2018年8月13日

古田史学会報

147号

1,「実証」と「論証」について
 茂山憲史

2,よみがえる古伝承
大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)
 正木裕

3,長沙走馬楼呉簡の研究
 古谷弘美

4,古田先生との論争的対話
 「都城論」の論理構造
 古賀達也

 

 

古田史学会報一覧

学問は実証よりも論証を重んじる 古賀達也 (会報119号)

「那須國造碑」からみた『日本書紀』紀年の信憑性 谷本茂 (会報148号)

「実証」と「論証」について

吹田市 茂山憲史

 村岡典嗣氏(一八八四~一九四六)の「学問は実証よりも論証を重んじる」という発言を巡っていろいろな意見が出されていますが、わたしには多少混乱しているように見えます。「実証」も「論証」も、哲学の基礎学にあたる論理学上の問題ですから、わたしはこの発言も論理学の基本から理解すべきものと考えます。また、村岡氏は自らの学問を「アウグスト・ベーク(一七八五~一八六七)のフィロロギーに基づいています」と公言していたのですから、フィロロギーの観点からも理解すべきでしょう。ここでは、村岡氏の発言が、論理学的に不適切な表現であることを明らかにし、つぎに、この発言が生まれた時代背景から、発言の真意を明らかにします。続いて、村岡氏のこの言葉を古田武彦先生(一九二六~二〇一五)が受け入れた時代背景を確認します。以上を踏まえて、会員が「実証と論証」の議論の迷路に迷い込まないように注意すること、もし議論するなら、歴史学の経験においてではなく、論理学と哲学の専門的知識を踏まえ、ベークのフィロロギーの理論に立って行うこと、を提案します。

論理学における実証と論証

 哲学者で『論理学』(東京大学出版会)の著書がある野矢茂樹氏(一九五四~)は、『新版論理トレーニング』(産業図書)のなかで、「論証とは、ある結論に対してなんらかの形で根拠が提示されているもののこと」と書いています。論理学では『根拠→導出→結論』という図式をあげています。野矢氏は、この図式の全体が「論証」だとことわっています。「ここでなによりもだいじなのが、『論証』と『導出』を区別すること」「導出とはあくまでもある主張から他の主張を導く過程のこと」です、と注意を促しています。これは、部分である「導出」を「論証」全体だと勘違いしているひとが多いということです。
野矢氏はさらに、「論証は根拠と導出を含む全体であるから、その適切さは、適切な根拠から適切な導出によって結論が導かれているかどうかによって評価される」としています。つまり、「論証」があればそれで正しいのではなく、「論証」が正しいかどうかは、「根拠」と「導出」がいずれも正しいかどうかにかかっているのです。また、「根拠」の中身には「意味規定」と「事実認識」と「価値評価」という種類がある、と説明しています。ですから、「実証」とは「根拠」の一要素である「事実認識」に限っての証明のことなのです。以上は、論理学の最先端の学術書ではなく、極めて初歩的な書物での話ですから、野矢氏の特殊な解釈ではありません。現代論理学の共通理解と考えていいものです。ベークのフィロロギーでは「文法的解釈」とか「個人的解釈」とか「文献学的技術」という方法論で説明されている内容を含みます。
 論理学的な理解からすれば、「根拠」の一部である「実証」は、「論証」という「全体」の中に含まれる「部分」です。また「導出」は論理の形式的部分をさす概念で、記号だけでも表現できる演算式のようなプロセスのことです。これを「論証」の総体だと勘違いしているから、「実証(=部分)」と「論証(=全体)」という本来分離出来ない概念を分割して、しかもその軽重を比較するという誤った考え方が出てくるのです。ですから「学問は実証よりも論証を重んじる」という表現自体が論理的な矛盾を含んでいるのだといえます。

村岡氏のフィロロギーと時代背景

 村岡氏や古田先生が「学問は実証よりも論証を重んじる」と考えていたことは事実ですが、この発言は、村岡氏の著作に明確に記されたものではないようです。村岡氏の著作をよく読んでおり、直接その声も聞いた古田先生ですから、記されていればご存じのはずです。しかし先生は、先輩方に質問して回ってようやく「確かにそのように聞いたが、意味はよく分からない」という証言を聞き出していました。みなさん、発言の真意をよく知らなかったようなのです。一言一句その通りだったかどうかも不明ですが、しかし、ふたりが意味もなく矛盾したことを主張していたとは考えられません。なんらかの真意があると思われます。ですから、真意を突きとめなければなりませんが、伝聞が相手です。わたしも、村岡氏の立場と時代背景から推測するしかありません。
 村岡氏の「日本思想史の研究方法について」(一九三四、『新編日本思想史研究』平凡社より)をみても、ベークのフィロロギーをかなり正確に、深く理解していた様子がわかります。村岡氏は『本居宣長』を中心に、ベークの方法論と本居宣長の方法論を比較研究しましたが、そうした方法論について触れた「日本思想史の研究方法について」にも、問題の発言は一切登場しません。また「実証と論証」という比較検討の言及もありません。
 ところで、村岡氏は国学・国史を中心テーマとしていましたが、論敵であった津田左右吉氏(一八七三~一九六一)は、『古事記及び日本書紀の新研究』(一九一九)、『日本上代史研究』(一九三〇)などで神話や古代の天皇の事績を、〝史料批判〟によって〝科学的に〟「史実ではない」と切り捨てていました。「認識されたものの認識」というベークの方法論に従おうとする村岡氏からすれば、切り捨てるのではなく、まず「与へられた資料なる文献を、正しい姿に於いて、また正しい系列に於いて、而して正しく解釈して、その文献の思想を再認識すること」(「日本思想史の研究方法について」)が肝要です。津田氏も同じような方法論を表明はしていましたが、実際には「神話」や「伝承」を「事実ではない」として切り捨てたうえで歴史の再構築をしていたのが現実でした。これは、「実証がない」という理由で『認識されたもの』を捨て去り、考察の対象から除外することです。ベークのフィロロギーによれば、それは文献学でも歴史学でもなく、津田氏の哲学思想にほかなりません。ベークはフィロロギーを「哲学のようにしてはならない」と諌めていました。

村岡氏は実証主義を批判した

 津田氏は、神話による歴史の構築を批判して古代の伝承を切り捨てていたのですが、津田氏のこのやり方は、明治以降、西洋文明四千年の奔流を一挙に飲み込まざるを得なかった時代に、新しい流行としての実証主義が未消化のまま取り込まれた結果、といえると思います。実証主義は、西洋文明というゆりかごの中で起きたギリシア・ローマ古典文明とキリスト教の相克から生まれました。しかしこの寄り道は、欧米ではその後の哲学の多様化によって、学問上はあっという間に乗り越えられていったのですが、日本や、欧米でも日常生活では、未だにその影響が残っています。
 チャールズ・サンダース・パース(一八三九~一九一四)の論理学を紹介している米盛裕二氏(一九三二~二〇〇八)は『アブダクション 仮説と発見の論理』(二〇〇七、勁草書房)で、論証に関わる帰納主義に関連して、実証主義を批判しています。「この考え方(科学的探求に関する狭い考え方)はかつて実証主義の全盛期には広く支持されていたものであり、そしてそれは仮説や仮説的方法に対して懐疑的否定的な実証主義的帰納主義の立場をよく示している」と指摘したうえで、「(実証主義者は)科学者個人の主観的な推測や判断から偏見が生じて科学的探求の客観性と実証性を危うくすることがないように、『事実をして自ら語らしめよ』というのです。しかしどのようにして事実は自らを語るのでしょうか。事実をして自ら語らしめるにしても、まず事実が集められなくてはなりません。(中略)しかし事実を集める場合、われわれは何の考えも目的もなく、求められる事実の意味も考えずに、ただ無方針に事実をあれこれ集めることはしないでしょう」と、実証主義的な考え方を否定しています。さらに「解釈をくわえられない生の事実の観察というものはありえません。事実の観察はつねに何らかの解釈や考え、何らかの方針や計画、何らかの概念や仮説にもとづいて行われるのです」と、現代論理学では自然科学の分野においてすら、実証主義は否定されている実情を明らかにしています。つまり、現代論理学では「事実認識」をめぐる「実証」は、解釈や仮説に基づいて計画され、「論証」の一部を構成しているのです。つまり「実証の優位」を主張する実証主義は、いまや科学的学問的ではないとされているのです。
 以上を総合的に判断すれば、村岡氏の真意は、「実証」を批判することではなく、神話にすぎないとして『認識されたもの』を顧みなかった津田氏の方法(実証主義)を批判することだったと考えられます。『学問は実証主義よりも論証を重んじる』。村岡氏の真意がもしこうであれば、表現としても論理的な矛盾は起きません。つけ加えるならば、村岡氏のこの発言時期は戦後間もなく(敗戦から氏が亡くなるまでの約八カ月間)ではないかと推測します。追放されていた論敵の津田氏が、敗戦を機に再び脚光を浴び始めたころ、かねて戦前から、論争の中で村岡氏が主張していた実証主義批判を、改めて警句的に口にしたのでしょう。諸先輩方が直接聞いていたらしいのに、古田先生は聞いていなかった様子なので、なおさらそう推理しました。古田先生が広島に戻っていた間の発言だったのではないでしょうか。論敵が敗戦とともに「復活」した時期です。

古田先生の時代と立場

 古田先生は、師の村岡氏とは別のところで戦っていました。よく知られているように「一元史観」との戦いです。みなさんの方がよくご存じのことなのでいちいち証拠を挙げて詳述することはしません。ベークのフィロロギーを模範とする古田先生の学問姿勢からみれば、考古学的発見や『日本書紀』の記述という「事実」を主張するだけで、どこにも真摯な論証がないというのは、受け入れられるものではなかったと思います。『日本書紀』の記述に合わせた「考古学的発見」の解釈を科学的な客観性だと主張して、そこに十分な論証がないのは、実証主義そのものです。
 ベークによれば、文献学は論理学でもあったはずです。ベークのフィロロギーは、当時の古典的論理学では到底解決できない文献学(歴史学)を、現代論理学のレベルにまで引き上げるための「解釈学+批判」の新しい方法論だったのだと思います。現代論理学の理論が存在しなかった時代に、深いレベルの方法論を、古典的な用語だけで愚直に表現しているのだと感じました。哲学の基準学が論理学だったように、ベークは文献学の基準学を「フィロロギー(論理を愛する学)」として築きました。このことは、それまでのカビ臭い訓詁学のように思われていた文献学を、歴史科学にまで高めたものと評価されました。その意味でも、「論証」が大事なのはいうまでもないと思います。
 さらに、『認識されたものの認識』というベークの定義は、フィロロギーについて万人が絶対に誤解することがないようにと考えた、苦心した表現でした。文献学の対象を『認識されたもの』に絶対的に縛りつけ、思考が『認識されたもの』から離れて哲学のように独り歩きしてしまわないように、と注意するための工夫です。また、文献学(フィロロギー)を『理解の学問』とも定義していました。これは「事実解釈」(事実であったかどうかを判定すること)に走って『認識されたもの』を廃棄することがないよう、『認識されたもの』の『再認識』を目標にするための工夫でもあったのです。そして「(事実解釈は)理解するためにまったく無くても済む」とまでいっています。
 もちろん、ベークが活躍したころのベルリンでは「実証主義」はまだ伝わっておらず、知られていなかったでしょう。ベークの『文献学的諸学問のエンツィクロペディーと方法論』に「実証主義」という用語は登場しません。しかし、ベークの先見性がこの問題を先取りしていたのだと思います。

ベークのフィロロギーにおける「実証」と「論証」

 したがって、実証主義は「事実がない」「実証がない」と主張する場合と、「事実がある」「実証できた」と主張する場合の両面で間違いを犯します。「事実がない」「実証がない」というだけで『認識されたもの』を『再認識』することなくごっそり捨て去る、津田氏と同じ誤りです。翻って実証主義者は「事実がある」という主張だけで正しさの根拠とし、論証を怠ります。この両面を、二〇世紀に入るとバートランド・ラッセル(一八七二~一九七〇)らに批判されたのです。
 ベークのフィロロギーでは、「論証」の要素に「実証」の根拠が含まれ、「実証」の構築に「論証」の助けが支えとなっていた、とわたしは理解しています。米盛氏がいうように「事実」というものはただその「事実」を表現しているだけで、それ以上のことは語りません。「事実」についての「論理展開」があってはじめて、仮説的な真実が発見され、それが「実証」として働き、さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が保証される、という構造になっているのです。これこそが、村岡氏や古田先生が目指していたフィロロギーという学問の方法なのです。


 これは会報の公開です。史料批判は、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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