「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」について(1) (2の上) (2の下) 林伸禧
古田史学論集『古代に真実を求めて』第二○集
「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」について(2の上)
瀬戸市 林 伸禧
はじめに
①古田史学論集『古代に真実を求めて』第二〇集 失われた倭国年号《大和朝廷以前》」(以下「論集二〇集」という)の問題点について
②「古田史学会報」一四一号での服部静尚氏及び古賀達也氏の見解について
③同号、谷本茂著「倭国年号の史料批判・展開方法」について
の3点について筆者の見解を述べさせていただきます。
①については、6月に開催された総会の席上で質問の時間が事実上無かったので、改めて問題点を述べ会員のご意見を伺いたいと思います。
1 論集第二〇集の問題点について
①ブックカバーについて
当初、明石書店は、ブックカバーに
『二中歴』(尊経閣文庫)年代記
と記していましたが、筆者が「国立国会図書館デジタルコレクション」本は「尊経閣文庫本」ではないと申し出た結果、「(尊経閣文庫本)」を削除しカバーの説明文をあらためたものです。
また、「年代記」は「年代歴」の誤りであり、不正確な表記になっています。
問題となるのは、明石書店の担当者が何故、「国立国会図書館デジタルコレクション」本を尊経閣文庫本と誤認したかです。
一七二頁に表題として
「資料1 二中歴 (国立国会図書館デジタルコレクションより)」
と記していますが、説明文では次のとおり記述されています。
鎌倉時代初期に成立した事典
加賀前田家に伝わる古写本(尊経閣文庫本)が残されている。
第一巻に神代歴、人代歴、第二巻に年代歴が記されている。
年代歴に継体から大化に至る倭国(九州)年号の記載がある。
この説明文では、明石書店の担当者が誤認するのは当然です。
というのも、ここで掲載している資料は、尊経閣文庫本ではなく、国学者の小杉椙邨氏が尊経閣文庫本の古写本・新写本等を影写したもので、小杉書写本とも言うべきものです。そのことを何も述べていないのは、資料説明文としては不適切です。かつ、『二中歴』の存在を初めて知った人に誤解を招く文言です。
②『二中歴』の資料について
特に問題になるのは『二中歴』の現存する最古の書写本である尊経閣文庫本では、年代歴に欠字(■)が存在することです。(以下「欠字文」という)
巳上百八十四年〃号卅一代■年号只有人傳言自大寶始立年号而巳
小杉書写本は尊経閣文庫本の欠字部分を本当に影写して「不記」と記したのか疑問があるのです。透写台を用いて前田尊経閣本の古写本と小杉書写本の影写を比較すれば、「表1」のとおり、その違いは明瞭です。
欠字については、「記」と「不記」に関して、筆者は、古賀氏とメールにて論争を行いました。最近では「不記」説である古賀氏が「東京古田会ニュース」の百七〇・一七二号にて、「記」説である石田氏は同ニュースの一六九~一七四号にて各々論考を発表されています。なお、石田氏の論考は、ホームページ「石田泉城の古代日記コダイアリー」の「『二中歴』を分析する」でわかります。
『二中歴』の著者は、「継体~大長」まで記述し、その年号に対しての見解を述べているのですから。「年号卅一を記す」としなければ意味が通らないと思います。筆者は、年号を記した後、肯定的な注釈を加えたものと考えます。参考に「表2」に論者の翻刻文を明示しましたので参考として下さい。
また、筆者は、「東海の古代」一九三号〈平成二八年九月〉で見解を述べているので、ホームページ「古田史学の会・東海」の「会報等」を参考にして下さい。
③一七四頁の資料1―3及び1―4の説明文について
ここでの説明文は、年代歴の翻刻文及びその概略を述べていますが、欠字文の翻刻文は、古賀氏が「『二中歴』の史料批判|人代歴と年代歴が示す九州年号|」(『「九州年号」の研究』)で述べた内容とほぼ同文です。そして、説明文に
(「年号記す」と読む説もある)
と()書きで記されています。尊経閣文庫本であれば、意味が通りますが、掲載している小杉書写本は「不記」と記されているので、整合がとれません。
論争がある場合は、論争となる資料を提供し、会員諸氏に検討していただくのが、本来のあるべき対応だと思います。
④その他
論集第二〇集には注意すべき箇所が次のとおりあります。
・九二頁十一行の『衝口発』の初出(一八七一年は一七八一年の誤り)
・一三七頁四行(改題は解題か)
2 服部静尚氏及び古賀達也氏の見解について
実に不思議なことがあります。
古田武彦氏が倭国年号について述べられたのは、
・一九八五(昭和六〇)年発刊された『古代は輝いていたⅢ』
・二〇〇一(平成十三)年発刊された『壬申大乱』
の二冊で約十六年前のことです。その後は『壬申大乱』発刊以降『「九州年号」の研究』(二〇一二年発刊)まで、九州年号を用いておられます。
古田武彦氏がご存命中に、倭国年号が適切であると述べられた論者は寡聞にして知りません。あればご教示下さい。
ところが、古田武彦氏が二〇一五(平成二七)年一〇月にご逝去されてから一年あまりで、突然、一部の論者は「倭国年号」が適切な名称だと述べられるようになりました。
最近のマスコミの風潮で、文言の一部を切り取って、あたかも全文の要旨がそうであるとする風潮に似ているようで危惧します。
(1) 服部静尚氏の見解について
服部氏は、本会の立場をご承知されていないと思われます。
本会は、古田武彦氏が提唱された「九州王朝説」即ち古田史学についての継承と発展をはかることを目的で設立された会であり、九州年号は九州王朝が建てた年号です。
九州王朝は、中国側からは、倭国と言われ、倭国が建てた年号が倭国年号です。
また、「九州年号=倭国年号」で述べておられるのは、九州王朝が建てた年号を九州年号と称するのに対して、それを中国からみれば倭国年号であることを端的に述べておられるのです。
古田氏は、必要に応じて、倭国年号を用いておられるが、根幹は九州王朝が建てた九州年号であることをを承知すべきです。
服部氏は、
つまり、古田先生は一九八五年から二〇一四年まで、一貫「九州年号=倭国年号」とされているのです。
先生が「倭国年号」と言われたのは昔の1時期のことだとされる一部の研究者がおられますが、もしそうなら先生は間違いなくその訂正を書かれたでしょう
そのチャンスは復刊においてもいくらでもあったのですから。
と、述べられておられますが、服部氏は復刊版の性格を勘違いされているようです。
復刊版は、初版本をそのまま発行することです。訂正したならば訂正版としての発刊です。
また、服部氏は
古田先生は、「九州年号」の実在をしめし、それが「倭国年号」だったと繰り返し結論されているいるのですから、訂正されるはずはありません。
と述べられていますが、古田氏は『古代は輝いていたⅢ』の目次に「第四章 九州年号」と記され、この中で九州年号を主題として、倭国年号の語句を使っているのです。その六二頁に次のとおり述べておられます。
一には、この九州年号=倭国年号の問題に対する反論をわたしが久しく鶴首待望してきたこと、二には、さらに、この問題こそわたしの九州王朝論の一核心をなすべきテーマだからだ。
なぜなら「九州年号の実在を認めて、九州王朝の実在を認めない」などということは、およそ不可能事だからである。
くどいようですが、古田氏は古代の日本を代表する国を中国側からみれば倭国、倭国が建てた年号は倭国年号だと述べられているのです。また、古田氏はその国を九州王朝と名付けておられ、建てた年号を九州年号としておられるのです。それ故、九州年号と倭国年号との関連は、「九州年号、言い換えれば、中国が(通説で)述べている倭国年号」ともいえます。
また、二〇一二年発刊された『「九州年号」の研究』において、古田氏は、九州年号について述べておられるものの、倭国年号については一言も述べておられません。これについて、どのように判断されておられるのでしょうか。
さらに、二〇〇一年以降発刊された、古田武彦氏の著書のうち「古田武彦歴史への研究シリーズ」(二〇一一~二〇一五年発刊)では、九州年号の紀述はありますが、倭国年号の記述はありません。また、復刊版として発刊された『古代は輝いていたⅢ』、『壬申大乱』を除き、九州年号を倭国年号に改訂された著書があるのでしょうか。
服部氏は『古代は輝いていたⅢ』において、倭国年号と九州年号とが関連している文例を明示されておられますが、単独に「九州年号」を述べておられる文例も存在します。復刊本の三八・六〇・六一・一五一・一五二・二二〇及び二二一頁です。
合田洋一氏が論集二十集に投稿された論考「越智国・宇摩国に遺かる『九州年号』」における九州年号を、服部氏はどのように理解されておられますか。また、講演された平成二十四年当時と現時点の考えを聞かなければ解りません。
大越邦生氏は、本会の会報及び論集に投稿されたでしょうか。また、合田氏への疑問と同様のことを確認する必要があります。
増田修氏は、「古田史学の会」の前身「市民の古代研究会」当時の論集に投稿されたものです。これもまた合田氏への疑問と同様のことを確認する必要があります。
洞田一典氏は、ご逝去されていますので、投稿時の倭国年号の意味するところが不明です。
筆者は、本会の会員は、古田説に賛同されて入会されたものであり、本会の会則及び事業を進めて、九州王朝説(九州王朝が建てた九州年号)を進めようとした人々と思っております。
当然ながら、個人の考え方を拘束するものではなく、本会以外の会報誌等に投稿することを規制するものではありません。
(以下、次号に続く。編集部)
これは会報の公開です。新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"