2017年 8月12日

古田史学会報

141号

1,「佐賀なる吉野」へ行幸した
 九州王朝の天子とは誰か(中)
 正木 裕

2,古田史学論集
 『古代に真実を求めて』第二十集
 「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」
について(1)
 林伸禧

3,なぜ「倭国年号」なのか
 服部静尚

4,「倭国年号」採用経緯と意義
古田史学の会・代表 古賀達也

5,倭国年号の史料批判・
 展開方法について
 谷本茂

6,「古田史学会報 No.140」を読んで
 「古田史学」とは何か
 山田春廣

7,書評 野田利郎著
『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』
 古賀達也

8井上信正氏講演
『大宰府都城について』をお聞きして
 服部静尚

9,「壹」から始める古田史学十一
 出雲王朝と宗像
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

古田史学会報一覧

 「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か (上) (中) (下)


「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か(中)

川西市 正木 裕

 前回に引き続き、古田氏の「持統吉野行幸の論証」すなわち「『書紀』における九州王朝の史書からの三十四年繰り下げ盗用」説に基づき、吉野に行幸した九州王朝の天子「常色の君」の実像を明らかにしていくこととする。

四、『赤渕神社縁起』と、「常色の君」による「利」の葬祭

 その前に、前号で『日本書紀』の天武十年(六八一)正月己丑(十九日)の「天地神社の修理令」(「諸国に詔して、天社地社の神の宮を修理おさめつくらしむ。」)は、常色元年(六四七)の「常色の君」による、前年(命長七年・六四六年)に崩御した「利」の葬儀に関する詔が「三十四年」繰り下げられたもので、『赤渕神社縁起』の「常色三年(六四九)六月十五日在還宮為修理祭礼」との記事(註1)はこれを証するものだと述べた。
 ただ、「常色三年(六四九)」に「修理祭礼」をおこなったのでは、常色元年(六四七)の修理令から時間が空きすぎている感があった。そこで、一昨年赤渕神社を訪問した際に拝見した各種の赤渕神社文書を確認してみた。すると「但州朝来郡牧田郷内高山 赤渕大明神 表米ひょうまい大明神」と題する『縁起書』には「常色三年『丁未』六月十五日迁(遷)宮アリ」と「丁未」の干支があり、また、『赤渕大明神縁起記』にも「孝徳天皇御即位時五機内定京之坊門町定大小郡田之町段定絹布之疋端定年号常色元年『丁未』」とあった。
 この「丁未」は『縁起記』どおり常色元年(六四七)の干支だ。
 「元」と「三」は、九州年号「白雉『元』年」(六五二)を意味する「元壬子」年木簡が、当初「三壬子」とされたなど誤認されやすい字で、『赤渕神社縁起』原文でも互いの字形は極めて類似していることが確認されている。また「壬子」の六五二年は、『書紀』の年号では「白雉『元』年」ではなく、二年ずれて「白雉『三』年」にあたることも、「三壬子」と誤る要因だった。
 従って、『縁起書』の「常色『三年』丁未」も、本来の「常色『元』年(六四七)丁未」が『書紀』では「大化『三』年」に当たるため、「『三』年丁未」と誤って読まれ、書写されたものと考えられる。
 結局、「干支」からは、本来の『縁起』は「常色『三年』」ではなく、天武十年(六八一)の「三十四年前」にあたる「常色『元』年(六四七)丁未六月十五日」に表米が宮に帰り「修理祭礼」をおこなったことになる。
 このように、天武十年の「天地神社の修理令」は、本来は三十四年前の常色元年(六四七)の「常色の君」の詔であることが改めて確認できるのだ。
 なお、天武十年(六八一)正月で「天地神社の修理宣旨」の発せられた干支「己丑」の日は、三十四年前の六四七年では正月二日になる。そして、『赤渕大明神縁起記』には、表米宮が常色元年二月十四日に上洛したとあるから(「表米宮常色元年二月十四日上洛□宝剣与旗注御簀紋木瓜一被副下」)、表米宮はその際に「天地神社の修理」の宣旨を受けて六月十五日に帰郷し、宮を修理おさめつくり祭礼を行ったと考えられよう。
 また、『書紀』天武十年(六八一)五月「己卯」(十一日)に「皇祖の御魂を祭る」との記事があるが、通説では「皇祖」とは何を指すのかが明らかに出来ていない。しかし三十四年前の六四七年なら、前年に崩御した「利」の御魂を祭ったことになるのだ。そして六四七年の五月には「己卯」の日がなく、六月二四日「己卯」だ。従って、表米は十五日に帰郷後、宮を「修理おさめつく」たうえ、「利」の祭礼をおこなったことになろう。
 こうした『書紀』天武十年記事と『赤渕神社縁起』の比較検討により、隠されていた「常色の君」による「利の葬祭行事」が、その一部ではあるが明らかにできたと考える。

 

五、「常色の君」による「律令の制定」

 次に、「常色の君」の重要な事績として「律令の制定」が挙げられる。通説で天武が定めたとされる「飛鳥浄御原律令」の真実は、「『常色の君』が『筑紫なる飛鳥浄御原宮』で制定した律令である」というものだ。

1、『書紀』白雉三年の「班田」記事と律令制定

 『書紀』白雉三年(六五二)(*九州年号では「白雉元年」)の「正月条」に「正月より是の月に至るまでに、班田既に訖おはりぬ」とある。「正月」に「正月より是の月」とあるのは不自然で、これは九州王朝の史書では「是の月」(二月か三月)にあった「白雉改元記事」が、『書紀』白雉元年(六五〇)に「切り取ら」れ、その「直後」の記事が残ったことにより生じたと考えられる(古賀達也氏による)。そうであれば、「班田」記事は九州王朝の史書にあったもので、九州王朝ではこの年(六五二)までに「班田収授」が行われたことになろう。「班田収授」は戸籍・計帳・班田収授之法等に基づき実施されるもので、「律令制」の根幹だから、六五二年の「班田」記事は、それまでに九州王朝の「律令」が「常色の君」により既に制定されていたことを示すものだ。
 なお、『書紀』大化二年(六四六)には「初めて戸籍・計帳・班田収授之法を造れ」とあるが、六四六年は命長七年で、善光寺文書に見るように「利」の末期の年と考えられるため、「大化『二』年」は「常色『二』年(六四八)」の潤色で「常色の君」が「律令の個別規定を定めた」詔である可能性が高いだろう。
 前号で、「三十四年繰り下げ」説によれば、天武の「飛鳥浄御原律令」制定の詔とされる天武十年(六八一)の「『律令を定め』法式を改める」詔は常色元年(六四七)から、天武十一年(六八二)の「新字一部四十四巻を造る」詔は常色二年(六四八)から、各々三十四年繰り下げられたものだと述べた。戸籍・計帳等の令は、当然「新字(*新律令)四十四巻」に含まれるから、常色元年に「律令制定」を命じ、常色二年にこれら「個別規定(令)」を定めたことになろう。(註2)
 『書紀』大化三年(六四七)「常色元年」には「小郡を壊こぼちて宮営つくる。小郡の宮に処して『礼法』を定む」とある。九州王朝の「常色の君」が「小郡の宮に処おはして」律令を制定したことは、このように『書紀』天武紀や白雉三年(六五二)の「班田」記事、大化三年(六四七)の「小郡宮造営と礼法制定」記事からも確認できるのだ。

2、「常色の君」の新律令

 一言付け加えると「新字」とは「旧字」の存在を前提とする用語だ。従って、九州王朝はすでに「旧律令」を持っていたことを示唆している。古田氏は磐井に関する『筑後国風土記』の記事や、九州年号の分析から、磐井が「善記元年(五二二)に律令を制定していた」とされた(『古代は輝いていたⅢ』法隆寺の中の九州王朝。一九八五年朝日新聞社)。卓見というほかない。(註3)
 加えて、古田氏は同書の中で評制施行と律令制定に深い関連があることを示唆している。評制は、『神宮雑例集』に「己酉年(六四九)を以て始めて度相郡を立つ、『常陸国風土記』に「己酉年に別さきて神の郡を置きき」とあり、七〇〇年以前の「郡」は「評」の書き換えだから、六四九年頃全国に「評制」が施行されたと考えられる。六四九年は常色三年であり、先述の通り「三十四年の繰り下げ」説を援用することにより、古田氏の示唆通り、「常色の君」の「新律令制定」と「評制施行」は「一体をなす政治改革」だったことがわかる。一般に言う孝徳等による「大化の改新」とは、「常色の君」による「常色の改革」と称すべき事績だったのだ。


六、「常色の君」の律令は「飛鳥浄御原律令」と呼ばれた

1、小郡なる「浄御原宮」で造られた「浄御原律令」

 天武が造ったとされる律令は、本来「常色の君」の律令であることを述べたが、古田氏は『壬申大乱』において筑紫小郡宮を「飛鳥浄御原宮」とされた。そうであれば「小郡の宮に処おはして」造った律令は「飛鳥浄御原律令」と呼ばれたことになろう。
 古田氏は、「小郡飛鳥説」の根拠として、
①柿本人麻呂の万葉歌一九六番歌~一九九番は、題詞と歌本文が矛盾し、壬申乱で活躍した高市皇子(註4)や明日香皇女への挽歌ではなく、白村江直前の半島での冬の戦で活躍した九州王朝の「明日香皇子」への挽歌と考えられること。(後掲「万葉資料」参照)

②明日香皇子は筑紫上座かみつあさくら郡の麻弖良山まてらさんに祭られ、歌に織り込まれた「城上きのへ(一九九番)・木瓲きのへ(一九六番)、上座かみつあさくら・下座しもつあさくら(一九六番)は筑紫朝倉に存在し(*下座郡に城邊)、皇子にちなむ「明日香の真神の原(一九九番)、明日香川(一九六番)」などの地名と、小郡に遺存する「飛鳥」地名が共通すること(註5)等から、「明日香(アスカ)」は小郡の地名と考えられること。

③現地の上岩田遺跡には七世紀中盤に大規模な政庁や寺院が存在したことが筑紫大地震の痕跡からわかっており、さらに井上廃寺は浄水の流れる堀(長者堀)に囲まれ「浄の宮」に相応しいこと。

 などを挙げられた。これに加え、小郡(古田氏が飛鳥に比定する上岩田・井上地区)は旧「御原郡」に属しているから、筑紫小郡宮は「御原の宮」であり、そこで造られた律令なら「浄御原律令」と呼ばれて当然だったのだ。

2、「筑紫小郡」でこそ「飛鳥」を「アスカ」というに相応しい

 ちなみに、「アスカ(明日香)」を「飛鳥」と表記するのは、本来「アスカ」にかかる枕詞だった「飛鳥(飛ぶ鳥)」を充てたもの。「カスガ」を表記するのに、「カスガ」にかかる枕詞「春日(春の日)」を充てたのと同じだ。
 そして、「飛ぶ鳥」が大和「アスカ」の枕詞になる積極的な理由は思い当たらないが、筑紫小郡の「明日香」なら必然性がある。万葉四二六一番歌に、
◆大君は神にしませば水鳥のすだく水沼(水奴麻)を皇都となしつ(*「すだく」は「集く(集まる)」の意味)

 とあるところ、通説では「皇都」とは「大和アスカ」のこととされる。しかし、「大和アスカ」の現地地形からも、また元々岡本宮、板蓋宮などの諸宮があったことからも、「沼地で水鳥がすだく」土地だったとは考えられない。そもそも奈良盆地に「水鳥が集まる」という表現はあたらないだろう。
 その点「水沼」の地名があり「水鳥がすだく」に相応しい地が我が国に一箇所ある。それは筑後川河口の湿地帯で、渡り鳥(水鳥)の飛来地として著名な筑後三瀦(水沼)だ(*現在も有明海の干潟には、約六〇種類もの渡り鳥が飛来する)。そして、三瀦を目指す鳥たちが上空を大挙して「飛び渡って」いくのが三瀦のすぐ北の小郡だ。従って、小郡は「飛ぶ鳥」の呼称を冠するに相応しい土地といえる。
 ちなみに「皇都」とあるが、三瀦は六世紀初頭では「筑紫君磐井」の本拠に近く、また、九州王朝の系列とされる高良玉垂命を祀る大善寺があり、一時「九州王朝の皇都」だったと考えられている。(註6)

3、不可解な「飛鳥浄御原宮」命名譚

 そもそも『書紀』で天武の宮を「飛鳥浄御原宮」と呼ぶのは不可解なのだ。『書紀』では、「飛鳥浄御原宮」に関し、次のように天武が七六二年に造営したと記す。
◆天武元年(六七二)是歳、宮室を岡本宮の南に営る。即(その)冬に遷りて居おはします。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。(略)天武二年(六七三)二月癸未(二七日)、天皇、有司に命みことおほせて壇場を設けて、飛鳥浄御原宮に即帝位あまつひつぎしろしめす。

 しかし、天武は天智十年(六七一)に吉野に隠棲し、また、壬申の乱の最中はもちろん、乱が決着した天武元年(六七二)九月から宮の建設に着手し、年内(その冬)に移転するのは不可能と言わざるを得ない。これは例え「エビノコ郭」を作ったにしても同じことだ。
 また、飛鳥浄御原宮という宮の命名譚も不可解だ。
◆「朱鳥元年(六八六)秋七月戊午(二〇日)、元を改めて朱鳥元年と曰ふ。朱鳥、此をば阿訶美苔利あかみどりといふ。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰ふ。

 「阿訶美苔利」がなぜ「飛鳥浄御原」となるのか全く理解できないが、それに加えて、天武元年(六七二)に遷居した宮を「飛鳥浄御原宮と謂ふ」といいつつ、六八六年に制定された「朱鳥」元号にちなんで「飛鳥浄御原宮と曰ふ」のは「時間が逆転」している。

 このように『書紀』の「飛鳥浄御原宮」命名譚は不可解なのだ。
 古田氏は『壬申大乱』で、天武は九州佐賀なる吉野に逃れ、唐や九州王朝の支援を受け近江朝を討伐したとされた。(註7)従って、「小郡なる飛鳥浄御原宮」で、唐や九州王朝の承認を得、近畿天皇家を継承(即位)しても不思議はない。これを証するように、乱終結直後の天武元年十一月に新羅使の金押実等を「筑紫」に饗え、十二月にそのまま「筑紫から帰国」させており、また、翌年の高麗使も筑紫で饗えている。これは政治外交の中心が筑紫にあったことを示すものだ。
 『書紀』編者は、「常色の君」の造った「小郡の飛鳥浄御原宮」の名を「盗んで」、大和の諸宮(板蓋宮等)に付け替え、天武は「大和の飛鳥浄御原宮」を建設し、そこで即位したと潤色したのではないか。「こじつけ」のような命名譚になった原因はそこにあったと考えられよう。(続く)

(註1)「赤渕神社」(兵庫県朝来市和田山町牧田二〇一四)。日下部氏の祖の表米宿禰神と大海龍王神・赤渕足尼神を祀る。縁起には異本も多いが、常色元年、常色三年、朱雀 元年、朱雀三年、白鳳九年などの九州年号が記されており、『赤渕宮 神淵寺』本の末尾には「天長五年(八二八)丙申三月十五日」とある。
 「常色三年」とあるのは『赤渕宮 神淵寺』本のほか『赤渕大明神縁起』の「松平文庫本」(活字本。元は永禄三年庚申六月六日大円山新月禅師寺による写本)等。

(註2)なお、通説では『書紀』持統三年(六八九)六月庚戌(二九日)に「諸司に令一部二十二巻班わかち賜ふ」とは「浄御原令」の施行だとされるが、持統三年は九州年号朱鳥「四」年であり、実際は九州年号白雉「四」年(六五五)のことで、常色二年(六四八)に制定を命じた律令四十四巻の内、行政官(諸司)に必要な「令」だけを頒布したことになろう。

(註3)なお、七世紀初頭の多利思北孤の時代にも、『隋書』俀国伝に「其の俗、人を殺し、強盗および姦するは皆『死』し、盗む者は『臓』を計りて『物』を酬いしめ、財無き者は身を没して奴と為す。自余は軽重もて或は『流』し或は『杖』す」と刑罰(「律」)の用語である「臓物・死・流・杖」が見え、「官位令」によるべき十二階の官位も記されており、「多利思北孤の律令」の存在が伺える。

(註4)『延喜式』によれば高市皇子の墓は「三立岡墓」で広瀬郡(現北葛城郡広陵町・河合町)。ここを含め大和飛鳥では歌に詠まれる「城上」の所在は不明とされる。なお、一九九番歌に天武とされる「吾大王」は「香具[未]山に万代の宮」を造ったとあり、飛鳥の「香具山」とされているが、香具山に宮の痕跡など全く存在しない。異本の「香[未]山=神山」が正しく、頂に麻弖良布まてらふ神社のある麻弖良山や、高良大社のある高良山、古田氏が「歴代九州王朝の天子の墓所」とされる「雷山」がそれにふさわしい山となる。

(註5))明治前期の「全国村那小字調査書」(第四巻、二八九頁)に「井上村飛鳥」(但しふりがなは「ヒチャウ」)とある。

(註6)古賀達也「九州王朝の築後遷宮ー玉垂命と九州王朝の都」(『新・古代学』古田武彦とともに第四集一九九九年新泉社)

(註7)根拠は、『釈日本紀』に天武が唐人に戦略を聞いた記事があること。
◆天皇、唐人等に問ひて曰はく「汝の国は数あまた戦の国なり。必ず戦術を知らむ。今如何」とのたまふ。
 また、これを証するように『書記」によれば乱直前の天武元年五月まで唐の郭務悰(かくむそう)等「唐人」が筑紫に滞在していたこと、等が挙げられる。

◆『書紀』天武元年(六七二)夏五月壬寅(二二日)に、甲冑弓矢を以て、郭務悰に賜ふ。
 なお、古田氏は天武の作とされる万葉二七番歌「淑人乃よきひとの 良跡吉見而よしとよくみて 好常言師よしといひし 芳野吉見与よしのよくみよ 多良人四来三たらひとよくみ」を例証にあげ、天武が佐賀吉野で唐人や「太(多)良(佐賀県藤津郡)」の人にあったことを示すとされている。

◆【万葉資料】万葉一九九番歌(高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首)
 かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に 久堅の 天つ御門を 畏くも 定め賜ひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし 吾大王の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山超えて 高麗剣 和射見が原の 仮宮に 天降りいまして 天の下 治め賜ひ食す国を 定め賜ふと 鶏が鳴く 東の国の 御いくさを 召し賜ひて ちはやぶる 人を和やはせと 奉ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任よさし賜へば 大御身に 大刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率あどもひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角くだの音も 敵あた見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに ささげたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば 野毎に つきてある火の 風の共 靡くが如く 取り持てる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの畏く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに 渡会の 斎きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ賜ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 吾大王の 天の下 申し賜へば 万代に しかしもあらむと 木綿花の 栄ゆる時に 吾大王 皇子の御門を[一云 刺竹 皇子御門乎] 神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲の 麻衣着て 埴[垣]安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 獣じもの い匍ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を 振り放け見つつ 鶉なす い匍ひ廻り 侍へど 侍ひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも 未だ過ぎぬに 思ひも 未だ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして あさもよし 城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ しかれども 吾大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具[未]山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれど
(二〇〇)久堅の天知らしぬる君故に日月も知らず恋ひ渡るかも
(二〇一)埴[垣]安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに舎人は惑ふ
(二〇二)哭沢の神社に三輪据ゑ祈れども我が王は高日知らしぬ
*哭沢神社の祭神「哭沢女命」は伊邪那岐の涙から生まれた清き湧き水の精霊神。井上の湧水から発する清い堀(長者堀)に囲まれた筑紫小郡の宮に相応しい。

(補註)赤渕神社の諸縁起書は、国里愛明宮司のご厚意により、茂山憲史氏が撮影したもの


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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