2017年 8月12日

古田史学会報

141号

1,「佐賀なる吉野」へ行幸した
 九州王朝の天子とは誰か(中)
 正木 裕

2,古田史学論集
 『古代に真実を求めて』第二十集
 「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」
について(1)
 林伸禧

3,なぜ「倭国年号」なのか
 服部静尚

4,「倭国年号」採用経緯と意義
古田史学の会・代表 古賀達也

5,倭国年号の史料批判・
 展開方法について
 谷本茂

6,「古田史学会報 No.140」を読んで
 「古田史学」とは何か
 山田春廣

7,書評 野田利郎著
『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』
 古賀達也

8井上信正氏講演
『大宰府都城について』をお聞きして
 服部静尚

9,「壹」から始める古田史学十一
 出雲王朝と宗像
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

古田史学会報一覧

「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」について(1)  (2の上) (2の下) 林伸禧

 


「倭国年号」採用経緯と意義

古田史学の会・代表 古賀達也

はじめに

 おかげさまで『古代に真実を求めて』二十集の『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』は初版印刷部数も増え、「古田史学の会」で引き取った分も完売できました。会員やお買い上げいただいた皆様に御礼申し上げます。
 今回、今まで使い慣れた「九州年号」という学術用語ではなく、敢えて「倭国年号」をタイトルに採用するにあたり、編集部では時間をかけて検討を続けました。その結果、先のタイトルを決定したのですが、それに至る経緯や理由について説明します。

 

激変する出版事業への対策

 「古田史学の会」編集部では、『古代に真実を求めて』の発行部数や販売部数の減少傾向が続いていたため、その打開策として特別企画を中心に編集し、タイトルもそれにあわせて個性的なものにするというリニューアルを十八集(『盗まれた「聖徳太子」伝承』)から行いました。その編集方針が当たり、発行部数も販売部数も増加し、そして書店の取り扱いにも良い変化が起こりました。
 ご存じのように、近年は書籍通販が増え、多くの書店が閉鎖に追い込まれています。そして残った大型書店でも歴史や古代史コーナーの縮小が続いています。ですから、よほど売れる本か、売れ筋のテーマを取り扱った本しか棚に並べてもらえないのです。そのため、以前に発行した『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)のような専門書的なタイトルでは書棚に並べてもらえなくなったのです。
 そうしたことも一因として、編集部ではタイトルを今まで以上に重視し、「地方史」扱いされかねない「九州年号」から、より一般的な「倭国年号」を採用することにしました。しかしそれでは「倭国年号」が大和朝廷の年号と受け止められますので、そうではないことを明確にするため、「大和朝廷以前」の一語を付記しました。

古田先生の「倭国年号」使用例

 もちろん「倭国年号」という用語が学術的に適切であることも十分に検討し確認しました。このことをご理解いただくために、古田先生が著作でどのように「倭国年号」という用語を理解されていたのかをご紹介します。
 古田先生の初めての通史となった『古代は輝いていた Ⅱ』(朝日新聞社刊。後にミネルヴァ書房から復刊)において、十三回にわたり「倭国年号」という用語を使用され(服部静尚氏調査)、中でも次のようにその妥当性を強調されています。三例のみ紹介します。

○初版本五七頁 復刊本四六頁
 (前略)「九州年号」、正確には「倭国年号」(あるいは「俀国年号」)の実在を前提にせずしては、『隋書』俀国伝をまともに読みこなすことは不可能だったのである。

○初版本六六頁 復刊本五四頁
 (前略)この点、「九州年号」とは、「九州を都とした権力のもうけた年号」の意であって、「九州だけに用いられた年号」の意ではない。この点からいえば、「倭国年号」の称が一段とふさわしいかもしれぬ。

○初版本六七頁 復刊本五五頁
 (前略)この問題は、九州年号=倭国年号に関する最深の箇所へと、わたしたちを否応なくおもむかせる。

 以上のように古田先生は「倭国年号」という用語が「正確には『倭国年号』」「一段とふさわしいかもしれぬ」とまで評価されています。こうした古田先生による
「倭国年号」使用例も確認し、編集部はタイトルに「倭国年号」採用を決定しました。なお、「倭国年号」の使用は、古田学派の研究者により論文などに以前から使用されており、そのことが問題視されることもありませんでした。古田先生も使用されていたのですから、当然といえば当然です。
 もちろん、「九州年号」という学術用語の使用に何ら問題はありませんし、「古田史学の会」や編集部が「九州年号」の使用をやめたり、「使用禁止」などできるはずもありません。それは研究者・執筆者の自由であることは言うまでもありません。編集部は本のタイトルに「倭国年号」という用語を採用することは「適切」と判断したに過ぎないのですから。このことについては同書「巻頭言」(本稿末尾に一部転載)にも記しており、曲解や誤解無きようお願いします。

不二井さんの「倭年号」提起

 「倭国年号」について、不二井伸平さん(古田史学の会・全国世話人)からメールが届きました。それによると、不二井さんも「倭国年号」について「最初、違和感を持ちました」が、「古田先生が『新羅年号』を語る中で『倭国年号』を用いられている資料を見て、あ、そうかと納得」されたそうです。さらに、「私も九州王朝史年表を作ったとき、『百済年号』『新羅年号』と並べたとき、『九州年号』では、『理屈』にならないと思ったりしました」と記されていました。
 そしてその「理屈」として、「新羅国の年号『新羅年号』、百済国の年号『百済年号』、ならば倭国の年号は『倭国年号』(さらに言えば、『倭年号』)」との考えが示されていたのです。わたしはこの「倭年号」という表記にまで考えが及んでいませんでしたので、「理屈」(論理性)を突き詰めれば「倭年号」まで進展せざるを得ないことに気づかされ、不二井さんのご指摘に驚きました。もちろん「倭年号」を採用するか否かは研究者の自由です。
 不二井さんは学問における用語使用の論理性を重視される研究者で、「倭年号」以外にも『三国志』のヒミカの漢字表記について、従来の「卑弥呼」(倭人伝)ではなく、自署名の「俾弥呼」(帝紀)を古田学派は使用すべきと訴えられてきました。このヒミカの漢字表記問題はちょっと複雑なのですが、「倭人伝」に限定して論じる場合は「卑弥呼」が妥当と思われますが、倭人伝の内容に限定するのではなく、倭国の女王ヒミカを論じる場合は自署名の「俾弥呼」を採用することが古田学派であれば妥当とする不二井さんのご指摘はよく理解できます。
 このように「理屈」(論理性)を重視すべきという不二井さんの指摘は、古田学派ならではの学問的配慮と言うことができます。

 

転載【巻頭言】

九州年号(倭国年号)から見える古代史
    古田史学の会・代表 古賀達也
(前略)
 六世紀初頭、九州王朝は中国の王朝に倣い、自らの年号を制定した。その年号を古田武彦氏は「九州年号」という学術用語で論述されたのであるが、その命名の典拠は鶴峰戊申著『襲国偽僭考』に記された「古写本九州年号」という表記に基づく。九州年号を制定した倭国が自らの年号を当時なんと呼んだのかは史料上明らかではないが、恐らくは単に「年号」と呼んだのではあるまいか。あるいは隣国の中国や朝鮮半島の国々の年号と区別する際は「わが国(本朝)の年号」「倭国年号」等の表現が用いられたのかもしれない。もちろん、倭国が自国のことを「九州王朝」と呼んだりするはずもないであろうし、自らの年号を「九州年号」と称したということも考えにくい。
 今回、本書のタイトルを「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」と決めるにあたり、従来使用されてきた学術用語「九州年号」ではなく、あえて「倭国年号」の表現を選んだのは、「倭国(九州王朝)が制定した年号」という歴史事実を明確に表現し、「九州地方で使用された年号」という狭小な理解(誤解)を避けるためでもあった。古田武彦氏も自著で「倭国年号」とする表記も妥当であることを述べられてきたところでもある。もちろん学術用語としての「九州年号」という表記に何ら問題があるわけではない。収録された論文にはそれぞれの執筆者が選んだ表記を採用しており、あえて統一しなかったのもこうした理由からである。
 さらに、《大和朝廷以前》の一句をタイトルに付したのも、「倭国年号」の「倭国」は通説でいう大和朝廷には非ずという一点を、読者に明確にするためであった。本書の「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」というタイトル選定にあたり、編集部は多大な時間と知恵を割いたことをここに報告しておきたい。
(後略)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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