2018年8月13日

古田史学会報

147号

1,「実証」と「論証」について
 茂山憲史

2,よみがえる古伝承
大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)
 正木裕

3,長沙走馬楼呉簡の研究
 古谷弘美

4,古田先生との論争的対話
 「都城論」の論理構造
 古賀達也

 

 

古田史学会報一覧

よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1) (その2) (その3)
盗まれた氏姓改革と律令制定 (上)(下) 正木裕

複数の名を持つ天智天皇 橘?修(会報151号)


よみがえる古伝承

大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)

川西市 正木 裕

 「よみがえる古伝承(その1)」では、『書紀』では「倭姫王」、『開聞古事縁起』(以下『縁起』)では「大宮姫」と称される倭国(九州王朝)の姫が、「天武帝白鳳元壬申(六七二)年十一月」に、近江宮を逃れ薩州頴娃(えい)郡(衣評)に帰還したことを述べた。
 また(その2)では、倭国(九州王朝)の姫が近江朝で天智の皇后となった経緯、その後、唐と都督薩夜麻の支援で、臣下№1の天武が「壬申の乱」で近江朝を滅ぼし、倭国の実権を握ったこと、そして倭国(九州王朝)は次第に衰え、ついに七〇一年には日本国(大和朝廷)に取って代わられたことを述べた。

1、薩摩に還った「大宮姫」

 それでは薩摩に帰った「大宮姫」はどうなったのだろうか。『縁起』では白鳳二癸酉年(六七三)二月四日に「假(仮)殿(京殿)」に入り、その後「本城」に遷ったとされる。
◆一、御假殿入御之事
 於神嶽麓営御假殿畢。(略)而入御假殿俗云京殿。時白鳳二癸酉年(六七三)二月四日也。(略)后宮帝曰此地是外朝之西極?(*霊)之最勝(*最も霊験あらたかな地)也。移御本城後、以御假殿為堂寺号法華寺。(略)寺地建四方五輪石塔。

 ここで「假殿」は後の「法華寺」となったと記し、五輪石塔が発見されているところから、現「指宿市開聞十町京田」にあったとされている。この「假殿」は「離宮」と別称され、別条(御嶽麓離宮営構之事)に「方十町の宮殿楼閣」で、「上都に準じ数十の官舎が甍を連ねる華麗なもの」だったと書かれている。ただ、「離宮」が寺になったのなら、後に遷ったとされる「本城」は別所にあったことになる。
 後掲の「入御于離宮之事」条では、「大宮姫」は假殿(離宮)造営後、白鳳二年五月五日に離宮に遷り、以後三十余年これを「外域の離宮」と呼んだとする。そして、「九州貢物奉進當離宮與太宰府」、つまり九州の諸司は薩摩の離宮と太宰府に貢納したとあるから、「本城」とは太宰府を指す可能性が高く、そうであれば「大宮姫」は以後太宰府を「本城」、薩摩を「離宮」としたことになろう。
◆一、入御于離宮之事
 (略)入御神嶽之離宮也。于時天武白鳳二年癸酉夏五月五日也。於此仙土為離宮凡三十餘年也。呼之云外域。九州貢物奉進當離宮與太宰府也。

 そして、太宰府政庁(Ⅱ期)の造営は、瓦の編年や諸史料から六七〇年代と考えられ、『縁起』で「本城」に遷ったとする年代と一致することになる。(注1)

2、王朝交代直前の「薩摩比売」の抵抗

 『縁起』ではその記事の後は、開聞神の霊験譚が語られるのみだが、『続日本紀』(以下『続紀』と略す)では文武四年(七〇〇)六月に、「薩摩比売」が「衣の評督」らとともに、大和朝廷が律令制の施行に向け派遣した覓国使に対し、武力で抵抗したことが記されている。「衣評」は大宮姫の帰還地で離宮を営んだ頴娃郡だから、「薩摩比売」とは「大宮姫」であり、それはこれまで述べたように、九州王朝の姫「倭姫王」を指すこととなろう。
◆文武四年(七〇〇)六月庚辰(三日)薩末比売、久売、波豆。衣評督衣君県、助督衣君弖自美てじみ、又肝衝きもつき難波、肥人等を從へ、兵(*武器)を持して覓国くにまぎ使刑部真木等を剽劫おびやかす。是に於て竺志惣領に勅して犯を決罰す。(略)
          十月己未(十五日)石上朝臣麻呂を筑紫惣領とす。

 薩末は後の薩摩国薩摩郡、肝衝は日向国(後に大隅国)肝属郡で、肥人は肥後人と思われ、「等」とあるから南九州の広い地域で抵抗があったことを示す。そして、「覓国使」は『続紀』文武二年四月記事に「戒器じうき・武器のこと」を帯していたことが記されているから、「兵(武器)」と「戒器(武器)」を持ったもの同士の衝突が起きたことになる。(注2)
 抵抗勢力の筆頭に「薩末比売」が記されるが、彼女が「大宮姫(倭姫王)」であれば五〇歳ほどの高齢の女性(『縁起』では六五〇年生まれ)ということとなる。従って、これは大宮姫が武力闘争の先頭に立ったのではなく、九州王朝の中で大和朝廷の支配を肯ぜない勢力(以下「抵抗勢力」という)が、天智の皇后で即位まで勧められた、大和朝廷としても一定の配慮が必要な人物を担ぎだし、抵抗したという可能性が高いだろう。
 そう考えれば、大和朝廷が直接討伐に乗り出すのではなく、「竺志惣領」を介して鎮圧を図った意味が理解できる。七〇〇年は律令制定以前で、実質はともかく形式的にはまだ九州王朝の時代だったからだ。
 そして、具体的な「決罰」の内容・結果が示されていないのも、この「竺志惣領」は九州王朝の任命した人物で、大和朝廷の意図するような「犯の決罰」が出来なかったからではないか。その年の十月に大和朝廷が「竺志惣領」を石上朝臣麻呂という「新筑紫惣領」に交代させたのもこれを裏付けるものだろう。(注3)

3、律令制定後における九州王朝の抵抗

 そして、律令制定後の大宝二年八月にも、薩摩から南西諸島において大きな抵抗があり、これを武力で討伐したことが記されている。
◆『続紀』大宝二年(七〇二)三月甲午(二七日)に信濃国、梓弓一千廿張を献る。以て太宰府に充つ。丁酉(三〇日)に太宰府に所部の国・郡司等とを銓擬することを聴ゆるす。
              八月丙申(一日)に、薩摩・多?たね、化を隔て、命に逆ふ。ここに、兵を発し征討し、遂に戸を校しらべ、吏を置く。辛亥(十六日)に、正三位石上麻呂を太宰の師とす。
              九月戊寅(十四日)に、薩摩の隼人を討ちし軍士に、勲を授く。
              十月丁酉(三日)に、先に薩摩の隼人を征する時、大宰の所部の神九処を祷のみ祈るに、神威に頼りて荒ぶる賊を平げき。唱更(しょうきょう *辺境の戍を守る国司)の国司等《今の薩摩国なり》言さく、「国内の要害の地に柵を建てて、戍まもりを置きて守らむ」とまうす。許す。戊申(一四日)に、律令を天下の諸国に頒つ。

 薩摩の抵抗は七〇〇年と同じだが、ここで初めて「化を隔て、命に逆ふ」とある。これは、七〇一年の律令制定(古田氏の言うONライン=OLD倭国から NEW日本国になった)を境に大和朝廷が、新支配者として「命」を下せる立場となったことを示し、以後薩摩ほか南九州に依拠した「九州王朝内の抵抗勢力」は「化に逆らう隼人の賊」と呼ばれることとなった。
 これは、明治維新において、江戸開城後に維新政府と、これに反対する旧幕府主戦派側及び同調する奥羽越列藩同盟・会津・庄内同盟等との間で、彰義隊の上野戦争に始まり、榎本武揚らの函館戦争に至る一連の抵抗・戦争がおきたこと、彼らは新政府によって「賊軍」と呼ばれ討伐されたことを想起すれば理解が早いだろう。
 そして、この時点では旧の筑紫惣領は更迭されており、新惣領は「太宰の師」として「隼人」を征討したことになる。「大宰の所部の神九処を祷み祈り」討伐が成就したとあることから、大和朝廷は新太宰のもと太宰府所管の九州諸司を掌握し、「抵抗勢力・隼人の賊」を平定したのだ。そして、その直後に律令を全国に「頒布」している。
 これは、律令「制定」後も九州王朝に同調し、大和朝廷の支配に反対する勢力が、根強く残っていたことを示すものだ。逆に言えば、大和朝廷は九州王朝の拠点である薩摩を抑え込んだことで、ようやく律令を全国に頒布できたことになる。明治維新において、薩摩の西郷らによる西南戦争に勝利したことで、明治政府の基盤は確実なものとなったが、まさに「歴史は繰り返す」という言葉が見事に当てはまるのだ。

4、「討伐」以降も続く九州王朝

 それでは、討伐以降の九州王朝(正確には薩摩など南九州に依拠した「九州王朝の抵抗勢力」)と大宮姫(薩末比売)はどんな運命をたどったのか。
 「要害の地に柵を建て守る」とは、抵抗勢力を、南九州の一角に「封じ込め」る軍事施策で、逆に言えば抵抗勢力はいまだ一定の地域に割拠したことを示すものだ。「唱更の国司」とあっても「薩摩国司」とされていないのも、大和朝廷の支配地に組み込むまでに至らなかった証拠となろう。
 南九州が大和朝廷の支配地となったのは、薩末比売と共に覓国使に抵抗した肝衝(肝坏)郡を含む地域に、「始めて大隅国」が置かれた和銅六年(七一三)だ。そして、この年に「隼の賊を討つ将軍」らへの大規模な恩賞記事があることから、七一二年から七一三年にかけ、南九州の抵抗勢力に対する一大討伐戦が行われたことは確実だ。つまりその時点までは、南九州に「封じ込め」られながらも九州王朝は存続していたのだ。
◆『続紀』和銅六年(七一三)夏四月乙未(三日)、(略)日向国の肝坏きもつき、贈於そお、大隅、姶羅あひらの四郡を割きて、始めて大隅国を置く。大倭国疫す。薬を給ひて救はしむ。
             ◆秋七月丙寅(五日)、詔して曰はく、「授くるに勲級を以てするは、本、功有るに拠る。若し優異せずは、何を以てか勧獎めむ。今、隼の賊を討つ将軍、并せて士卒等、戦陣に功有る者一千二百八十余人に、並びに労に随ひて勲を授くべし」とのたまふ。

5、「天智天皇」が「大長元年」に太宰府に帰還

 これを裏付けるのは、『縁起』に記す「大長元年」に「天智天皇」が太宰府に帰還し、九州諸司に宣旨したとの記事だ。
◆一、天智天皇出居外朝之事
 越仁王三九代天智天皇別離心難堪、溺愁緒之御涙、思翠帳紅閨隻枕昔歎二世眤契約蜜語空於発出居外朝御志而不幾時、 同十年辛未冬十二月三日《大長元年尤歴代書年号》帝帯一宝剣、騎一白馬潜行幸山階山、終无還御。 凌舟波路嶮難、如馳虚空、遂而臨着太宰府、御在于彼。越月奥於当神嶽麓欲営構離宮。故宣旨九州諸司也。《 》は右注

 「同十年辛未冬十二月三日」とあるが、『書紀』での天智の崩御日は「天智十年辛未(六七一)冬十二月三日」で、『書紀』に日付を合わせた記事であることは疑えない。また、「騎一白馬潜行幸山階山、終无還御」とあるが、『扶桑略記』(十一世紀末頃)には「一云 天皇駕馬 幸山階? 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」とあり、この条の細部はこうした記事・伝承をもとに創作されたものと思われる。
 ただ一方で、「大長元年尤歴代書年号(大長元年は歴代の書物にない年号)」とある。九州年号では「大化」は六九五年から大宝三年(七〇三・大化九年)までで、慶雲元年(七〇四)から「大長」年号が始まり、大隅国設置の前年の和銅五年(七一二)までの九年間で終る。その後九州年号と思しき年号は姿を消す。「大長」はいわば「最後の九州年号」といえるのだ。(注4)
 『縁起』の編者が「歴代の書物にない大長元年」という日付記事を何の根拠もなく「創作」したとは到底考えられない。これは九州年号による「原史料」に基づくもので、九州年号「大化十年」が「大長元年」にあたるから、本来は「大化十年」だったものを、『書紀』にあわせ「天智十年」と改変したのだと考えられる。仮に「天智十年」だとしても、「天智崩御後」に「天智が薩摩に帰還」するはずはない。従って、これは、
①九州年号による資料では「大化十年=大長元年(七〇四年。慶雲元年)」に薩摩に帰還した人物が存在した。
②『縁起』編者は、大宮姫は天智の皇后であり、『書紀』では「天智」が十年に崩御しているので、この人物を「天智」と見立てた、と考えられるのだ。

6、慶雲元年に薩摩に帰還した「天智」とは誰か

 それでは「慶雲元年に薩摩に帰還した天智に当たる人物」は実際に存在したのだろうか、いたとすればそれは誰だったのか。実は『続日本紀』慶雲元年十一月に、文武が始めて藤原宮の地を定めたとある。

◆『続紀』慶雲元年(七〇四)十一月壬寅(二〇日)。始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟に布賜ふこと差あり。
 藤原宮については、『書紀』持統六年五月に宮の地鎮祭、持統七年二月に造成工事関連記事、持統八年(六九四)十二月に遷居記事があるから、遅くともこの時点で「宮地」は定まっていたことになり、「遷居十年後」に「始めて宮地を定む」とあるのは何とも不可解と言わざるを得ない。
◆『書紀』持統六年(六九二)五月丁亥(二三日)に、浄広肆難波王等を遣して、藤原宮地を鎮め祭らしむ。庚寅(二六日)に、使者を遣して、幣を四所の伊勢・大倭・住吉・紀伊の大神に奉らしむ。告すに新宮のことを以てす。
              六月癸巳(三〇日)に、天皇、藤原の宮地を観はす。
   持統七年(六九三)二月己巳(一〇日)に、造京司衣縫王等に詔して、掘るらせる尸を収めしむ。
   持統八年(六九四)十二月乙卯(六日)に、藤原宮に遷り居します。戊午(九日)に、百官拝朝す。

 この点、西村秀己氏は「藤原宮は九州王朝の為の宮であり、そこには九州王朝の天子がいた。文武は藤原宮でなく『清原の大宮』で即位」したのであり、七〇四年の「本条(*始めて藤原宮の地を定む)が文武の藤原京遷都記事」ではないかとする。(注5)
 そして『旧唐書』には、小国の「日本国」が歴代中国と交流してきた「倭国」を併合したと記す。「倭国」とは志賀島の金印を下賜された倭奴国で、以後俾弥呼から多利思北孤に繋がる国とされるから、これは九州王朝を指す。一方、日本国は粟田真人が使人だとあるから、これは大和朝廷を指す。
◆『旧唐書』倭国は古の「倭(委)奴国ゐどこく」なり。京師を去ること一萬四千里、新羅の東南大海の中に在り、山島に依りて居す。東西五月行、南北三月行。世々中国と通ず。四面小島。五十余国、皆付属す。その王の姓は阿毎あま氏。一大率を置き、諸国を検察す。皆、之を畏附す。
◆『旧唐書』「日本国伝」日本国は、倭国の別種なり。その国、日の辺に在るが故に、日本を以って名と為す。あるいは曰く、倭国自らその名の雅びならざるをにくみ、改めて日本と為す、と。あるいは云う、日本はもと小国にして倭国の地を併せたり、と。その人朝に入る者、多くは自ら大なるをおごり、実を以って対せず、故に中国はこれを疑ふ。また云う、その国界は東西南北各数千里で、西界と南界は大海に至り、東界と北界には大山ありて限りとなす。山外はすなわち毛人の国なり。
◆長安三年(七〇三)、其の(*日本国)大臣朝臣真人(*粟田真人)来りて方物を貢ぐ。朝臣真人は、猶中国の戸部尚書こぶしょうしょのごとく、進?冠を冠し、其の頂は花をなし、四つに分かれ散り、身に紫袍を服て絹をもって腰帶とす。真人は好く經史を読み、文を解屬し、容止は温雅である。則天(*則天武后)は麟?殿に宴へたまひ、司膳卿しぜんけいの官を授けて、本国に還す。

7、慶雲元年(七〇四)に日本国承認の報が齎される

 このように、七〇三年に粟田真人が武則天(則天武后)に謁見し、位階を授かったのは、大和朝廷が唐(*六九〇年に武則天が「周」に国名を変更)から我が国の代表者として承認されたことを意味する。
 大和朝廷にとって、唐が王朝交代を「承認」するかは大きな懸案だったと思われる。何故なら、「日本国はもと小国」であるのに対し、九州王朝は紀元五七年の金印下賜以来、歴代の中国王朝が我が国の代表者として承認し、かつ唐の高宗も薩夜麻を「都督」に任命しその統治を承認してきたからだ。
 そして七〇四年に粟田真人は帰朝し、大和朝廷は「慶雲」と改元する。真人は十月九日に拝朝し、その翌月に「始めて藤原宮の地を定む」との記事がある。こうした経緯から、この記事は「藤原宮の完成」を言うのではなく、唐の承認により、名分上も大和朝廷の文武が我が国の代表者となり、九州王朝の天子に代わって「始めて藤原宮の主になった」ことを表していると考えられよう。一千五百五戸の住民に布を配布したのは、祝賀をかねて「主の交代」を広く知らしめるのが目的だったのだ。

8、九州王朝の抵抗勢力による大長改元

 その慶雲元年(七〇四)は、『縁起』で「天智天皇」が薩摩に帰還したとする九州年号「大長元年」にあたる。九州年号の改元は遷都によることが知られており、薩摩に帰還したとの『縁起』とも一致する。
 ただし、「帰還」といっても「逃れた」ということになるだろう。なぜなら大和朝廷が、将来抵抗の中心となる可能性のある「廃された前王朝の天子」を本拠たる薩摩に帰還させたとは考えづらいからだ。また、年号を建て得るのは一国の代表者に限るのであって、唐が王朝交代を承認して以降に、いわば「廃天子」が年号を建てる(改元する)ことは出来ないし、大和朝廷が認めるはずもない。
 そうであれば、「九州王朝の抵抗勢力」は、「前天子」が大和朝廷に政権と宮を引き渡したことを是とせず、七〇四年に別の人物を後継に立て、大和朝廷に対抗した。そして年号を改元し、再度大宮姫(薩末比売)を担ぎ、南九州(薩摩・大隅)の独立を目指したと考えられるのではないか。『縁起』の記事を信じるとしても、大和朝廷に恭順した「前天子」は、帰還は果たしても、すでに九州王朝内でもその地位を失っていたことになろう。
 これも維新時に、大政を奉還し江戸城を明け渡して駿府に蟄居し、新政権に恭順した徳川慶喜と姿勢を異にし、奥羽越列藩同盟が東北の独立を、榎本らは蝦夷共和国(函館政権)を目指したのと軌を一にするものだ。
 また、これに対する大和朝廷の弾圧も次の詔によって知ることが出来る。
◆『続紀』慶雲四年(七〇七)七月壬子(十七日)軍器を挟蔵して山沢に亡命し、百日まで首せずんば、罪に復すること初の如くす。
 和銅元年(七〇八)正月乙巳(十一日)。禁書を挾蔵して山沢に亡命し、百日まで首せずんば、罪に復すること初の如くす。

 この詔勅は大和朝廷が、継続的に抵抗勢力を押し込めていった様を記すものだ。

9、九州王朝の最後と大宮姫

 『縁起』では、そうした中で「天智」が慶雲三(七〇六)に七十九歳で崩御し、和銅元年(七〇八)には「皇后」が五十九歳で薨去したと記す。
一、皇帝后宮岩隠之事
 文武帝慶雲三(七〇六)丙未(ママ)春三月八日天智聖帝天寿七十九於此崩御。於仙土陵当神殿也。阿弥陀如来示現帝皇也。(略)上都以天智帝十年辛未年十二月三日為崩御日。(略)不幾年其翌年之元明帝和銅元(七〇八)戊申歳六月十八日皇后御寿五十九薨御也

 九州年号が存在する以上、これを建てた「九州王朝の後継者」がいたはずだ。ただ、年号は天子が崩御すれば必ず改元されるところ、大長年号は七一二年まで続いて、大隅国が設置され隼人討伐戦の恩賞があった七一三年以後消滅する。従って、『縁起』『続紀』と九州年号「大長」の実在を信じれば、九州王朝の「前天子」は七〇四年に帰還し、七〇六年に崩御したが、当時既にその地位を失っており、「九州王朝の後継者」は七一二年または七一三年に「隼の賊」の首魁として討伐された人物である可能性が高いことになる。
 その人物や、「天智」と記される「前天子」は誰なのか。大宮姫は七〇八年に五十九歳で薨去しており、「天智」は七〇六年に七十九歳で崩御しているから二十二~二十三歳上で、父とか叔父の世代にあたるだろう。しかし、『続紀』も『縁起』もこれ以上何も語らない。更迭された旧の筑紫惣領がどうなったかも知ることが出来ない。そもそも『続紀』では隼人討伐戦も、将軍らの恩賞記事から知られるのみで、具体的な内容はすべて隠され、一切記されていないのだ。(注6)
 「九州年号の終了」は、九州王朝の最終的滅亡を意味するものであり、最後の九州王朝の姫「大宮姫」にとって、七一二~七一三年の「隼人大討伐戦の悲劇」と王朝の滅亡を見ることなく世を去ったことは、せめてもの救いなのかもしれない。(注7)

 

(注1)通説では七世紀末とか八世紀初頭とされるが、『日本帝皇年代記』や『勝山記』に、筑紫観世音寺は九州年号白鳳十年(六七〇)に創建されたとあり、またその創建瓦は「老司Ⅰ式」で、太宰府政庁(Ⅱ期)の瓦は「老司Ⅱ式」であることから、政庁(Ⅱ期)の造営も六七〇年代と考えられる(古賀達也氏ほか)。

(注2)刑部真木は文武二年に南西諸島に派遣され、三年十一月に無事帰還しているから、「薩摩比売」らの抵抗は文武二年~三年の事件で、文武四年六月は竺志惣領に犯を決罰るよう命じた日と考えられる。

(注3)古代の惣領は、律令制以前、主要国に配置され、近隣諸国を監督した職。『続日本紀』の七〇〇年記事に「筑紫惣領、周防惣領、吉備惣領」、『常陸国風土記』香島郡他の条に坂東諸国の惣領「高向大夫」、『播磨国風土記』揖保郡広山里条に惣領「石川王」の名が見える。七〇一年の律令成立以前の官職であるから九州王朝の官職だと考えられる。

(注4)『運歩色葉集』(一五四八年ごろ成立の国語辞典で編者不明。京大図書館蔵)に柿本人丸の没年が「大長四年丁未(七〇七)於石見国高津死」、『伊予三島縁起』(内閣文庫版のうち番号 和三四七六九)に「天武天王御宇大長九年壬子(壬子は七一二年で文武時代。天武時代に壬子は無い)」とあり、何れも「大長元年」は七〇四年を指す。(古賀達也「最後の九州年号ー大長年号の史料批判」(『古田史学会報』七七号二〇〇七年十二月による)

(注5)西村秀己「削偽定実の真相―古事記序文の史料批判―」(古田史学会報六八号・二〇〇五年六月)西村氏は『古事記』序文に記されるべき文武の事績が欠けていることから、序文に記す『清原の大宮』で即位した天皇は天武ではなく文武だとする。
 これについては、
?六九四年十二月の藤原宮遷居は、翌年の九州年号「大化」への改元と整合する。従って、藤原宮造営は倭国(九州王朝)の事績に相応しいこと、
?藤原宮朝堂院東回廊南端の溝跡から発掘された大宝三年木簡などから、「東面回廊の完成が大宝三年以後で」「朝堂は遷都当初には完成していなかったと考えられ」、六九七年八月一日の文武即位儀礼では「本来使用すべき大極殿に出御した記事は見えず、大極殿は未完成であったことを示すと考えられる」こと、
③また、「大極殿と称される殿舎は浄御原宮にもあった」(カッコ内は市大樹氏『飛鳥藤原宮木簡の研究』より引用)ことも、西村説を補強するものとなろう。

(注6)ちなみに和銅五年(七一二)正月二十八日の太安萬侶の『古事記』献上も『続紀』からは完全に「カット」されている。このように記録としての価値を認められている『続紀』にも、恣意的な編纂があることは歴然としている。

(注7)ただし、七二〇年に激しい隼人の反乱がおきており、南九州における大和朝廷の支配への抵抗は七一三年以後も根強く続くことになる。

(参考)
古田武彦『古代史通史』(原書房一九九四年)ほか。
 古賀達也「続・最後の九州年号─消された隼人征討記事─」(『古代に真実を求めて』第十一集・二〇〇八年四月)、同「最後の九州王朝―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」(『市民の古代』第十集・一九八八年)ほか。
 中村幸雄「九州王朝の滅亡と『日本書紀』の成立」(市民の古代十二集・一九九〇年十一月、中村幸雄論集・HP新・古代学の扉掲載)。


 これは会報の公開です。史料批判は、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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