2018年12月10日

古田史学会報

149号


1,新・万葉の覚醒(Ⅰ)
 正木 裕

2,滋賀県出土
 法隆寺式瓦の予察
 古賀達也

3,裸国・黒歯国の伝承
 は失われたのか?
侏儒国と少彦名と補陀落渡海
 別役政光

4,弥生環濠施設を
防御的側面で見ることへの
 疑問点
 大原重雄

5,評制研究批判
 服部静尚

6,水城築造は
白村江戦の前か後か
 古賀達也

7,盗まれた氏姓改革
  と律令制定
 正木裕

 

古田史学会報一覧

『論語』二倍年暦説の史料根拠 (会報150号)
九州王朝の高安城 (会報148号)


水城築造は白村江戦の前か後か

京都市 古賀達也

一、はじめに

 「洛中洛外日記」で連載した「九州王朝の高安城」を読まれた「古田史学の会」会員さんから、「水城の築造は白村江戦より前ではないのですか」というご質問を頂きました。古田先生が“白村江敗戦後の唐軍に制圧された筑紫で水城のような巨大防衛施設を造れるはずがない。『日本書紀』には水城築造を天智三(六六四)年と記されているが、実際は白村江戦以前の築造である。”との指摘がなされてからは、古田学派では水城築造を白村江戦以前とする理解が大勢となりました。わたしもそのように考えてきました。
 ところが、近年、水城の考古学発掘調査報告書を精査する機会があり、水城築造は『日本書紀』の記述通り六六四年としても問題なく、むしろ白村江戦以前と理解する方が困難ではないかと考えるようになりました。そうしたわたしの意識の変化を敏感に感じ取られた「洛中洛外日記」読者から、先の質問を頂いたものと思います。そこで、水城築造年次についてのわたしの見解が変化した理由について説明します。

二、水城築造、白村江戦後の理由

 わたしの水城築造を白村江戦後と考えるに至った道筋は次のようなものでした。
①水城は基底部とその上の版築部、それに付随する城門や道路などからなる。その基底部から出土した敷粗朶工法の敷粗朶の炭素同位体比年代測定によれば、最上層の敷粗朶の中央値が六六〇年である。

②基底部の上に版築土塁が築造されていることから、水城土塁部の完成は六六〇年頃+αとなる。

③さらに城門などの建築、道路の敷設を含めると全体の完成は更に遅れると思われる。

④炭素同位体比年代測定には幅や誤差が含まれ、完成推定年も幅を持つため、白村江戦(六六三年)よりも後と見た方が穏
当であるが、白村江戦以前の可能性もないわけではない。

⑤少なくとも、こうした理化学的年代測定による年代推定値と『日本書紀』の天智三年(六六四)の造営記事は矛盾しない。

 以上のように、理化学的年代測定値は『日本書紀』の記事を否定せず、むしろより整合していると考えられるのです。もちろん、測定誤差や測定年次幅があることを考えると、白村江戦以前とする古田説も成立する余地があります。

三、唐軍二千人の進駐は天智九年

 水城造営年(完成年)を白村江戦後とする理由で、わたしが最も重視したのは『日本書紀』編纂の論理性でした。『日本書紀』には次のように水城築造が記されています。
 「筑紫国に大堤を築き水を貯へ、名づけて水城と曰う。」『日本書紀』天智三年(六六四)条

 『日本書紀』編纂において、近畿天皇家は自らの大義名分に沿った書き換えや削除は行うかもしれません。水城築造記事においても築造主体について九州王朝ではなく「近畿天皇家の天智」と書き換えることはあっても、その築造年次を白村江戦後へ数年ずらさなければならない理由や動機がわたしには見あたらないのです。ですから天智三年の築造年次については疑わなければならない積極的理由がありません。
 古田先生は、白村江戦後の唐軍に制圧された筑紫で水城のような巨大防衛施設を造れるはずがないということを水城築造を白村江戦以前とする根拠にされたのですが、これも厳密に考えるとあまり説得力がありません。というのも『日本書紀』天智紀によれば唐の集団二千人が最初に来倭(筑紫)したのは天智八年(六六九)です。従って、水城を築造したとする天智三年(六六四)は唐軍二千人の筑紫進駐以前であり、白村江戦敗北(六六三)の後に太宰府防衛のために水城を築造したとする理解は穏当なものです。すなわち白村江戦敗北後の天智三年(六六四)に水城築造ができないとする理解には根拠がないのです。

四、天智五年の高麗使来倭

 こうした理解を支持するのが『日本書紀』天智五年(六六六)条に見える次の高麗(高句麗)使の来倭記事です。
 「高麗、前部能婁等を遣して、調進する。」(正月十一日)
 「高麗の前部能婁等帰る。」(六月四日)
 「高麗、臣乙相菴す等を遣して、調進する。」(十月二六日)

 これらの高麗(高句麗)使は、唐との敵対関係にあった高句麗が倭国との関係強化を目指して派遣したと理解されています。というのも、この年(乾封元年)の六月に、唐は高句麗遠征を開始しています。従って、倭国が唐軍の制圧下にあったのであれば、高句麗使が倭国に支援を求めて来るばすはなく、また無事に帰国できることも考えられません。こうした高句麗使来倭記事も、天智五年(六六六)時点では倭国は唐軍の制圧下にはなかったことを示しています。

五、水城の築造期間

 水城築造年次を考察するにあたり、その築造開始年と完成年など築造期間年数についても最後に触れておきます。
 当初、わたしは何十年もかけて水城が築造されたと漠然と理解していました。しかし発掘調査報告書によると、水城基底部から出土した敷粗朶は土と交互に何層も積み上げられ、その上に版築層がまた積み上げられています。こうした遺構の状況から、水城は数年という短期間で完成したのではないかと考えるようになりました。改めて説明します。
 ①敷粗朶は、地山の上に水城を築造するため、基底部強化を目的としての「敷粗朶工法」に使用されていた。

 ②平成十三年の発掘調査では、発掘地の地表から二・〇~三・四m下位に厚さ約一・五mの積土中に十一面の敷粗朶層が発見された。それは敷粗朶と積土(一〇㎝)を交互に敷き詰めたものである。

 ③その統一された工法(積土幅や敷粗朶の方向)による一・五mの敷粗朶層は短期間で築造されたと考えられる。

 ④基底部を形成する敷粗朶層の上の積土層部分(一・四~一・五m)の築造もそれほど長期間を必要としない。

 ⑤その基底部の上に形成された版築層も一年以内で完成したと考えられる。なぜなら版築は梅雨や台風の大雨の時期を挟んでの工事は困難である(版築が大雨で流されるため)。従って秋の収穫期を終えた農閑期に版築の造成を開始し、翌年の梅雨の季節前に完成する必要がある。従って、版築工事は一年以内の短期間に完了したと考えざるを得ない。

 以上の諸点を考えると、水城築造は比較的短期間で完成したと考えるべきですし、それは可能と思われます。従って、築造開始は唐・新羅との開戦を目前にして、白村江戦前から始まり、白村江戦敗北の翌年に完成したと考えても問題ありません。

六、おわりに

 この新仮説について「古田史学の会」の研究者とも意見交換していますが、今のところ賛成意見は少なく、古田学派内では極少数説です。かつ研究途上のテーマであり、わたし自身ももっと深く検討を続けます。その結果、間違っているとなれば、もちろんこの仮説は撤回します。みなさんのご意見とご批判をお願いします。(二〇一八年七月七日、筆了)


 これは会報の公開です。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報一覧

ホームページ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"