「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か (上) (中) (下)
よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1) (その2) (その3)
岩波『日本書紀』の「覩貨邏国」注釈 正木裕(会報143号)
多元史観と『不改の常典』
川西市 正木 裕
本稿では、八世紀初頭の大和朝廷成立期の天皇の即位詔に記される『不改の常典』とは、天智が定めた「重臣たちが謀って新天子を擁立する(これを『定策ていさく』という)」ルールであり、倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への「王朝交代」を正当化するためのものだったことを示す。
一、天皇の即位の詔に現れる『不改の常典』
『続日本紀』には、元明天皇(即位慶雲四年七〇七)、聖武天皇(同神亀元年七二四)、孝謙天皇(同天平勝宝元年七四九)の即位時に「天智天皇の定めた『不改の常典』改かはるまじき常の典のり」に基づく即位であるとの詔が記されている。
①元明即位詔では、文武が『不改の常典』により即位したとある。
◆元明天皇慶雲四年(七〇七)七月十七日。関かけまくも威かしこき藤原宮ふじわらのみやに御宇あめのしたしろしめし倭根子天皇(持統)、丁酉(六九七)の八月に、此の食国天下の業を、日並知皇太子(ひなみしのみこ草壁)の嫡子、今あめのした御宇しろしめししつる天皇(文武)に授け賜ひて、並び坐して此の天の下を治め賜ひ諧ととのへ賜ひき。 是は関かけまくも威かしこき近江大津宮御宇大倭根子天皇(天智)の、天地と共に長く日月と共に遠く改かはるまじき常の典(のり『不改の常典』)と立て賜ひ敷き賜へる法を。受け賜はり坐して行ひ賜ふ事と衆もろもろ受け賜はりて、恐み仕へ奉りつらくと詔りたまふ命を衆みな聞きたまへと宣る。
②聖武即位詔では、元明が元正に、後継には『不改の常典』にもとづき聖武(*「我子」とあるが実際は孫)を即位させるように詔したとある。
◆聖武天皇神亀元年(七二四)二月四日。(略)平城大宮に現御神と座し(元明)て(略)朕(元正)に授けたまひ譲りたまひて、教へたまひ詔り賜ひつらく、『関も威き淡海大津宮に御宇しし倭根子天皇(天智)の、万世に改るまじき常の典(『不改の常典』)と立て賜ひ敷き賜へる法の随に後のち遂つひには我子に、さだかにむくさかに、過つ事なく授け賜へ」と、負せ賜ひ詔り賜ふ。
③孝謙の場合も元明の『不改の常典』との詔を引用して即位している。
◆孝謙天皇天平勝宝元年(七四九)七月二日。平城の宮に御宇天皇(元明)の詔しく、挂かけまくも畏かしこき近江大津の宮に御宇しし天皇の改るまじき常の典(『不改の常典』)と初め賜ひ定め賜ふる法の随ままに、(略)
また、桓武天皇、淳和天皇、仁明天皇、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇、後三条天皇、安徳天皇、四条天皇、後柏原天皇、中御門天皇即位時には「初め賜ひ定め賜へる法」とあるが、これも『不改の常典』を指すとされる。
◆桓武天皇天応元年(七八一)四月十五日。挂も畏き近江大津の宮に御宇しし天皇の初め賜ひ定め賜ふる法の随に、(略)
二、一元史観では解けない『不改の常典』
この『不改の常典』とは何なのか長く議論されてきたが、一元史観では未だ解決を見ない、いわば「不解の常典」となっている。
戦前までは「大化の改新の典法」(本居宣長)とか「近江令」(瀧川政次郎ほか)といった説が有力だったが、今日では「天皇家の皇位継承に関すること」で大勢として一致を見ている。ただ、皇位継承に関する法だとしても、兄弟継承を排する直系継承法(岩橋小弥太・直木孝次郎ほか)とか、嫡系(正妻の子)継承法(井上光貞)とか、譲位法(倉住靖彦)など百家争鳴の状態にあると言えよう。そうなった原因は、全ての学者が「ヤマトの天皇家のなかでの皇位継承問題」だと捉えていることにある。つまり、戦前よりの「天皇家一元史観」の中で回答を見出そうとするもので、その代表的見解は田中卓の「皇室が代々統治する原則を定めた「『皇統君臨の大原則』」説と言える。
そもそも「兄弟継承を排する」と言っても、直後の天武がそれを破っているし、天武は「妻」の持統に、持統は「孫」の文武に、文武は「母」の元明に、元明は「娘」の元正に、元正は「甥」の聖武に譲位するというように、継承方法は「バラバラ」だから、「天皇家が定めた皇位継承のルール(皇統君臨の「大原則」)」だと言っても何ら説得力がないのだ。(註1)
三、文武即位がなぜ『不改の常典』によるのか
『不改の常典』は元明・聖武・孝謙即位詔に見えると言っても、その元は「元明」の詔だ。従って「持統の文武への譲位」が初めて『不改の常典』による譲位となる。それでは文武の即位にどんな「初めてのこと」があったのだろうか。
もし『不改の常典』が天智の定めた「皇位の『継承順位』を定める法」だとすれば、まず天智がこれに拠るはずだ。そうであれば、天智の前代は「母」の斉明で、次代は「息子」の大友(孝文帝)だから「親子間の継承」を定めたことになろう。しかし、文武は「祖母からの譲位」でこれにあたらないから、「皇位の『継承順位』」が天智の作った『不改の常典』の内容であるはずはない。実はそうした「継承順位・血縁関係の違い」ではなく、文武の即位には、重大な「即位の経緯の違い」があるのだ。
1、「定策ていさく」とは何か
持統十一年に持統が文武に譲位する際、「策を禁中に定め」たとある。
◆持統十一年(六九七)八月乙丑朔、天皇(持統)、策を禁中に定め(定策禁中)、皇太子(文武)に天皇の位を禪ゆずりたまふ。
通常「策みはかりを禁中おほうちに定め」と読み下しているが、「天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」、つまり「定策」して譲位したということだ。そして「定策」とは、本来「有力な臣下が謀って天子を擁立する」という意味だ。
例を挙げれば、紀元前九十一年に前漢の武帝により巫蠱ふこの罪で曾祖母(武帝の皇后衛子夫)・祖父母・両親と兄姉が処刑され(江充の讒言による「巫蠱ふこの獄」)、民間で育っていた劉詢りゅうじゅんが、紀元前七十四年に大司馬大将軍霍光かくこう・丙吉へいきつ・韓增かんぞうらに見いだされ、彼等の「定策」により宣帝として即位している。
◆『漢書』(卷八、宣帝紀)韓增と大将宰霍光、「定策」して宣帝を立つ。
わが国でも、二十三代天皇の顯宗は、雄略に父が殺されたため丹波や播磨に逃げ、牛や馬を飼いながら兄仁賢と共に隠れ住んでいたが、宴の席で歌うことで播磨の国司に見いだされ、前代の淸寧に子がいなかったので、大臣の平群真鳥と大連の大友室屋の「定策」により即位したと『書紀』に記されている。
◆「顯宗天皇即位前紀」淸寧二年(四八一)十一月。白髮天皇(淸寧)、聞しめし憙び咨歎なげきて曰はく、「朕、子無し。以て嗣ひつぎとせむ」とのたまふ。大臣(平群真鳥)・大連(大友室屋)、策を禁中に定め(「定策禁中」)、仍りて播磨の国司来目部小楯をして、節しるしを持ちて、左右の舍人を將て、赤石に至りて迎へ奉らしむ。
顯宗は六代も前の十七代天皇の履中の孫とされる。『書紀』の系譜を信じるとしても、履中の弟で十九代允恭の子の二十一代雄略、その子の二十二代淸寧とは「かろうじて血縁といえる」ほどの関係でしかない。そうした皇統とは縁の薄い人物が大臣らの「定策」により即位したというのだ。(註2)
こうした「定策」の事例からすれば、持統から文武への譲位でも重臣らが権力を握り、皇位継承者として必ずしも順当とはいえない文武を擁立したことになろう。これが文武即位の「異質なこと」といえる。
2、持統では「定策」といえない
但し、時の右大臣は丹比眞人で、大納言に阿倍御主人・大伴御行、その他重臣に石上麻呂・藤原不比等らがいるが、『書紀』では持統本人の「定策」とある。天皇(№1)が自ら後継を決めるのでは本来「定策」といえない。
文武即位の六九七年は九州年号大化三年で、まだ「評」の時代、仮に実力はヤマトの天皇家が遥かに上にあったとしても、形式上の我が国の代表者は倭国(九州王朝)の天子で、持統は臣下の№1という位取りだ。これは天武の和風諡号「天渟中原瀛真人天皇あめのぬなはらおきのまひと」の「真人」が臣下のトップを意味することからも分かる。そうした位取りの中での持統の「定策」とは、臣下№1の天皇家持統の主導で、朝廷内の重臣の総意により、「倭国(九州王朝)の天子の系統」に代えて文武を即位させた、つまり「王朝・王統を交代させた」ことを意味するだろう。
『書紀』編者は、倭国(九州王朝)の「臣下である持統」が「定策」して文武を即位させ、王朝を交代させたなどと到底書けないから、「天子(天皇)たる持統」が、本来臣下の行為である「定策」を行ったという矛盾する記事となったのだ。
3、「定策」の実質は「王朝の継承者は天皇家が決める」ということ
「定策」による文武即位翌年の六九八年には、早くも律令施行に向け国覓くにまぎ使が派遣され、七〇一年には、「大宝建元」や「大宝律令」の制定、倭国(九州王朝)の地方制度である「評」から「郡」への変更等が行われた。そして『旧唐書』には、小国の「日本国」が歴代中国と交流してきた「倭国」を併合したとあり、七〇二年には日本国から粟田真人が派遣され、則天武后は彼に位階を与えることで日本国を承認している。つまり文武の時代に従前の倭国(九州王朝)に代わって日本国(大和朝廷)が成立したのだ。これは、「定策」によって王朝が交代したことを示している。
文武即位を『不改の常典』によるとするなら、『不改の常典』とは「我が国の王朝の継承者は有力な臣下が謀って決める」という定めとなろう。もちろん「臣下」とは最大の実力者で、実質我が国№1の天皇家を意味することは言うまでもないから、これは「天皇家が決める」という定めとなるのだ。
中国で、天子は「天命」を受け王朝を拓き、天命が改まれば王朝が交代するという「ルール」がある。しかし、わが国では「天壌無窮の詔勅」により「天孫」による統治の永遠性が謳われており、新王朝を建てたのは天命が変わったからだとは言えない。天皇家も倭国(九州王朝)と同じ九州の出身(神武)で、天孫降臨神話を共有する「天孫族」の一員(分家)を自称しているからだ。そこで、「天命」ではなく「重臣・豪族の総意」で王朝の継承者(王統)を変えられるという「新ルール(常典)」を作ったと考えられる。
もちろんこれは「王朝交代を果たした側」の論理であり、「王朝を継続しようとする側」からすれば危険な論理だ。だから『不改の常典』の語とその意味は、文武即位を例に挙げた元明の即位詔と、それを引用する聖武・孝謙の即位詔といった「大和朝廷成立期」にしか見えず、その後は「初め賜ひ定め賜ふる法」といった常用句としてのみ残された。そして現代でも「王朝交代」の概念抜きに、「天皇家一元史観」の中で無理やりその意味の解釈を試みている。これが『不改の常典』が『不解の常典』となっている原因なのだ。
四、天智即位と「定策」
それでは肝心の『不改の常典』を天智が定めたこと、つまり天智が「定策による王朝交代」をはかったものだという根拠は何か。
1、倭国(九州王朝)の天子薩夜麻の帰還
白村江の戦いの後新羅及百済・耽羅・倭、四国の酋長が高宗に拝謁し、六六五年十二月に挙行された封禅の儀に扈從(こじゅう *付き従う)している。そして当時唐に抑留されていた者で、「倭国酋長(王)」に相応しい人物は「筑紫君薩夜麻」しかいない。
◆『書紀』百済を救う役に、汝唐の軍の為に虜にせられたり。天命開別天皇(天智)三年(六六四)に洎およびて、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝児四人(略)。
唐は「羈縻きび政策」をとり、捕虜とした国王たちを「臣従」させた後、何れも唐の官吏である「都督」として帰国させている。「羈縻政策」とは、臣従した王を「中国の官吏」である都督として前のまま国を治めさせる(統治権を承認する)ことだから、唐の高宗は薩夜麻を都督に任命し、倭国の統治権を承認したことになる。
そして、『書紀』に始めて「筑紫都督府」が見えるのは天智六年(六六七)十一月だから、この時に倭王薩夜麻が唐の都督として送り返されたことになろう。『書紀』では、薩夜麻は天智十年(六七一)十一月筑紫に帰還している。しかし、天智十年正月に劉仁願による李守真等派遣記事があるが、『旧唐書』では、劉仁願は三年前の天智七年(六六八)八月に雲南へ配流されており、これは三年以上ずれている。従って、実際の「都督」としての帰還は「筑紫都督府」の見える天智六年と考えられよう。六年記事と十年記事が同じ十一月なのは「記事がずらされた」証拠だろう。(註3)
◆『書紀』天智六年(六六七)十一月(九日)百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。
2、天智称制とは
そして、翌天智七年一月に天智が即位している。天智元年は「称制即位」で、六年までは「称制期間」とされるが、本来中国で「称制」とは、天子は存在するが政務を担えない時、他者が代わって即位せずに政務を執ることをいう。日本では「天皇がいない時」とするが、中大兄(天智)なら斉明崩御後直ちに即位すればよい。何故直ちに即位しなかったのか、何故六六七年に即位できたのか不可解だ。
しかし、多元史観の立場で、「倭国(九州王朝)の天子(薩夜麻)は存在するが、抑留され政務が担えない為、白村江に出兵せず勢力を温存していた、天皇家の中大兄が実権を握り政務を執った」と考えればこれが天智称制だということになる。(註4) 「称制」の原因たる天子の不在とは、天皇ではなく「倭国(九州王朝)の天子の不在」だった。
3、二重権力状態―都督薩夜麻と近江朝廷の天智
その薩夜麻は「唐に臣従する都督」として「唐の軍」とともに帰国した。これは国内の諸豪族に号令して数多の兵士を動員し、多大な犠牲を払って唐・新羅と戦ってきた従前の倭国(九州王朝)の立場とは決定的に矛盾する。そして、百済や高句麗は唐によって滅亡させられたが、倭国(九州王朝)は滅んだのではなく近江に遷都しており、当然官僚群のほとんどは近江に避難し、行政機能の中心は“無傷”の近江にあった。近江宮は「倭国(九州王朝)の近江朝廷」という機能を果たしていたと考えられよう。
4、重臣・諸豪族は「定策」して天智を推戴
その場合、近江の官僚群や参戦した諸豪族が、薩夜麻の復位を簡単には承認せず、天智を後継に擁立したなら(註5)、彼はヤマトの天皇家の人物でありながら倭国(九州王朝)の王ということになる。重臣たちが天智を支持したのは壬申の乱での天武から高市皇子へ向けての次の言葉でわかる。
◆天武元年(六七二)六月。天皇、高市皇子に謂ひて曰く、「其れ近江朝には左右大臣、及び智謀かしこき群臣、共に議を定む、今朕、与ともに事を計る者無し。」
つまり天智は倭国(九州王朝)の「王統」を重臣らの「共議(定策)」によって承継したのだ。この結果、唐により都督として統治権を認められた薩夜麻と、「定策」によって倭王の地位に就いた天智という「二重権力」が発生した。これが薩夜麻帰還の翌年正月の「天智即位」の経緯だったと考えられる。
◆『書紀』天智七年(六六八)春正月戊子(三日)に、皇太子、天皇即位す。
5、「庚午年籍」造籍と天智
これを証明するのが「庚午年籍」だ。「庚午年籍」は天智九年(六七〇)に畿内含め、西は九州から東は常陸・上野まで全国的に造籍され、大和朝廷は永久保存すべきとした(註6)。こうした施策には全国を統べる膨大な官僚群が必要であり、彼らは近江にいた。従って「庚午年籍」は倭国(九州王朝)の近江朝廷で、天智らの手により全国的に造られたことになろう(註7)。倭国(九州王朝)の王しか行いえない全国的造籍を実施したということは、天智が「倭国(九州王朝)の近江朝廷の王」だったことを意味する。
6、「新律令」と天智
また、天智十年(六七一)には、法度・冠位の名が具(つぶさ)に記された「新律令」が施行されたとある。
◆天智十年(六七一)正月甲辰(六日)に、東宮太皇弟(*大海人)奉宣みことのりし《或本に云はく、大友皇子宣命す》冠位法度の事を施行したまふ。天下に大赦したまふ。法度・冠位の名は、具つぶさに新しき律令に載せたり。
ただ、あるはずの法度・冠位の名はどこにも見えない。そして、天智三年(六六四)には、「冠位の階名の増し換へ」と「氏上・民部・家部等の事」が宣ぜられたとある。
◆天智三年(六六四)二月丁亥(九日)に、天皇、大皇弟に命みことのりして、冠位の階名を増し換へること、及び氏上・民部・家部等の事を宣りたまふ。其の冠に廿六階有り。大織・小織(以下略)
この二つは重複記事であり、本来は天智十年のものであり、この年に施行された「新律令」の中身に関する記事とされる。そして、一般にはこの「新律令」を「近江令」だとするが、ここで、注目されるのが「冠位の増し換へ」とあることだ。これは、「新律令」以前に「廿六階より少ない冠位」を定める「旧律令」があったことを示すものだ。
この点、大化三年(六四七、九州年号「常色元年」)に「七色十三階の冠位」が定められている。「常色」の「常」は[のり・典法]の意味で、「色」は[色法]即ち仏・物質の法をいう(諸橋『漢和大辞典』)。従って、九州年号「常色」改元は、色で冠位を示す「七色十三階の冠位」を定めた年に相応しく、これが倭国(九州王朝)の律令であることを示すものだ。そして、天智がこれを「廿六階に増し換へ(改訂)」したのは、天智が「倭国(九州王朝)の王」を引き継いだことを表すものと考えられよう。
7、『不改の常典』と実らなかった大友皇子への継承
天智は自らの倭国(九州王朝)の王への即位を、「定策(有力な臣下が謀って天子を擁立する)」という、漢代や顯宗即位の「前例」により正当化し、これを「改かはるまじき常の典のり」=『不改の常典』としたのだ。そして倭国(九州王朝)の王として、倭国(九州王朝)の事績を引き継ぎ、造籍や律令改訂を行った。さらには即位時の天智七年(六六八)に年号を「中元」と改元(註8)、ついに国号の「日本」への改訂を行うまでに至った。
◆『三国史記』(新羅本紀)文武王十年(六七〇・天智九年)「倭国更えて日本と号す」。
このように天智の時代に国号が「日本」と更えられ、先述の通り文武の時代に唐から「日本国」が承認された。これは天智が定め文武に適用された『不改の常典』が「王朝交代」のルールであることを明確に示している。
そして、自らも『不改の常典』に沿い、近江朝廷において左大臣蘇我赤兄・右大臣中臣金連・蘇我果安ら五人の重臣の総意を取り付け(定策禁中)(註9)、大友皇子を倭国(九州王朝)に代わる「日本国」の王に即位させようとした。しかし、唐・薩夜麻(倭国・九州王朝)側についた大海人による「壬申の乱」(註10)で成就せず、こうした「定策による異系列への皇位継承手法」は「天智の即位」限りとなり、「王朝交代」はひとまず潰えた。
そして本格的な「定策による王朝・王統の交代」、即ち天智の定めた『不改の常典』による、「倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)へ」という王朝交代は、持統の手によって、天智の皇女である元明の子文武の即位でようやく実現したのだった。
註
(註1)。この点、古田武彦氏は、『不改の常典』とは、大化年間に定められ天智三年に改定された『冠位』、および大化年間に発せられた『詔・奏請・制』類が、大海人により「天智十年に施行」されたものだとされている。詳しくは、古田武彦『九州王朝の歴史学』(駸々堂一九九一年。85頁)、同『よみがえる俾弥呼』朝日文庫一九九二年。264頁)(いずれもミネルヴァ書房から復刊されている)に詳しい。
(註2)これとよく似た事例が「継体(男大迹王)即位」だ。継体も武烈に子が無かったので、大連大伴金村が大連物部麁鹿火・大臣許勢男人らの賛同を得て三国に継体を迎え即位させたというもので、これも「大臣等が謀って天子を擁立」したのだから、「定策」を意味する。しかも継体は「仲哀の五代の孫」とあるから、顯宗よりもさらに皇統から遠い人物だ。
これらの皇位継承譚は、重臣の共同の謀議・協議(「定策」)により、前の王統と異なる、或は「縁遠い」者でも天皇に即位させられることを示している。
(註3)ちなみに、岩波『書紀』の注釈で「筑紫都督府」は「原史料にあった修飾がそのまま残ったもの。」とするが、これはとりもなおさず「原史料に筑紫都督府と明記されていた」ことを示している。
(註4)『海東諸国紀』に倭国(九州王朝)は白鳳元年に近江遷都したとある。
◆『海東諸国紀』斉明七年(六六一)白鳳と改元し、都を近江州に遷す
『書紀』では近江遷都は天智六年だが白村江後の遷都に危機管理上の意味は見出せず、白村江前のことと考えられる。そして、倭国(九州王朝)の遷都時には九州年号は改元されるから、改元と連動する『海東諸国紀』に記すように白鳳元年に倭国(九州王朝)は近江に遷都したというのが正しいことになる。そして、地理的に近江朝廷の実権を握ったのは、白村江に出征しなかった天智となるのは自然の流れだろう。
(註5)天智は即位時に倭姫王を正妃としており、倭姫王は天智没時に、天武から即位を勧められた皇位継承資格を有する人物。彼女が「倭国(九州王朝)の姫」であれば、この婚姻により天智も倭国(九州王朝)を継ぐ資格を有することとなる。これについては次稿で述べたい。
(註6)神亀四年(七四七)に「筑紫諸国の庚午年籍七七〇巻に公印を押せ」とある。
(註7)古田氏は、庚午年籍は天智九年(六七〇)に九州王朝が筑紫で造ったとされる。しかし、天智八年には郭務悰らが二〇〇〇人で筑紫に来ている。古田氏は、(筑紫にやってきた唐の軍勢が)「軍事施設を壊し、軍船を壊し、宮殿を壊し、墓を壊しました。」(『古田武彦が語る多元史観』二九六頁)とされる。その中で全国的に造籍を行ったとするのには無理がある。
これに対し、本稿のように薩夜麻の帰還を天智六年とし、列島内に「二重権力状態」が生まれたとするなら、どちらが主導権を持ったかは別として、倭国(九州王朝)の近江朝の支配する領域と、筑紫都督の管内(九州とその周辺)とで、各々分けて造籍された可能性も生じる。
この点古賀達也氏は、大和朝廷において筑紫諸国の庚午年籍に別途官印が押され保管されたこと、「大宝二年籍」における西海道(九州)戸籍とその他の戸籍の「質」が違うことから、「庚午年籍が筑紫都督府(九州地方)と近江朝(九州以外)で別々に造籍されたとする作業仮説」も検討に値するとされる(古賀達也の洛中洛外日記第一五八五話)。
(註8)『襲国偽僭考』『和漢年契』『衝口発』『茅窻漫録』等に天智七年(即位元年)(六六八)から天智十年(六七一)の天智崩御まで四年間続く「中元」年号が見える。詳しくは「『近江朝年号』の研究」(『古代に真実を求めて』第二〇集)で論述。
(註9)◆『書紀』天智十年(六七一)十一月二十三日、大友皇子、內裏の西殿の織の佛像の前に座します。左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣侍り。大友皇子、手に香鑪を執りて、先づ起ちて誓盟ちかひて曰はく、「六人心を同じくして、天皇の詔を奉る。若し違ふこと有らば、必ず天罰を被らむ」と、云々。是に、左大臣蘇我赤兄臣等、手に香鑪を執りて、次の隨に起つ、泣血なきて誓盟ひて曰さく、「臣ら五人、殿下に隨ひて天皇の詔を奉る。若し違ふこと有らば、四天王打たむ。天神地祇、亦復誅罰またつみせむ。卅三天、此の事を証あきらめし知しらしめせ。子孫當まさに絶へ、家門いへ必ず亡びむか」と、云々。
(註10)大海人が唐・薩夜麻側についたことは、壬申の乱で天武に付き添った舎人の調連淡海の日記に、天武が唐人から戦術を教わったとあることからもわかる。
◆『釈日本紀』(述義十一) 私記曰、案調連淡海・安斗宿祢智徳等日記云、石次見兵起。乃逃還之。既而天皇問唐人等曰、汝国数戦国也。必知戦術今如何矣。一人進奏言、厥唐国先遣者覩者、以令視地形陰平及消息。方出師、或夜襲、或昼撃、但不知深術。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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