2018年8月13日

古田史学会報

147号

1,「実証」と「論証」について
 茂山憲史

2,よみがえる古伝承
大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)
 正木裕

3,長沙走馬楼呉簡の研究
 古谷弘美

4,古田先生との論争的対話
 「都城論」の論理構造
 古賀達也

 編集後記

 

 

古田史学会報一覧

律令制の都「前期難波宮」 (会報145号)
九州王朝の都市計画 前期難波宮と難波大道 (会報146号)
九州王朝の高安城 (会報148号)


古田先生との論争的対話

「都城論」の論理構造

京都市 古賀達也

(一)はじめに

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』には、わたしのことに触れられた箇所があります。中でも次の部分は学問的にも貴重で、懐かしく当時のことを思い出しました。
 「その間、藤原宮の大極殿問題を発端とする、古賀達也氏(古田史学の会)との(論争的)応答や西村秀己氏(同上)の(「七〇一」禅譲)説などが、大きな刺激となりました。」(二二三頁)
 ここで書かれているように、古田先生とは様々なテーマで意見交換や学問的討議、ときに激しい「論争的」応答もしてきました。わたしも先生も負けず嫌いな性格でしたので、先生のご自宅や電話で長時間論争したこともありました。ただし、わたしは終始敬語で応答しました。それは「師弟」間の礼儀ですし、三一歳のとき古田史学に入門以来、わたしは古田先生を誰よりも尊敬してきたからです。その気持ちは今でもまったく変わりありません(師弟間〔坂本太郎さんと井上光貞さん〕の学問論争のあり方について、古田先生から興味深いお話と関係論文をいただいたことがあります。別の機会に紹介します)。
 その「論争的」対話の一つに九州王朝や大和朝廷の都城論がありました。中でも最も長期間の応答が続いたのが、前期難波宮九州王朝副都説についてでした。大阪市中央区法円坂で発見された七世紀中頃の巨大宮殿「前期難波宮」を近畿天皇家の孝徳の宮殿とする通説に疑念を抱いたわたしは、それを九州王朝の宮殿ではないかとする作業仮説(思いつき)を古田先生に話したことがありました。論文発表(注①)よりもかなり前のことでした。
 古田先生は賛成されませんでしたが、それ以後、古田先生の反対意見に答えるべく十年にわたり論文発表を続けました。古田先生以外から出された反対意見に対しても、執念の研究と論文発表を続けたのです。そして二〇一四年の八王子セミナーの席上で、ついに古田先生から「検討しなければならない」の一言を得るに至ったのです。もちろん、わたしの説に賛同されたわけではありませんが、それまでの「反対意見表明」ではなく、検討すべき仮説の一つとして認めていただいたもので、その日の夜、わたしはうれしくてなかなか眠れませんでした。

(二)「難波長柄豊碕宮」博多湾岸説

 十年続いた古田先生との前期難波宮論争でしたが、実はいくつかの重要な合意形成もしてきました。その一つが、『日本書紀』孝徳紀に孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」についての見解です。
 一元史観の通説では「難波長柄豊碕宮」を法円坂の前期難波宮としているのですが、古田先生もわたしも宮殿名と地名が異なっているので、そこではないと意見が一致していました。わたしは大阪市北区の長柄・豊崎が地名が一致しており、そこを有力候補とする試案を発表しました。古田先生は博多湾岸の愛宕神社近辺の類似地名「名柄川」「豊浜」などを根拠に当地にあったとする仮説を発表されました。それぞれに根拠(地名の一致、類似)があるため、最終的には七世紀中頃の宮殿遺構の有無が決め手になるとわたしは指摘してきました。
 なお、わたしの副都説の本質は、あの国内最大規模の前期難波宮を九州王朝説の立場からどのように理解し位置づけるのかにありますから、孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」の所在地問題は直接には副都説とは関係ありません。この点を誤解された批判や論稿が散見されますので、強調しておきます。
 この「難波長柄豊碕宮」について、古田先生は博多湾岸の愛宕神社とされたのですが、二〇〇八年一月十九日の大阪市での古田武彦講演会(「九州王朝論の独創と孤立について」、主催「古田史学の会」)では次のように話されていました。
【以下、引用】
 福岡市西区に「名柄(ながら)川」「名柄(ながら)浜」「名柄団地」があり、今は地図にないが「名柄(ながら)町」があった。それで「ナガラ」という地名はありうる。(中略)
 それで、わたしがここではないかと考えていたのが、そこの豊浜の「愛宕山」。愛宕神社がある。平地の中にしてはたいへん小高いので、今まで敬遠して上ったことはなかった。(中略)それで上に登ると絶景で、博多湾が目の下に見えている。そして岩で出来ていて、目の下が豊浜。(中略)
 九州王朝の歴史書で書かれていた「難波長柄豊碕宮」はここではないか。(中略)もちろんこの「難波長柄豊碕宮」は、太宰府の紫宸殿とは別のところにあります。別宮のような性質です。以上が「難波長柄豊碕宮」に対する現在のわたしの理解です。(『古代に真実を求めて』第十二集所収。古田史学の会編・明石書店、二〇〇九年)【引用、終わり】

 

(三)博多湾岸説への疑義

 九州王朝の都城所在地の変遷について、古田先生と論議を続けていましたので、この古田仮説にわたしは疑問をいだいていました。それは次のような理由からでした。

 ①「難波長柄豊碕宮」が造営された七世紀中頃は白村江戦(六六三)の直前であり、博多湾岸のような敵の侵入を受けやすい所に九州王朝が宮殿(太宰府の別宮)を造営するとは考えられない。

 ②七世紀中頃の宮殿遺構が当地からは発見されていない。

 ③近畿天皇家の孝徳が「遷都」したとする摂津難波の宮殿名を、『日本書紀』編者が博多湾岸にあった九州王朝の天子の宮殿名にわざわざ変更して記さなければならない理由がない。本来の名前を記せばよいだけなのだから。

 このようにわたしは考えていました。特に①の理由については、これまで古田先生と散々論じてきたテーマであり、先生が言われてきたこととも矛盾していました。

(四)「倭の五王」の宮殿論争

 わたしと古田先生は、五世紀の「倭の五王」の宮殿がどこにあったのかで論争を続けていました。古田先生は太宰府都府楼跡(大宰府政庁Ⅰ期)とするご意見でしたが、わたしは大宰府政庁Ⅰ期出土の土器編年はとても五世紀までは遡らないし、堀立柱の小規模な遺構であり、倭王の宮殿とは考えられないと反論してきました。そして次のような対話が続きました。

古田「それならどこに王都はあったと考えるのか」

古賀「わかりません」

古田「水城の外か内か、どちらと思うか」

古賀「五世紀段階で九州王朝が水城の外側に王都を造るとは思えません」

古田「だいたいでもよいから、どこにあったと考えるか」

古賀「筑後地方ではないでしょうか」

古田「筑後に王宮の遺跡はあるのか」

古賀「出土していません」

古田「だったらその意見はだめじゃないですか」

古賀「だいたいでもいいから言えと先生がおっしゃったから言ったまでで、まだわかりません」

 およそこのような「論争的」対話が続いたのですが、合意には達しませんでした。しかし「水城の内側(南側)」という点では意見の一致を見ていました。
 こうした論議の経緯がありましたので、古田先生が「難波長柄豊碕宮」を「水城の外側」博多湾岸の愛宕神社とする仮説を出されたことを不思議に思ったものです。しかし、事態は更に「発展」しました。

(五)「難波朝廷」博多湾岸説

 古田先生による「難波長柄豊碕宮」博多湾岸説はそれだけにとどまることなく、その地が九州王朝の「難波朝廷」であり、評制を施行した宮殿とされました。二〇〇八年一月の大阪講演会で次のように述べられています。
 「その中(『皇太神宮儀式帳』『神宮雑例集』、古賀注)に『難波長柄豊碕宮』や『難波朝廷』が出てくる。(中略)これが実は博多の宮殿を指している。この『難波朝廷』は九州博多にある九州王朝の宮殿を指している。その時に『評』が造られた。このように考えます。」(『古代に真実を求めて』十二集、二〇〇九年明石書店刊。五〇頁)
 『なかった』五号(ミネルヴァ書房、二〇〇八年六月)の古田武彦「大化改新批判」にも次のように記されています。
 「(補1)博多湾岸の『難波の長柄の豊碕』は、九州王朝の別宮であり、最高の軍事拠点である。ここにおいて『評制』も樹立された可能性がある。もちろん『九州王朝の評制』である。
 『近畿の(分王朝の)軍』を率いた近畿分王朝の面々(皇極天皇・中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿等)は、この『九州王朝の別宮』に集結していた。その近傍において『入鹿刺殺』の惨劇が行われたこととなろう。」(三三頁)

 このように、古田先生は博多湾岸の愛宕神社に「難波朝廷」があり、ここで九州王朝が評制を樹立したとする仮説を発表されたのです。この場合、九州王朝の「難波朝廷」がそこにあったとする史料根拠は『皇太神宮儀式帳』です。それ以外に「難波朝廷で天下立評した」と記した史料はありません。ちなみに『皇太神宮儀式帳』は『日本書紀』の影響を受けた後代史料だから歴史資料として使えないとする論者もあるようですが、それは史料批判の上で使用された古田先生の学問の方法と異なることは明らかです。わたしは古田先生と同意見で、史料批判により『皇太神宮儀式帳』は歴史資料として使用できると考えています。
 前期難波宮を孝徳の難波長柄豊碕宮とする一元史観の通説に対して、わたしは九州王朝副都説を発表していたのですが、新たに古田先生は「難波長柄豊碕宮=難波朝廷」博多湾岸説とそこでの評制樹立説を提起されたのです。こうして、三つの説が出そろって、わたしと古田先生の長期にわたる「論争的応答」が佳境に入りました。

(六)副都説の本質と四つの問い

 わたしの副都説の本質は前期難波宮を九州王朝説ではどのように理解し、位置づけるかにあります。すなわち、七世紀中頃の宮殿としてはけた違いに大規模で(七世紀末に藤原宮が完成するまでは日本最大。大宰府政庁の約十倍。東京ドーム一個半が入る広さ。)、日本初の中国風朝堂院様式の前期難波宮を倭国(九州王朝)の天子の宮殿とするのか、その配下の近畿天皇家(孝徳天皇)の宮殿とするのかという問題です。この問題を明確にするために、わたしは次の四つの問いを示し、それを最もよく説明できる答えを反対される方々に求めてきました。

1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 通説と古賀説の「解答例」を記し、難波朝廷博多湾岸説による「解答」も考察してみます。

〔解答例1・通説〕
1.孝徳天皇の難波長柄豊碕宮。
2,大和朝廷が全国を評制統治するための宮殿。
3,前期難波宮と周囲の官衙群、あるいは飛鳥宮。
4.諸説あるが未定。

〔解答例2・古賀説〕
1.九州王朝の天子の宮殿。
2.九州王朝が全国を評制統治するための宮殿(副都)。
3.前期難波宮と周囲の官衙群。前期難波宮焼失後は太宰府(首都)か。
4.前期難波宮。

 難波朝廷博多湾岸説の解答例は次のようになると考えられます。

〔解答例3・難波朝廷博多湾岸説〕
1.『日本書紀』に記されていない近畿天皇家の宮殿。
2.不明。
3.博多湾岸の愛宕神社にあった難波朝廷(別宮)で評制樹立。「奥宮」は太宰府。
4.不明。(古田先生から直接お聞きしたご意見は別に詳述します)

 このような「解答」が難波朝廷博多湾岸説では想定できます。わたしから見ると、それぞれの説に一長一短があり、通説では4が、難波朝廷博多湾岸説では2と4の答えが導き出せないように思われます。わたしの副都説にも説明しにくい弱点があります。その理由は各説の持つ論理構造にあります。

(七)通説(一元史観)の論理構造

 わたしの副都説の対極にある一元史観の通説「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」がどのような論理構造に基づいて成立しているのかについて解説します。
 一元史観の都城論において、基本的な論理構造は考古学的出土事実と『日本書紀』や『続日本紀』の史料事実の対応です。特に八世紀初頭と七世紀後半における律令時代にふさわしい全国支配のための王宮として、平城宮と藤原宮という巨大朝堂院を有する宮殿が出土し、その年代なども『続日本紀』『日本書紀』の記述と矛盾なく整合しています。
 藤原宮(京)の創建により、七〇一年以降の近畿天皇家は朝堂院と朝庭を有する宮殿において大宝律令による全国統治を行ったことに由来する「大和朝廷」という呼称が妥当な列島の代表王朝となりました。藤原宮に比べて、各地の国府の規模は律令体制下の各国を統治するのに必要な小規模な宮殿(大宰府政庁Ⅱ・Ⅲ期の宮殿もこの規模)で出土しています。各国府遺構と比較してもはるかに巨大な平城宮や藤原宮が全国支配に対応した規模であることは明らかです。
 このような考古学的事実による実証と、『日本書紀』『続日本紀』の史料事実による実証が整合していることが一元史観成立の基本的な根拠の一つになっているのです。この論理構造の延長線上で、前期難波宮の一元史観による理解と位置づけがなされています。
 わかりやすく箇条書きで「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」説成立に至った論理構造を説明します。

 ①律令による全国統治に必要な王宮の規模として、大規模な朝堂院様式の平城宮や藤原宮という出土例(考古学的事実)がある。

 ②その例に匹敵する巨大宮殿遺構が大阪市法円坂から出土(考古学的事実)し、「前期難波宮」と命名された。

 ③前期難波宮の創建年代について、孝徳期か天武期かで永く論争が続いた。

 ④「戊申年」(六四八年)木簡や整地層から七世紀中頃の土器の大量出土(考古学的事実)、水利施設木枠等の年輪年代測定(測定事実)により、孝徳期創建説が通説となった。

 ⑤そうした考古学的事実に対応する『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」(史料事実)が前期難波宮であるとした。

 ⑥その結果、『日本書紀』孝徳紀にある「大化改新詔」を実施した宮殿は前期難波宮(難波長柄豊碕宮)とする理解が可能となり、文献史学で論争されていた「大化改新」の是非について、「大化改新」は歴史事実とする説が有力となった。

 以上のように、『日本書紀』孝徳紀白雉三年条の「論じることができないような宮殿」創建記事(注②)と、法円坂から出土した前期難波宮は、古田先生のいう「シュリーマンの法則」、すなわち伝承(史料)と考古学的出土事実が一致すれば、その伝承は真実である可能性が高いという好例となります。こうした強固な論理構造により、一元史観による通説(前期難波宮=難波長柄豊碕宮)は成立しているのです。考古学事実に基づく実証と『日本書紀』の史料事実に基づく実証の相互補完と整合により成立している「戦後実証史学」は決して侮ることはできません。

(八)修正一元史観のエビデンス

 一元史観における「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」説成立の基本的な論理構造が、「シュリーマンの法則」に合致した強固なものであることにわたしが気づいたのは約二〇年ほど前のことでした。以来、九州王朝説に立つわたしはこの問題に悩まされてきました。それは次のような理由からでした。
 ①前期難波宮の巨大な規模(国内最大)は、七世紀中頃から後半の律令時代にふさわしい全国統治のための王宮と見なさざるを得ない。

 ②七世紀中頃に評制が全国に施行された。その主体は九州王朝(倭国)とするのが古田説だが、その評制支配された側の近畿天皇家の孝徳天皇の宮殿(前期難波宮)の方が、九州王朝の王宮と考えられていた大宰府政庁Ⅱ期宮殿遺構よりも十倍近く巨大というのは、九州王朝説にとって不都合な考古学的事実である。

 ③前期難波宮の特徴はその規模だけではなく、当時としては最新の中国風王宮様式の「朝堂院様式」である。この最新の様式が九州王朝の中枢領域ではなく、近畿(摂津難波)に最初に取り入れられたことも、九州王朝説にとって不都合な考古学的事実である。

 ④「天子」を自称した七世紀初頭の多利思北孤の時代から白村江戦以前の七世紀中頃までは九州王朝(倭国)が最も興隆した時代と思われる(唐と一戦を交える国力を有していた)。しかし、その宮殿は配下の近畿天皇家(前期難波宮)の方がはるかに巨大であることは、九州王朝説では合理的な説明ができない。

 こうしたことが九州王朝説にとって深刻な問題であることに気づいたわたしは何年も悩み続けました。
 一元史観との論争(他流試合)を経験された方であれば理解していただけると思いますが、わたしがある著名な理系の研究者に古田説・九州王朝説を説明したところ、邪馬壹国が博多湾岸にあったことには賛意を示してくれたのですが、六~七世紀時点では大和朝廷が列島の代表者と考える方が考古学的諸事実や『日本書紀』の記事と整合しているとの実証的反論を受け、約二時間論争しましたが、ついにその研究者を説得できませんでした。
 彼は理系の研究者らしく、「あなた(古賀)も理系の人間なら解釈ではなく、近畿よりも九州に権力中心があったとするエビデンスを示せ」と迫ったのです。すなわち、中国史書の倭国伝などを史料根拠としての論理的帰結(論証)による九州王朝説を、彼は「一つの解釈にすぎない」として認めず、具体的なエビデンス(九州王朝存在を示す考古学的証拠や九州王朝史書など)に基づく実証を求めたのでした。この論法は「戦後実証史学」に見られる古田説・九州王朝説批判の典型的なものでもあります。なお付言しますと、彼は真摯な研究者であり、一元史観にこだわるという頑固な姿勢ではなく、九州王朝説にも関心を持たれていました。
 今回の問題についても、前期難波宮を近畿天皇家の宮殿と理解する限り、それは“七世紀中頃には既に九州王朝はなかった”“孝徳天皇が前期難波宮において九州を含む全国に評制を施行した”という新たな一元史観(修正一元史観)を支持するエビデンス(証拠)として「戦後実証史学」にからめ取られてしまうのです。

(九)九州王朝副都説の論理構造

 次に、わたしの副都説の論理構造について解説します。まず、一元史観による「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」の論理構造①~④は同じで、ここまでは考古学的事実に基づいており、一元史観であれ多元史観であれ、考古学的事実を認める限り、それほど大きな意見の差はありません。
 なお、④について古田学派内にも天武朝の造営とする論者もありますが、それが成立しないことは何度も指摘してきた通りです(注③)。しかも天武朝説論者から出される根拠は、前期難波宮整地層から極少数出土した“須恵器杯Bのようだが、普通の杯Bよりも大きめの坏で、いわゆる杯Bの範疇外(江浦洋氏談)”の独自「編年解釈」くらいであり、干支木簡や年輪年代測定値などの実年代を確実に判断できる根拠やそれに基づく実証や論証の提示は皆無です。(注④)
 ④の後に一元史観では次のような実証が展開されます。
 「⑤そうした考古学的事実に対応する『日本書紀』孝徳紀に見える『難波長柄豊碕宮』(史料事実)が前期難波宮であるとした。」
 わたしは古田史学・九州王朝説に立っていますから、『日本書紀』の記述を無批判に採用することはできません。そこで①~④の考古学的事実に対して、九州王朝説を是とする立場から次のように論理展開しました。

 ⑤七世紀中頃に九州王朝(倭国)が施行した評制により全国統治が可能な宮殿・官衙は、平城宮・藤原宮の規模に相当する当時としては国内最大規模の前期難波宮だけであることから、前期難波宮は九州王朝の宮殿と見なさざるを得ない。その際、九州王朝(倭国)は最新の中国風王宮の「朝堂院様式」を採用した。
 ⑥九州王朝はその前期難波宮にて、九州年号「白雉」改元(六五二年)の大規模な儀式を行った。そのことが『日本書紀』孝徳紀白雉元年条(六五〇年)に、二年ずらして記載(転用)された。

 以上のようにわたしの副都説は、考古学的事実に基づく実証と、古田先生の九州王朝説を根拠(前提)とする論証との逢着により成立しています。

(十)博多湾岸説の論理構造

 最後に古田先生が提唱された「難波長柄豊碕宮=博多湾岸」説の論理構造について説明します。
 『日本書紀』には九州王朝(倭国)の事績が盗用(転用)されていることは、『盗まれた神話』などで古田先生が明らかにされてきたところですが、晩年、先生は更にそれを敷衍して、近畿から出土した金石文・木簡や『日本書紀』の記述中に北部九州の類似地名があれば、それは北部九州を舞台にした地名や事績に基づくものとする方法論を多用されました。「難波長柄豊碕宮=博多湾岸」もその論理に依られたものです。
 通説では前期難波宮を「難波長柄豊碕宮」と理解するのですが、「長柄」や「豊碕」地名は、前期難波宮がある大阪市中央区の法円坂ではなく、北区にあることから、古田先生は前期難波宮は孝徳紀に見える難波長柄豊碕宮ではないとされました。この点はわたしも同意見で、そうであれば難波長柄豊碕宮は北区の「長柄」「豊崎」にあったのではないかとわたしは考えたのですが、古田先生は博多湾岸にも「名柄」「難波(なんば)」「豊浜」という類似地名があることから、博多湾岸説に立たれたのです。そしてその理解の延長線上に博多湾岸に「難波朝廷」もあり、その地の宮殿で「天下立評」したとする仮説を展開されました。
 この論理構造は、大阪市と博多湾岸の両者に類似地名はあるが、必要にして十分な論証や考古学的実証(七世紀中頃の宮殿遺構の出土)を経ることなく、九州王朝の中枢領域にあったとする理解を優先させるということが特徴的です。この方法を古田先生は晩年に多用されたため、その方法論上の有効性と適用範囲について、わたしと先生との間で様々な論議や論争が行われましたが、このことは別に詳述したいと思います。
 極論すれば、古田先生は近畿出土の金石文や『日本書紀』に見える「地名」を北部九州へと収斂させる方向で七世紀の九州王朝史復元を試みられました。他方、わたしは前期難波宮副都説や九州王朝近江遷都説のように、九州王朝の直轄支配領域を近畿へと拡大させることで七世紀の九州王朝史復元を試みました。すなわち、両者の仮説のベクトルが真反対だったのです。
 わたしはこのベクトルの「衝突」を明確に意識し、副都説を発表すれば古田先生との意見の対立は避け難いのではないかと懸念しました。そしてそれは現実のものとなり、先生との学問的意見対立は十年近くにも及んだのでした。これは「弟子」としてはかなりつらいことでした。ですから二〇一四年の八王子セミナーにて、それまで反対されてきた副都説に対して「検討しなければならない」と言っていただいたことが、わたしにとってどれだけ嬉しかったことか、ご想像いただけると思います。しかし、検討される間もなく、翌年十月に先生は亡くなられました。

 (二〇一八年六月一日、筆了)

(注)

①古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」(『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月)

②「秋九月、宮を造りおわる。その宮殿の状、ことごとくに論(い)うべからず。」『日本書紀』白雉三年条(六五二年。九州年号の白雉元年と同年)

③古賀達也「前期難波宮『天武朝造営説』への問い」(『東京古田会ニュース』一七六号、二〇一七年九月)

④前期難波宮天武朝造営説(小森俊寛氏)への批判として、次の論稿を発表しています。
古賀達也「前期難波宮の考古学(3)ここに九州王朝の副都ありき」(『古田史学会報』一〇八号、二〇一二年二月)
古賀達也「前期難波宮の学習」(『古田史学会報』一一三号、二〇一二年十二月)
古賀達也「続・前期難波宮の学習」(『古田史学会報』一一四号、二〇一三年二月)
古賀達也「七世紀の須恵器編年 前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁」(『古田史学会報』一一五号、二〇一三年四月)

 

 

編集後記

 会報一四七号は初登場茂山さんに巻頭を飾って戴きました。古谷さんは久方ぶりの投稿です。
 さて、反省の弁を。小生会報四八号で「水滸伝中の短里」という小考を書きました。これは「水滸伝」において一日に八百里を走るとされる神行太保戴宗が東洋文庫「水滸後伝」では一日百数十里とされているのに気が付き、この比が一対五~六で丁度長里と短里の比率と同じ為、てっきり「後伝」の作者陳忱は短里の概念を知っており、「本伝」の短里的表記を長里に改めたと考えたのです。ところが最近「後伝」の原文を見る機会があり当該箇所を確認したところ「八百里」となっているのです。そこで調べられる限りの原文や東洋文庫以前の日本語訳を確認したらその全てが「八百里」でした。東洋文庫鳥居久靖訳と原文の全ての「里」を確認したところ、慣用的表現・固有名詞以外の全ての「里」が鳥居氏によって約六分の一にされていたのです。鳥居氏はどうやら中国の里を一里約四㎞の日本里に直したようなのです。鳥居氏にはどこかで断って欲しいものですが、やはり原文確認は大事だということですね。猛省です。(西村)


 これは会報の公開です。史料批判は、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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