2018年2月13日

古田史学会報

144号

1,多元史観と『不改の常典』
 正木 裕

2,須恵器窯跡群の多元史観
大和朝廷一元史観への挑戦
 古賀達也

3,住吉神社は一大率であった
 原幸子

4,隋書俀国伝「犬を跨ぐ」について
 大原重雄

5,四国の高良神社
見えてきた大宝元年の神社再編
 別役政光

6,「壹」から始める古田史学十四
「倭国大乱」
范曄の『後漢書』と陳寿の『魏志倭人伝』
古田史学の会事務局長 正木裕

7,平成三〇年(二〇一八)新年のご挨拶
古田先生三回忌を終え、再加速の年に
古田史学の会・代表 古賀達也

 

古田史学会報一覧

古代官道 南海道研究の最先端(土佐国の場合) (142号)
実在した土佐の九州年号 小村神社の鎮座は「勝照二年」(146号)


四国の高良神社

見えてきた大宝元年の神社再編

高知市 別役政光

 福岡県久留米市御井町の高良大社(筑後国の一宮)の祭神は高良玉垂命といい、倭の五王との深いつながりがあることを古田史学会の代表・古賀達也氏が指摘(『新・古代学』古田武彦とともに 第四集、一九九九年)している。高良神社の分布を見ると筑後地方に最も集中しているが、西日本を中心に広がり、遠くは青森県を含む東日本にも所々に散見される。インターネットの検索にかかるものに関しては、ホームページ「検索で調べた高良大社の分祀」の地図が分かりやすいが、境内社や小さいところなど、漏れているものも多いと思われる。倭国・九州王朝の勢力圏と関連があるかどうかは多方面からの検証が必要であるが、四国における高良神社の存在を追ってみて、明らかになったことを報告しておきたい。

愛媛・徳島・香川の高良神社

 久留米地名研究会・古川清久氏が四国へも足を運び、高良神社を訪れたことが、ブログ『ひぼろぎ逍遥』の中で紹介されているが、愛媛県の高良神社は西条市の石岡八幡宮の摂社としてかろうじて残されていた。他に松山市北斎院町の高家八幡神社、同市高岡町の生石八幡神社、南宇和郡愛南町の八幡神社等いずれも境内社ではあるが、探すほどに数が増え、単立の神社として存在していないことがかえって、九州王朝との関係性の深さを象徴しているようでもある。それに対して、徳島県の高良神社四社は比較的よく残されているという印象を受けた。所在地には「高良」という地名も残っている。香川県では四国八十八か所の案内などにも名前が出る七十番札所・本山寺に隣接する三豊市豊中町の高良神社(祭神・玉垂命)が有名であり、その近辺の財田川水系に数社集中しているが、大半は八幡宮境内社となっている。他に高松市香西南町の高良神社(祭神・武内宿禰命)は香西本町の宇佐八幡神社のお旅所(境外末社)とされており、同社境内の白峰神社には高良神社を含む境内神社五社が大正十二年に合祀されたと記録されている。他にも二〇一四年に一社が廃社になったと聞く。

高知の高良神社

 さて、高知県ではどうだろうか。東の端、安芸郡東洋町に甲浦八幡宮摂社としての高良神社(祭神・高良玉垂命)と、県西部の四万十市蕨岡に高良神社(祭神・武内宿禰命)の二社がすぐに確認できた。前者は京都府の石清水八幡宮摂社・高良神社(『徒然草』五二段に登場)と同型の祀られ方のように思える。逆に言うと、八幡神社の摂社や境内社を探すことによって高良神社が見つかることが多いということが経験則として分かってきた。他県で調査される場合にも参考にしてほしい。
後者については、いくつかの謎がある。まずは鳥居横の案内板を見ると「上分字天皇山にあり、祭神は大夫天皇、武内宿弥命である。(中略)天皇という小字や、瓦が菊の紋であることや、周辺の状況などから、承久の変(一二二一年)によって土佐に配流された土御門上皇の御住所ではなかったかという説があり、研究が進められている」とある。

大夫天皇(大武天皇)とは何者か

 この大夫天皇とは何者なのか。『中村市史 続編』(中村市史編纂委員会、一九八四年)を見ると「高良神社 村社 蕨岡字天皇山 祭神 武内宿禰命。上分沖組の産土神でもと大武天皇。明治元年改称 神社牒には大夫天皇とあり。土佐州郡志には天皇 南路志では大夫権現」といった内容が書かれており、かつては「大武天皇」とも呼ばれていたことが分かる。倭→大倭の変化と同じように尊称を込めて倭の五王・武が大武と呼ばれるようになったのではとの想像も浮かんだが、他に類例はないか探してみた。すると大阪府豊能郡豊能町に天武天皇宮と呼ばれる場所があり、同町観光ボランティアの会のホームページには「遊仙寺の墓地奥に続く森の奥に残された祠。ここに宮があったとされる。神祭は天武天皇で、創立年代は不明。柏尾宮とか大武(ダイブ)天王宮とも呼んでいたという。明治四十年に走落神社へ合併された。『大婦天皇御宝前、正徳元年九月吉日』と刻された石灯籠が走落神社の境内へ移されている」と紹介されている。
 天武→大武→大婦と変化したというのだ。しかしこの説は受け入れがたい。尊称の付加や好字への変化はありうるかもしれないが、大和朝廷の天皇その人に対して公式的な呼称以外の表現をあえて用いるであろうか。多元史観に立ってみれば、天皇家とは関係のない偉大な人物が天皇と結び付けられて祀られているという可能性が見えてくる。漢字表記は変化しているが「だいぶ」という音に意味があるのではないだろうか。そう考えると、福岡県飯塚市の大分(だいぶ)八幡宮との関わりが感じられてくる。
 八幡宮のはじまりは大分八幡宮とされ、そこから宇佐八幡宮や筥崎宮が分霊されていった。『八幡宇佐宮託宣集』にも筥崎宮の神託を引いて「我が宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあるが、筥崎宮へ遷座した後も九州五所別宮の第一社として篤く信仰されていたという。中国では、周代に太師・太傅・太保が三公と呼ばれ、天子を助け導き国政に参与する職であったとされる。その太傅、すなわち天子の養育に携わる府が置かれていた場所が大分宮であるとの説もあるくらいだ。「大夫」「大婦」をどう読むかは定かではないが、「たいふ」の音に通じる。「大夫天皇」が天子を補佐した人物というイメージが浮き上がってくる。それゆえに高良神社の祭神が武内宿禰(神宮皇后の後見)と結び付けられることが多いのも一理あるかもしれない。

県下に残る高良神社の痕跡

 いずれにしても、一つの事例だけで結論を下すのはデータ不足である。高知県内の他の場所には高良神社はないのだろうか。長岡郡大豊町に高羅大夫社が見えるが、祭神は不明である。高良神社としては、八幡神社の摂社または末社として数社見つかった。安芸郡東洋町野根の野根八幡宮(九州宇佐神宮の分社で鎌倉時代の創建と伝承される)の脇宮二社として左側が高良玉垂神社、右側が若宮神社。四万十市不破の不破八幡宮の境内社。また『皆山集1』(松野尾章行、一八三六~一九〇二年)には、南国市岡豊山にあった豊岡八幡宮の末社として、高良・若宮社など十数社が記されている。
 地名遺称として高良神社に関連がありそうなのは、「白皇神社:山奈村山田字宮ノコウラ」「天王:枝川村コウラカ峯」「天王社:梅木村カウラ」など。山奈村(現・宿毛市)の白皇神社は弘仁(八一〇~八二四)年中の勧請とも言われる。他は「~天王」が祭られている旧地名が「コウラ」となっていることは、それ以前において高良神社があったか、ある時点で名称変更がなされたといった可能性が見えてくる。神社の社地がある場所の地名として、神社名あるいは祭神名がつけられていることが多いことは、『長宗我部地検帳』(十六世紀末)などでも確認できる。よって四万十市蕨岡の「字天皇山」も大夫天皇が祭られていたことによる地名と考える方が順当で、土御門上皇の御住所云々という可能性は低いであろう。
 先出の「天王社:梅木村カウラ」は、現在は高知市鏡梅ノ木の八坂神社(祭神:素盞鳴命)が建っている場所である。秋の大祭(十一月五日)で神社に集っておられた地元のご婦人に聞いたところ、神社の川向を指して「その辺りをコウラと言っていました」とのこと。明治以前は大宝天王宮、大坊天王社、天王とも称していた。天正五年(一五七七)の棟札の記録もあり、その歴史は古く、『神社明細帳』には「神体記云、天王社神躰木工神九躰」とある。まさか高良御子神社(久留米市山川町)の九躰皇子(高良玉垂命の九人の皇子)を祭っていたのではないかとさえ思えてきた。かつては隣村との村境の峠、ホウテン(宝殿か?)という場所に祭られていたとも伝えられており、高良御子神社における古宝殿との相似性が見えてくる。近くの小浜神社は明治元年まで大房天王、大房天皇であり、八社河内神社についても、「神体記云」として「神躰木工神九躰」とある。

大宝元年の神社再編

 この「大宝天王」についても滋賀県に類例が見られる。栗東市の大宝神社(旧:大宝天王宮)の由緒として「当神社は、七〇一年疫病流行の時、小平井村信濃堂(シナンド)(現在の栗東市小平井)に鎮座された素盞鳴命(スサノヲノミコト)と稲田姫命を霊仙寺村(栗東市霊仙寺)経由綣村(栗東市綣)の地先、追来神社境内に四月八日にご鎮座。これにより疫病が鎮まったと伝えられる。同年五月一日社名を大宝天王宮と勧請、正一位とされた」とある。一方、追来(オフキ)神社(祭神:多々美彦命)の由緒には「地主の神として大宝年間以前よりこの綣の地に鎮座されている。(中略)中世には、若宮権現とも呼ばれ現在も通称その名で呼んでいる。(中略)地主神でありながら大宝神社本殿が主祭神となっているため、無理に境内社としての位置付けになり、若宮でありまた、社名変更を余儀なくされていると推測される」とある。
 関東最古の八幡様とされる茨城県下妻市の大宝八幡宮は七〇一年の勧請、三重県尾鷲市の尾鷲神社(大宝天王社)も大宝年間(七〇一~七〇三年)の勧請とされ、神社名鑑によると大宝天王社、大宝社、あるいは大宝神社は全国に九社のみとされるが、明治元年の名称変更以前は高知県の例(いの町:大宝天皇→大森神社、高知市:大宝神社と日吉神社の合祀→大日神社など)から推し量っても、かなり多かったのではないかと予想される。
 明治維新の折に、神仏分離令(太政官布告一九六号)で神社の名称変更の達しがなされたように、九州王朝から大和朝廷への政権交代の節目である七〇一年の大宝律令が出された際にも大きな改変があったと推測される。実際に大宝元年の勧請と伝えられる神社は、八坂神社(滋賀県甲賀市)、松尾大社(京都市)、白鳥神社(長崎県上五島町)、久麻久神社(愛知県西尾市、旧:荒川大宝天王宮)など数多く見られる。大和朝廷と無縁の神々を祭る神社に対して名称変更のみならず、主祭神の交替等の再編成がなされていったのではないだろうか。

 論理が指し示す結論

 十分に調べ尽くしたわけではないが、高良神社は決して少なくはなかったと思われる。四国を見渡すと半数以上が八幡宮の境内社となっているものの、かつては高良神社が広く分布していた可能性が見えてきた。明治時代末から大正時代にかけて全国の神社の統廃合が進められ、神社数は六割程度に減少したとされる。高良神社をはじめ存続が困難になった小社は、この段階で境内社となったり、合祀されたものもあるだろう。高知県に関しては一社を除き、それ以前すでに境内社となっていることが確認できる。古くは、大宝年間にその存在を消されてしまったものがあったのではないかとの仮説も浮かび上がってきた。「コウラ」という場所に建つ八坂神社―以前は大宝天王と呼ばれており、『神社明細帳』には「神社牒云カウラ、天王社 一ニコウラ天王」との記述も見つかった。本来は高良神社であったかもしれないものが、伝承が不明確なため、名称変更の時点で牛頭天皇→八坂神社の例に倣い、大宝天王も八坂神社となったと考えられる。
 四万十市の高良神社の祭神問題に立ち返ると、「大夫天皇」というのは元来「大宝天皇」であったと考える方が最もつじつまが合うような気がしてきた。「大宝」の漢字表記は「大房」「大坊」などいくつかの変化が見られる。「大夫」「大武」もその一変形ではないだろうか。『神社明細帳』によると、「元ト大武天皇ト称ス明治元年辰三月改称ノ達ニヨリ高良神社ト改称ス」とあり、それまでは主祭神が大夫天皇(大宝天皇)に置き換えられてきたが、伝承に基づき、本来の高良神社(祭神・武内宿禰命)に戻ったと解釈するべきではないだろうか。改称のルールに従えば天皇→八坂神社に名称変更されていたかも知れないと思うと、高良神社が復活したことは真に幸運だったと言えよう。
 多元史観による神社再考が望まれる。日本全土には『日本書紀』や『古事記』に登場しない神々が数多く存在したはずである。その原初的な姿を明らかにしてこそ、生きた歴史が見えてくるのではないだろうか。

四国の高良神社一覧


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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