2018年6月11日

古田史学会報

146号

1,訃報!竹田覚氏ご逝去
 合田洋一

2,九州王朝の都市計画
 前期難波宮と難波大道
 古賀達也

3,よみがえる古伝承
大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その2)
 正木裕

4,実在した土佐の九州年号
小村神社の鎮座は「勝照二年」
 別役政光

5,書評
『発見された倭京 太宰府都城と官道』
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学十五
 俾弥呼・壹與と倭の五王を繋ぐもの
古田史学の会事務局長 正木裕

7,コンピラさんと豊玉姫
 西村秀己

 

 

古田史学会報一覧

古代官道南海道研究の最先端(土佐国の場合)(会報142号)
    四国の高良神社 見えてきた大宝元年の神社再編 別役政光(会報144号)
裸国・黒歯国の伝承は失われたのか? 侏儒国と少彦名と補陀落渡海 別役政光(会報149号)


実在した土佐の九州年号

小村神社の鎮座は「勝照二年」

高知市 別役政光

 土佐国(高知県)に九州年号(倭国年号)が存在していたであろうことは、数年前から気付いてはいたが、その実態がつかめず、今まで立証できずにいた。『越知町史』(越知町町史編纂委員会、昭和五十九年)に「日下小村天神の社伝記には、敏達天皇の勝照二年(西暦五七三、大化以前の公称年号)に始まり、天平宝字三年(七五九)吾川郡神ノ谷杉ノ端より移るとの記録もある」とある。高知県高岡郡日高村にある小村神社の鎮座が「勝照二年」であると社伝記に記録されているというのだ。社記には確かに「正一位二宮小村大天神者、天平宝字三年、吾河郡神谷杉ノ端より高岡郡日下村ニ御鎮座也」(註1)とあるが、「勝照二年」という年号は見えない。
 小村神社の祭神は国常立尊であり、看板やパンフレットには用明天皇二年(五八七年)鎮座の国史現在社と紹介されている。国史現在社というのは、『延喜式』式内社(註2)ではないが、『日本三代実録』貞観十二年(八七〇年)三月五日条の授位記事に「小村神従五位上」と見えることによる。小村神社には御神体として七世紀前半のものとされる国宝・金銅荘環頭大刀(註3)が伝世されており、周辺には古代〜近世の掘建柱様式の建物跡(千本杉遺跡、宮の内遺跡等)が検出され、平成7年に境内から銅鉾が出土するなど、その歴史の古さを物語っている。

 ところで、用明天皇二年始鎮の根拠はどこにあるのだろうか。江戸時代の儒者・谷重遠(号は秦山、一六六三〜一七一八)の「小村社造替勧縁疏」によれば「按古来所傳、小村大天神者、用明天皇二年始鎮坐當國。孝謙天皇天平宝字三年、被行御船遊。清和天皇貞観十二年三月五日丁巳、勅授位階」(註4)とある。小村神社には仁治元(一二四〇)年と貞和三(一三四七)年の棟札(註5)2枚が伝えられており、谷重遠の「小村社造替勧縁疏」は貞和三年の棟札を元に書かれたとされている。
 おそらく貞和三年の棟札に「勝照二年」と書かれていたに違いない。そう推察して、『高岡郡日高村資料調査報告書』を見て大変がっかりした。「当天神宮者去勝宝二年当国御影向之後天平宝字三年被始行御船遊」(註6)と活字化された文章が掲載されているが、「勝宝二年」となっている。勝宝は天平勝宝の省略で七四九年から七五七年までの年号であり、勝宝二年は七五〇年に相当する。しかし、初出で省略するのも変であるし、神社縁起などには一切引用されている形跡がない。当初は棟札の記載そのものと思っていたが、「現物は既に磨滅著しく満足に読むことはできない」と同報告書に但し書きしてあった。
 活字化されたものは「勝宝」あるいは「勝寶」(註7)とするか、社記のように該当年号部分が省略された形になっている。いろいろ調べていくうちに、『高知県神社明細帳』(註8)および『土佐遺語』(谷秦山、一七〇八年頃成立)には「勝照二年」の形で書かれていた(註9)。おそらく、これが原文通りであろうという結論に達した。『土佐国蠧簡集木屑』(柳瀬貞重編纂、一七九四年完成)で「勝照二年」の横に(宝カ)と添え書した記述および「正寶」が見られる。この時点で「勝照」→「勝宝」の書き換えが起きており、一元史観の立場から天平宝字以前で字形の似ている年号に当てはめようとした写し手の判断が見て取れる。

 さて、「勝照」は敏達天皇および用明天皇の治世にまたがって使用された年号である。鶴峯戊申(一七八八〜一八五九)著『襲国偽僭考』に登場する、いわゆる「九州年号」の一つである。『越智町史』の編者は大化以前の公称年号(一世一元制のことか?)と認識しており、敏達天皇二年(五七三年)と解釈した。一方、谷重遠は「民間の雑書(俗説を記した書)に継体天皇以下年号が見られるが誰が作ったか知らない。今昔の帝号に相当するとして用明二年(五八七年)とした」と考察し、後世に判断を委ねている。谷秦山の時代にはまだ『襲国偽僭考』は出ていなかったが、鶴峯が参照した資料等については知られていたのであろう。
 近年、全国的に九州年号が見つかっており、「勝照」についても山口県・長崎県・滋賀県等に見られる。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編、二〇一七年)に紹介されている『二中暦』『海東諸国紀』等の研究など、現代の知見によると、「勝照」は五八五〜五八八年の四年間使用されている。したがって、勝照二年は五八六年すなわち用明元年に相当する(註10)。谷秦山が限られた資料を元に、「用明二年」としたことも当時の状況からすれば納得できる。

 結論として、土佐国(高知県)にも九州年号は実在した。小村神社の鎮座は「勝照二年」である。可能であれば、貞和三年の棟札についての科学的調査(X線解析等)により、あらためて文字の判読がなされることを希望する。高知県において、第二、第三の九州年号(註11)も既に確認されており、信憑性の確認作業中である。他県においても新たな九州年号(倭国年号)発見の機運が高まることを願う。

 

(註1)『南路志 第三巻』(高知県立図書館、平成三年)一二三頁。豪商・美濃屋の武藤致和(一七四一〜一八一三)が土佐の歴史・地理・民族・宗教・文学などに関するさまざまな資料を百二十巻にまとめたものが活字化され出版されている。原本は昭和二十年に焼失。

(註2)『延喜式神名帳』(九二七年)に記載された土佐国の式内社は二十一社あるが、小村神社は含まれない。

(註3)金銅荘環頭大刀拵・大刀身(古墳時代・七世紀前半)は小村神社の御霊代として奉祀された宝剣であり今日まで完全な姿で伝わっている日本で唯一の伝世品である。鞘は金銅と板金で作られており昭和三十三年国宝に指定された。非常によく似た大刀が島根県朝来市のかわらけ谷横穴墓より出土しており、千四百年前のものとされている。

(註4)『南路志 第三巻』一二二頁。『土佐幽考』(安養寺禾麿、一七三四年成立)の小村神の頁でも「用明天皇二年鎮座」と記されている。

(註5)小村神社蔵。[形状・寸法]二三四・七×一〇・二センチメートル(仁治元年)と二二七・六×一一・七センチメートル(貞和三年)の二枚あり、ともに近世一般的に見られる形態に比し極長方形で檜材を用い、表面にのみ記録がある。

(註6)『高岡郡日高村資料調査報告書』(高知県立郷土文化会館、昭和五十年)四七頁。

(註7)『土佐国群書類従 巻一』(高知県立図書館、平成十年)四七頁。

(註8)『高知県神社明細帳』小村神社の頁に、次のように記されている。
「重遠按貞和棟札以為当社始鎮勝照二年、勝照之号不見史伝但民間雑書継体天皇以下有冗俗記号不知其誰作今姑以相当帝号易之為用明二年観者審之」
重遠按ずるに貞和の棟札を以って当社の始鎮を勝照二年と為す。勝照之号史伝に見えず。但し民間の雑書に継体天皇以下冗俗紀号有るも、其の誰が作れるかを知らず。今姑の帝号に相当するを以って之を易えるに用明二年と為す。観る者之を審つまびらかにせよ。(筆者、書き下し)

(註9)「小村神社棟札二枚其一曰仁治元年庚子地頭以馬允藤原忠政其一曰貞和三年丁亥地頭藤原国藤記曰當天神勝照二年影向天平寶字三年被行御舩遊重遠謂勝照之號雑書或有之未知本據又按三代実録貞観十二年三月五日丁巳授土佐国従五位下小村神従五位上」。

(註10)江戸時代の漢学者・森本甎里(1743〜1833)が貝原益軒の偽年号を参照し、同様の指摘をしている。「森本甎里曰考貝原損軒之偽年号考以敏達天皇十四年乙巳為勝照元年然則勝照二年當用明天皇元年丙午乎谷秦山所書勧縁疏曰用明天皇二年始鎮座當国云未知孰是」(『日高村史料(一)』(日高村教育委員会、昭和五八年)三四頁。

(註11)『皆山集 第一巻』(松野尾章行編)に天満宮の宝刀「御剣銘に朱鳥二年八月北」(三五六頁)、月山神社について「勧請白鳳持統年中」(五一〇頁)とあり、古田史学の会・東海の林伸禧氏と共に検証中。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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