悪いところに集落を構えたのでしょうか。この地域は縄文時代からの先住民が多く存在していたようで、新参ものの渡来人は彼らに遠慮して荒れ地に村づくりを始めたのかも知れません。その為に実利的な面でも祭祀面からも、水への対策が切実だったのでしょう。
大阪府八尾市の池島・福万寺遺跡では弥生水田の工夫された水路などが見つかり、さらに増水の際に提が崩れないように、川に余分な水を逃がすための丸太をくりぬいた導水路が埋め込まれていました。朝日遺跡も材木を使って水の流れを調整するものなどがあったのかも知れません。
(4)防御施設とは言いがたい環濠の設置
樋口達也氏は精力的に甕棺墓などの埋葬施設を調査され、甕棺の棺内に残る剣や戈などの切先が、主流の見解である切先副葬ではなく、本来は人体に刺突されていたもの指摘されます。実際に鏃が骨に突き刺さった状態のものや、骨に大きな傷などが見られ、また首のない人骨や首だけの埋納など、戦いによると思われるものは多く存在します。新たな水田の開発や水の確保をめぐるトラブルなど、殺傷沙汰も少なくはなかったでしょうが、それを防御施設と直結させることには疑問があるのです。しかし氏は倭国大乱とされる時期に一致する環濠に軍事的な砦を想定されるのです。例えば朝倉市把木町西ノ迫遺跡では家屋数件と環濠、門柱だけの単純な組み合わせで、定住生活を欠いた目的遂行のための特別施設であるとし、弥生後期の政治的に最も緊張した時期を示すもの、軍事的緊張時の砦を想定した上での見張り台、狼煙台が最も有力とされます。どうして日常の施設、住居などは少ないのに、その一方で大掛かりな環濠が作られたものは防御施設としてしか考えられないのでしょうか。ここで何を守ろうとするものなのか見えてきません。
燃焼のあとがあれば狼煙とは言いがたく、山の丘陵部で多少の火を燃やしただけでは遠方から煙の確認は難しいように思えます。山間部は空気がかすんだり、また焼畑の煙も多くあったかもしれません。祭祀のなかで火を焚くことがあったことも検討すべきでしょう。しかしそれでも環濠内の大量の小石の存在が戦闘時の投石と言われるのです。
(5)投石用の小石の存在
大分県玖珠郡玖珠町白岩遺跡は丘陵尾根の中腹部に環濠が存在し、そこから投弾とされる拳大の川原石が二百点あったことも戦いの証拠とされます。他にもいくつもこの投石の見つかる環濠があるようです。しかしこの石は人に投げつけるものだったのでしょうか。先ほどの樋口達也氏の人骨の損傷具合の調査をみても、頭部が石で損傷したような跡はうかがえません。また米子市尾高浅山遺跡の環濠集落の調査では内部に「直径五~一五㎝の河原石が約六十個」で投石弾とされています。はたして直径が一五㎝の石が簡単に狙いを定めて投げつけることができるのでしょうか。
ただ石が武器になっていたのは確かなようです。時代は下りますが朝鮮半島の山城では直径一〇㎝内外の石が投げ石とされています。千田嘉博は城攻めの原因別死傷者の実例を挙げています。それによりますと戦国時代に投石による死傷者があったのは確かなようです。それが弥生時代の環濠の石も同様なのか確証はありません。多数の石が祭祀に使われることは多くあることです。また水路のきわに石をならべるといった祭祀と水利の面での活用もあったかもしれません。
(6)環濠施設の防衛面以外での役割
水田耕作の初期の板付遺跡は中央に卵型の環濠が存在します。この地はそれまでは人がいた形跡はなく、やってきた渡来人が、場所は不明ですが周辺にいた縄文人とこの地の開拓をすすめたようです。まずは中心の丘陵地のふもとの外周に近くの川とつなげた水路をめぐらし、その川と水路の間に水田を作っていったようです。その水路には木材で堰などを設けていたようです。(図④)その後中央に卵型の環濠を作っています。
吉野ヶ里の場合もまずは近くの田手川から、あるいは北部の湧水地から水路を引いてそこから村づくりをはじめたように思えます。現在の復元では水の存在が見えてきませんしそういった説明がありません。川の反対側の側面に作られた外環濠は板付遺跡と同様の水路だったかも知れません。水田用ではありませんが北内郭の銅戈の埋納されていたところは濠の跡があったので、そこにも水が流れていた可能性があります。
少し東にあります福岡県朝倉市の平塚川添遺跡の場合は三重の水の入った環濠だと説明がされています。吉野ヶ里遺跡も水対策や祭祀の面での再評価が必要でしょう。朝日遺跡も常に洪水にさらされる地域での対策施設がほどこされ、あわせて水の神をまつる祭祀が繰り返し行われていたのでしょう。この遺跡に出土する特徴的な円窓付土器はその祀りに重要な役割を担っていたのでしょう。さらに弥生時代後半になると高地性集落が登場しますが、かっては防衛施設との説明でしたが、今は見直しがされています。これも洪水対策や水利面と水の祭祀のためとも考えられます。
具体的事例から弥生時代に戦闘行為があったことは確かでしょうが、しかしそれは大乱といったものとは考えられません。倭国大乱を桓・靈の間(一四六~一八九年)の四十年もの長期に渡る戦争があったかのような誤解による思い込みで遺跡を見ることから生まれるものでしょう。既に正木氏の指摘のように長期の戦闘ではなかったのであり、環濠施設は大乱や防御施設とは無関係と言えます。
(7)まとめ
吉野ヶ里遺跡の復元については問題があると思います。北墳丘墓の施設は確かに見る価値のある立派なものですが、乱立している建物群、特に物見櫓は突出部の近くにあるからというのでは根拠が弱く、周囲に張り巡らされた環濠の外側に土塁とその上の密接させた柵は防御面で疑問符がつきます。
吉野ヶ里の環濠の内外で戦闘員たちが訓練をしたり、神殿に向けて戦勝祈願をするとかはあったかもしれません。しかし、環濠があるからそれは防御のためとすることは注意が必要と指摘する研究者も多いです。まして、発掘調査で確認されてもいないものを特定の考えで復元するのは見直さなければならないでしょう。ただこれは根が深く、旧石器の捏造事件の反省が弱いために、今も教訓は生かされていないことを示す現実の光景のように思えます。
さらに吉野ヶ里遺跡の復元については、別の問題があります。弥生時代に焦点が合わされていますが古墳時代以降も重要な遺跡を持つものなのですが、その点での復元は不十分なようです。「文化財保存70年の歴史」の中の山崎義次の「吉野ヶ里遺跡群―国営歴史公園の明と暗―」にはその問題点が指摘されています。全面保存がされてはおらず、弥生時代以降の重要な遺跡部分は復元されることはなく、その地にはメガソーラが敷き詰められてしまったのです。「丘陵のほぼ中央部より、律令期の官道や駅家、郡衙、これに関係する二百棟以上の建物群、また役所で使用したと考えられる硯や木簡なども出土した。こうしたことから一帯は律令期における、この地方政治と文化の拠点であり『もうひとつの吉野ヶ里』と評されたが、さして注目されなかった。吉野ヶ里の真の歴史的価値は『古代国家成立期の遺跡と成立後の遺跡』がともに丘陵上で俯瞰できることにあるともいわれている。しかしこのような重要な遺跡でありながら、一部を除いて大半が公園枠に入れられなかった。」
以上のように吉野ヶ里遺跡は墳丘墓の施設や展示品などたいへん見ごたえはありますが、環濠に伴う施設の復元への疑問、弥生時代以降の価値ある姿が見えにくくなっていることなど、問題を含んでいると言えます。
これは会報の公開です。
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