律令制の都「前期難波宮」 (会報145号)
古田先生との論争的対話 「都城論」の論理構造 (会報147号)
九州王朝の都市計画
前期難波宮と難波大道
京都市 古賀達也
(一)九州王朝の難波大道
二〇一八年二月の「誰も知らなかった古代史」(正木裕さん主宰)で、安村俊史さん(柏原市立歴史資料館・館長)の講演「七世紀の難波から飛鳥への道」をお聞きしました。特に前期難波宮の朱雀門から真っ直ぐに南へ走る難波大道が七世紀中頃の造営とされる考古学的根拠の解説は興味深いものでした。わたしの前期難波宮九州王朝副都説から考えれば、この難波大道も九州王朝の造営とならざるを得ないからです。
通説では難波大道の造営時期は『日本書紀』推古二一年(六一三)条の「難波より京に至る大道を置く」を根拠に七世紀初頭とされているようですが、安村さんの説明によれば、二〇〇七年度の大和川・今池遺跡の発掘調査により、難波大道の下層遺構および路面盛土から七世紀中頃の土器(飛鳥?期)が出土したことにより、設置年代は七世紀中頃、もしくはそれ以降で七世紀初頭には遡らないことが判明したとのことです。史料的には、前期難波宮創建の翌年に相当する『日本書紀』孝徳紀白雉四年(六五三年、九州年号の白雉二年)条の「處處の大道を修治る」に対応しているとされました。
この難波大道遺構(堺市・松原市)は幅十七mで、はるか北方の前期難波宮朱雀門(大阪市中央区)の南北中軸の延長線とは三mしかずれておらず、当時の測量技術精度の高さがわかります。これも前期難波宮九州王朝副都説によれば、九州王朝の土木技術水準の高さを示していることになります。そして、九州王朝は前期難波宮造営とともに遙か南の堺市付近まで朱雀大路を延長し、難波大道を造営したことになります。こうした事実から、九州王朝は難波副都造営にあたり、かなり大規模な都市計画を持っていたことがわかってきました(注)。
安村さんの説明では、この南北正方位の道路規格や方格地割は中国の制度を取り入れたものであり、その痕跡は難波京条坊や難波大道にとどまらず、田圃の条里(一一〇m四方の畦跡)や飛鳥の小墾田宮の周辺にも影響を及ぼし、七世紀前半では斜行していた道路や建物が中頃には正方位になるとのこと。こうした事実から、九州王朝による正方位の都市計画思想が難波京の条坊都市だけではなく、飛鳥の近畿天皇家の宮殿にも影響を及ぼしたことがわかります。
(二)正方位重視の都市計画
「誰も知らなかった古代史」での質疑応答のとき、わたしは安村さんに次の質問を行いました。
「レジュメ記載の古地図によれば、四天王寺周辺の南北直線道路は正方位ではなく、東へ一〇度ほどぶれているが、それは何故か。創建四天王寺も同様に東偏していたのか。難波京条坊は四天王寺付近までは広がっていないのか。」
この質問に対して、安村さんの回答は次のようでした。
「創建四天王寺の中心軸は正方位である。周辺の道路が東偏しているのは、上町台地の最も高い場所を走った結果によると思われる。正方位の条坊跡は四天王寺付近でも発見されており、条坊はそこまで広がっていたと推定できる。」
この安村さんの説明にわたしは一応納得できたのですが、四天王寺周辺の直線道路が東偏している理由がやはり気になっています。四天王寺は『二中歴』「年代歴」の記事(二年難波天王寺聖徳造)にあるように、九州年号の倭京二年(六一九)に難波「天王寺」として創建されたと考えられますが、そのとき九州王朝は「天王寺」を正方位で造営しておいて、周囲の直線道路は上町台地の地勢に合わせて東偏させたのでしょうか。あるいは既に存在していた道路は東偏のままにしておき、「天王寺」は正方位に造営したのでしょうか。または東偏している道路は正方位の条坊とは無関係に、後代になって造営されたのでしょうか。今のところよくわかりませんので、引き続き考古学者の見解を聞いてたいと思います。
いずれにしても、七世紀初頭(倭京元年か)に造営されたと考えられる太宰府条坊や倭京二年に創建された難波「天王寺」が正方位であることから、七世紀の九州王朝(倭国)が正方位を重視した都市計画思想を持った王朝であることは疑えません。
(三)七世紀初頭は斜向直線道路
安村さんによれば、前期難波宮朱雀門から南の堺市付近まで一直線に伸びる「難波大道」を『日本書紀』孝徳紀白雉四年(六五三年、九州年号の白雉二年)条の「處處の大道を修治る」に対応しているとされました。他方、『日本書紀』推古二一年(六一三)条の「難波より京に至る大道を置く」の「難波大道」について次のような「渋河道ルート」を提唱されました。
・難波津—熊野街道—[四天王寺]—渋河道—[渋河廃寺]—渋河道(大和川堤防)—[船橋廃寺]—[衣縫廃寺]—〔石川〕—大和川堤防—〔大和川〕—竜田道—[平隆寺]—[斑鳩寺]—[中宮寺]—太子道(筋違道)—飛鳥(小墾田宮)
この「渋河道ルート」と考える理由として次の点を挙げられました。
a.古代寺院の立地 七世紀初頭〜前葉に創建された寺院が建ち並ぶ。
b.奈良時代には平城宮から難波宮への行幸路であった。(『続日本紀』の記事が根拠)
c.斑鳩を経由 飛鳥から斑鳩へ移った厩戸皇子の拠点を通過。
d.太子道の利用 斑鳩から飛鳥への斜向直線道路が七世紀初頭には設置されていた。
e.大和川に近接 大和川水運で利用された渋河、船橋、斑鳩などの施設が利用可能。
f.高低差少ない 河内と大和国境の峠越えで最も起伏が小さいルート(標高七八m)。
以上の理由を挙げ、七世紀前半は斜向直線道路の時代であり、それは自然地形を利用しながら、ある地点の間を直線で結ぶ道路であったとされました。そしてこの「渋河道ルート」が厩戸皇子との関係が深いことも指摘されました。
こうした安村さんの見解は一元史観に基づかれてはいますが、説得力を感じました。これを多元史観・九州王朝説で再解釈してみると、次のような理解が可能です。
①九州王朝による古代官道は七世紀初頭頃までは斜向直線道路で、国府など各地点を結んでいた。
②七世紀初頭以降になると正方位の直線道路や条坊都市・条里が都市計画に採用される。
③その傾向は難波・斑鳩・飛鳥間や周辺地域にも痕跡を残している。
④上町台地でもその北部から四天王寺・斑鳩を結ぶ道路(渋河道など)に斜向直線道路が見られ、その周辺に「聖徳太子」に関連する寺院が並んでいるが、これも九州王朝の多利思北孤か利歌彌多弗利による造営と見なすことができる。
⑤七世紀中頃になると、正方位規格による難波京条坊都市や難波大道、条里(一一〇m方眼)が造営されている。
⑥すなわち、九州王朝による正方位による都市計画思想が七世紀初頭頃から採用され、その先駆けが太宰府条坊都市だったと思われる。
以上のような七世紀における九州王朝の都市計画思想に基づき、全国の都市遺跡や古道を精査することにより、九州王朝の影響力範囲や編年研究の進展が期待されます。
(二〇一八年四月十三日、筆了。初出「洛中洛外日記」を加筆修正)
(注)
九州王朝の都市計画として、難波副都造営に先立ち、巨大都市出現による人口激増に備えたのが潅漑施設の狭山池築造であったと考えています。そのことに触れた「洛中洛外日記」第一二六八話(2016/09/07)をご参考までに転載します。
【以下、転載】
「洛中洛外日記」第一二六八話(2016/09/07)「九州王朝の難波進出と狭山池築造」
わたしのfacebookに下記の記事を掲載しましたが、読者からの興味深いコメントも寄せられましたので、転載します。
九州王朝の難波進出と狭山池築造の作業仮説(思い付き)
巨大な狭山池を見て、誰が何の目的でこれだけの規模の灌漑施設を築造したのだろうかと、この二日間ほど考えてみました。もちろん水田用の灌漑が目的であることは明白ですが、それにしても規模が大きすぎると思いました。相当な食糧増産の必要性に迫られた権力者でなければ、このような巨大土木事業は行わないのではないでしょうか。そこで次のような作業仮説(思い付き)に至りましたが、いかがでしょうか。
1.七世紀初頭、「河内戦争」(冨川ケイ子説)に勝利した九州王朝はその地に進出した。
2.多くの戦死者を出し、当地の人民からも恨まれたであろう九州王朝は難波天王寺を建立し、敵味方なく犠牲者の菩提を弔った。(六一九年、九州年号の倭京二年。『二中歴』による)
3.難攻不落の地勢を持つ上町台地への副都建設を想定して、その手始めに、急速に増加するであろう副都の官僚や家族、その他の人々のために食糧増産に迫られた。
4.そこで狭山池を築造し、水田面積を増やすべく西河内の灌漑施設を整備した。(六一六年)
5.隋や唐の脅威が迫った首都太宰府の防備を固めると同時に、全国に軍事的中央集権体制の評制を施行し(六四八年頃)、全国支配のための副都前期難波宮と役所群を造営した。(六五二年、古賀説)
6.条坊も造営整備し、副都防衛のため、関や羅城も造営した。(服部静尚説)
以上のようなストーリーを思い付きました。今後、学問的検証を進め、仮説として成立するか検討してみます。みなさんの御意見・ご批判をお願いします。《古賀達也》
〔寄せられたコメント〕
冨川ケイ子さん=大和国に基盤を置く勢力にとって、前期難波宮とそこで宣言された評制が非常に脅威だったこと、八世紀以後に権力を握った時に評制を歴史的に抹殺したくなる理由もよくわかります。しかし、そうすると、壬申の乱に難波宮が関わらなかったのはなぜなのか、ちょっと悩ましいです。
西村秀己さん=難波京が副都ではなく首都であったなら、倭京=難波京であったかも・・・
古賀=倭京はやはり大宰府でしょう。難波京の成立は日本書紀によれば六五二年(九州年号の白雉元年)ですし、九州年号の倭京元年は六一八年ですから、時期が離れています。
西村秀己さん=九州年号の倭京はもちろん太宰府。ここで言っている倭京は日本書紀の壬申の乱に登場する倭京のことです。
古賀=なるほど。微妙な問題ですね。日本書紀の再史料批判が必要です。
冨川ケイ子さん=私の論文「河内戦争」はほとんどが日本書紀の記述の分析ですが、ちょっとだけ考古学からの指摘に触れました。たとえば広瀬和雄氏に「畿内の古代集落」という長大な論文があって(『国立歴史民俗博物館研究報告第二二集』所収)、そこでは畿内(大和・摂津・河内・和泉・山城)における七〜九世紀の集落遺跡が分析されています。集落の構成要素、建物群の類型、首長層の居宅、集落の景観・構成・消長、集落と集落の関係、古代の集団構造といった目次が示すように指摘されている点は多いのです
はその末尾の記述に注目しました。
すなわち、「畿内の古代集落の変遷にはふたつの画期がみとめられることを指摘しておいた。それはそのまま集団関係における画期でもあった。第1の画期が六世紀末ないし七世紀初頭、第2の画期が八世紀初頭。」「第1に、七世紀初頭を前後する時期に、あらたにはじまる集落の多いことを述べた。いっぽうではこの時期に終焉をむかえる集落も顕著であった。(中略)すなわち、畿内各地を対象に広範におこなわれた計画的大開発が、伝統的な集団関係を改変し、それをあらたに再編成した。すなわち、耕地の開発を契機とした集落の成立、勧農を目的とした開墾、その権力による奨励が集落変遷における第1の画期の背景にある歴史的動向であった」「第2に、七世紀後半には畿内の有力首長層は寺院の建立をはじめ、そののち八世紀初頭ごろになると居宅に官衙風配置を採用するにいたる。」
画期が二つあると言いながら、第2の画期は第1の画期が基盤になっていることは明白だと思います。第1の画期が六世紀末ないし七世紀初頭に始まっているということは、畿内では律令制的な農村が、文献史学が示すよりも早くスタートしていることを意味するでしょう。その画期は、六世紀末の「河内戦争」がきっかけでもたらされた、と考えます。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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