盗まれた氏姓改革と律令制定 (上)・(下) 正木裕
盗まれた氏姓改革と律令制定(上)
川西市 正木 裕
一、天武期の「八色やくさの姓かばね」と「律令制定」
『日本書紀』では、天武天皇は晩年の天武十年(六八一)から十三年(六八四)にかけて、律令制定、法式改定、氏姓改革、新位階の制定や僧正等の任命などの大改革をおこなったと書かれている。本稿では近年発見された考古資料や文献等から、これらは九州王朝が常色期(六四七~六五一)に行った改革を、天武期に「繰り下げ」て盗用したものであることを述べる。
1、天武十三年の「八色の姓」制定
まず、「氏姓改革」については、『書紀』の天武十三年(六八四)十月記事に「真人まひと、朝臣あさみ、宿禰すくね、忌寸いみい、道師みちのし、臣おみ、連むらじ、稲置いなみ」という新たな身分制度を定める「八色の姓」が制定され、これをもって「天武」が「天下萬姓を混まろかしめた」とある。
◆『書紀』天武十三年(六八四)冬十月己卯の朔に、詔して曰はく、「更また諸もろもろの氏うじの族姓を改めて、八色の姓かばねを作りて、天下の萬姓よろずのかばねを混まろかす。一に曰はく真人、二に曰はく朝臣、三に曰はく宿禰、四に曰はく忌寸、五に曰はく道師、六に曰はく臣、七に曰はく連、八に曰はく稻置。是の日に、守山公・・(略)・・山道公、十三氏に姓を賜ひて眞人といふ。辛巳(三日)に、伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ。
そして、十一月に「小野臣」ら五十二の氏に「朝臣」が賜姓されている。
◆同年十一月戊申の朔に、大三輪君・大春日臣(略)・・小野臣(略)・・笠臣、凡そ五十二氏に姓を賜ひて朝臣といふ。
2、「小野毛人墓誌」と「朝臣」
このように小野臣は天武十三年(六八四)に「朝臣」の姓を賜り、「小野朝臣」となった。ところが、慶長十八年(一六一三)に京都市左京区で発見された金銅製の「小野毛人墓誌」には、次のような文面が記されていた。
(表面)飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
(裏面)小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
小野毛人とは、『続日本紀』和銅七年(七一四)四月(十五日)条に、
◆中納言従三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野薨みまかりぬ。小治田朝の大徳冠妹子が孫、小錦中毛人が子なり。
とあるから、毛人は遣隋使で著名な「小野妹子」の子で、かつ「小野毛野」の父に当たることになる。
墓誌では「大錦上小野毛人朝臣」が「丁丑年」、つまり天武六年(六七七)に没して埋葬されたとあるが、これは「朝臣」の姓が作られ、小野氏に授けられるより七年も前の事になる。また、『続日本紀』で「小錦中」とあるものが、墓誌では「大錦上」とある。こうした矛盾について、通説では、墓誌は小野毛野による「追葬」(あとから墓誌を作成して埋めたもの)であり、正しきは『書紀』や『続日本紀』だとする。しかしそうであれば、毛野は密かに姓や位階を偽った墓誌を作り、世間に知られないように埋葬したことになる。これは「無理な想定」であり、そのようなことが許されるなら、墓誌など全く信頼出来なくなる。
この「小野毛人墓誌」の矛盾について古田武彦氏は、次のように述べている。
◆金石文と『日本書紀』記事が違っているなら、金石文が合っている。(略)八世紀の段階で息子さんが追葬した。後でいれ直したものというなら、いよいよもって『日本書紀』『続日本紀』に合わせるべきです。(略)合わないように作り直すというのはありえない。(略)位が違っているのは七〇一を境にして位が変更になった。九州王朝から近畿天皇家になって位が下げられたと考えれば何の問題もない。(注1)
古田氏はこうした見解に加え、『書紀』が信頼できない例として、持統紀の持統天皇の吉野行幸が白村江以前から(*三十四年後に)移されたものだったという例を挙げている(注2)。この古田論証に鑑みて、
〇『書紀』の「八色の姓」制定記事は、本来は天武六年(六七七)以前のものであり、『書紀』編者がこれを「繰り下げ」て、天武十三年(六八四)の天武の事績にした。
と考えれば位階と姓の矛盾は難なく解消するのだ。古田氏は「いつから繰り下げられたのか」にまでは踏み込んでいないが、これを明らかにする手掛かりがある。それは「諸国の堺を定む」という記事だ。
3、境界確定記事と位階の明確化は「八色の姓」制定の「実年」を示す
「八色の姓」制定(十月一日)の二日後(同三日)に「諸国の堺を定む」との記事があり、前年の天武十二年(六八三)にも「諸国の境界を限分ふ。然るに是年限分ふにあへず」とあるところ、その「三十四年前」の六四九年(『書紀』大化五年、九州年号常色三年)ころ、全国に「評制」が施行されたことが『常陸国風土記』他から分かっている。
そして、『書紀』の大化二年(六四六)には、「来む時(将来)」に「国々の境界」を定め、新位階を発令するとの詔が出されているのだ。
◆『書紀』大化二年(六四六)(九州年号命長七年)
秋八月庚申朔癸酉、詔して曰はく、「(略)今汝等を以て、使仕つかふべき状かたちは、旧の職を改去すてて、新に百官を設け、位階を著して、官位を以て敍けたまはむ。今発たて遣つかはす国司、并あはせて彼の国造、以ここをもて奉聞うけたまはるべし。(略)国々の橿界さかひを観て、或いは書にしるし或は図をかきて、持ち来て示し奉れ。国県の名は、来む時に将に定めむ。国々の堤つつみ築くべき地、溝うなて穿るべき所、田墾るべき間は、均しく給ひて造らしめよ。当に此の宣たまふ所を聞り解るべし」とのたまふ。
つまり、天武紀の六八三年・六八四年記事と、この六四六年の年代を隔した諸国の境界確定等に関する記事は、実際は六四九年ごろ九州王朝が施行した「評制施行」に伴う「一連の記事」だったと考えられるのだ。(注3)
そうであれば、境界確定記事と並んで記される天武十三年(六八四)の、身分の序列を「姓」により示す「八色の姓」制定も、九州年号常色四年(六五〇)の九州王朝の事績が、吉野行幸と同様の手法で三十四年繰り下げられたものである可能性が大になろう。
4、天武十年(六八一)の「難波連」賜姓と韓国扶余木簡
このことを証するのが「難波連」賜姓記事だ。
「八色の姓」の七つ目に「連むらじ」の姓が記されているが、天武十三年(六八四)の「八色の姓」制定に先立って、天武十年(六八一)には草香部吉士大形に「難波連」を賜姓した記事がある。「連」は主に雄略紀以降に大伴・物部氏など有力な豪族に与えられたが、草香部氏に「連」が下賜され「難波連」となったのはこの時が初めてだ。
◆『書紀』天武十年(六八一)春正月丁丑(七日)に、天皇、向小殿に御して宴とよのあかりしたまふ。(略)仍りて姓を賜ひて難波連といふ。(略)己丑(一九日)に、畿内及び諸国に詔して天社あまつやしろ地社くにつやしろの神の宮を修理をさめつくらしむ。
ところが、韓国で二〇〇九年に七世紀半ばの扶余双北里遺跡(韓国忠清南道)から「那尓波連公なにはのむらじのきみ」と記す木簡が出土したことによって、この「難波連賜姓記事」は『書紀』編者が白村江前から「繰り下げ」たものであることが確実となった。
扶余(泗沘)は、五三八年から百済が滅亡する六六〇年まで百済の首都で、双北里遺跡は泗沘都城内(東羅城の内側)にあるから、木簡も七世紀半ば、六六〇年までのものであることが、明らかになっているからだ。
「難波」氏は主に外交に携わった渡来系の氏族で、安康元年(四五四)二月記事の「難波吉師日香蚊夫子」など「吉師・吉士」と書かれることが多く、『書紀』には十八回見えるが、「連」姓を与えられたのは六八一年記事が初だ(注4)。つまり発見された扶余木簡から、『書紀』では天武十年(六八一)に授けられたとする「難波連」は、六六〇年以前に授けられており、天武十年(六八一)の賜姓記事は六六〇年以前から「繰り下げ」られていたということになろう。そして、六八一年の三十四年前は六四七年、九州年号常色元年にあたるのだ。
5、『赤渕神社縁起』の「常色三年在還宮為修理祭礼」記事
加えて、天武十年(六八一)一月七日の難波連賜姓の十二日後の十七日に、「畿内及び諸国に詔して天社地社の神の宮を修理らしむ(修理天社地社神宮)」との記事があるが、これに相当する文言が赤渕神社縁起書『赤渕宮 神淵寺』(「赤渕神社」兵庫県朝来市和田山町枚田二一一五)の「常色三年(六四九)」条に存在していたことが分かった。(資料添付)
◆『赤渕宮 神淵寺』「常色三年六月十五日在還宮為修理祭礼」
これは常色三年六月に赤渕神社を「修理」し祭礼を行ったというものだ。そして、「常色三年」の年号につき、各種の赤渕神社文書を確認すると、
①先掲の『赤渕宮 神淵寺』では「常色三年六月十五日」(*虫食いだが「三年」の可能性が高い)とあるが、
②『但州朝来郡牧田郷内高山 赤渕大明神 表米大明神』には「常色三年丁未六月十五日迁(遷)宮アリ」と「丁未」の干支が入っている。「丁未」は六四七年で「常色元年」にあたる。
③そして、『赤渕大明神縁起記』には「定年号常色元年丁未」となっている。
こうした「干支」に着目した『縁起』の史料批判から、「元壬子年木簡」で「元」が「三」と見誤られていたように、本来は「常色三年」ではなく「常色元年(丁未)六月十五日在還宮為修理祭礼」だったことになる。
従って、これと同趣旨の『書紀』天武十年(六八一)の「天社地社の修理」記事は、九州年号常色元年(六四七)から「三十四年繰り下げ」られたと考えられる。
つまり、天武紀の一連の「氏姓改革」記事は、こうした出土物(木簡)や新たな古文書(『縁起』)の発見から、「九州年号常色期の九州王朝の事績が三十四年繰り下げられた」ものである可能性が高いといえよう。(後編に続く)。
(注1)古田武彦「日本の未来―日本古代史論」(『古代に真実を求めて』第十三号古田史学の会編、明石書店。二〇一〇年四月)
(注2)古田武彦『壬申大乱』(東洋書林二〇〇一年一〇月。ミネルヴァ書房より復刊二〇一二年八月)
(注3)「評制」は、律令施行の七〇一年を境に「郡制」に変わり、かつ、『書紀』では「消され」、始めから「郡」だったと書き換えられていること等から、古田氏は九州王朝の事績とする。
(注4)天武十年の難波連大形以前は、難波吉士赤目子・難波日鷹吉士・難波吉士日香々子・難波小野王・難波吉士木蓮子・難波吉士磐金・難波吉師神・難波吉士雄成・難波吉士德摩呂・難波吉士身刺・難波吉士小槻・難波吉士八牛・難波癬龜・難波吉士胡床・難波吉士国勝・難波吉士男人・難波吉士三綱等と「連」は見られない。
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