2017年10月10日

古田史学会報

142号

1,井上信正さんへの三つの質問
 古賀達也

2,「佐賀なる吉野」へ行幸した
 九州王朝の天子とは誰か(下)
 正木 裕

3、古代官道
 南海道研究の最先端(土佐国の場合)
 別役政光

4,気づきと疑問からの出発
 冨川ケイ子

5,『古代に真実を求めて』第二○集
「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」
 について(2の上)
 林 伸禧

6、「壹」から始める古田史学十二
 古田説を踏まえた
 俾弥呼のエピソードの解釈①
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

古田史学会報一覧


前畑土塁と水城の編年研究概況(会報140号)

須恵器窯跡群の多元史観 大和朝廷一元史観への挑戦(会報144号)

鞠智城創建年代の再検討 -- 六世紀末~七世紀初頭、多利思北孤造営説 古賀達也(会報135号)


井上信正さんへの三つの質問

京都市 古賀達也

一、はじめに

 二〇一七年六月十八日、エル大阪で開催した「古田史学の会」古代史講演会には太宰府条坊研究の第一人者、井上信正さん(太宰府市教育委員会)にご講演いただきました。太宰府条坊などの最新考古学成果などについて講演され、質疑応答ではわたしから次の三つの質問をさせていただきました。

〔質問1〕大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺は八世紀初頭に創建されたとの井上説だが、観世音寺は天智天皇により建立を命じられたとの『続日本紀』の記事を信じるのであれば、天智天皇没後四十年近くも造営されなかったことになり、不自然である。少なくとも地割だけでも天智期に開始され、全伽藍の完成が八世紀初頭というのなら理解できるが、この点をどのように考えらているのか。

〔質問2〕井上説によれば大宰府条坊と藤原京条坊の造営が共に七世紀末とされている。大宰府条坊整地層(右郭十二条八坊)からの出土土器はレジュメによれば、須恵器坏HとBに見える。藤原京整地層出土土器は坏Bが主流であることから、両者を比較すると大宰府条坊整地層の土器の様相がやや古いよう思われるが、この点はいかがか。

〔質問3〕井上説によれば平城京や大宰府政庁Ⅱ期の「北闕」型の都城様式は八世紀初頭の遣唐使(粟田真人)によりその情報がもたらされたとのことだが、七世紀中頃の造営とされている前期難波宮が「北闕」型であることをどのように考えられるのか。

二、文献史学と考古学の不一致

 この三つの質問のうち、太宰府条坊都市造営時期に関しての通説や井上説の矛盾が端的に現れているのが質問1のテーマです。このことは井上さんも理解されており、お互いに相手の見解や立場を理解した上での質疑応答です。井上さんの回答は次のようなものでした。

〔回答1〕観世音寺の位置(南北中心軸)は政庁Ⅱ期の中心軸から小尺でちょうど東へ二〇〇〇尺の位置にあることから、小尺が採用された八世紀初頭となる。出土土器も七世紀に遡る古いものは出土していない。

 講演会後の懇親会でも井上さんとこの問題について意見交換しました。わたしからは九州年号等の史料に白鳳十年(六七〇)の観世音寺創建記事があることと、創建瓦の老司Ⅰ式が従来の編年では七世紀後半頃とされており、白鳳十年創建記事と一致していることを説明しました。
 井上さんも古い土器が出土していないことを不思議に思っておられるようでした。そこで、土器編年の精度に問題があるのではないかと指摘し、九州の七世紀頃の土器編年は遺跡によっては四半世紀(二五年)ほどのずれがあるように思われると意見を述べたところ、井上さんも同様の感想を抱いておられるようでした。

三、「小尺」の採用時期

 わたしは複数の九州年号史料に白鳳十年(六七〇)の観世音寺創建記事があることや、創建瓦の老司Ⅰ式が従来の編年では七世紀後半頃とされていること以外にも、国宝の銅鐘が七世紀末頃のものとされていること、本尊の阿弥陀如来像は百済から贈られたものと伝承されていることから、これも百済滅亡の六六〇年以前にもたらされたと考えられ、その場合、井上説では五十年近くどこかに置かれていたこととなり、これも不自然であると指摘しました。
 もちろん井上さんもこうしたことはよくご存じで、その上で観世音寺から七世紀に遡る土器が出土していないことを不思議に思っておられるようでした。この点については、わたしも納得できていません。同調査報告書を精査したいと考えています。
 「小尺」(三〇㎝弱)の採用時期については、近畿天皇家一元史観に立てば『続日本紀』の記述などに基づき八世紀初頭とする井上説は理解できますが、多元史観・九州王朝説に立つわたしには『続日本紀』の記述を無批判に「是」とすることはできませんので、これはお互いの依って立つ歴史観の差から来ています。この問題については、倭国における「小尺」採用時期を示す遺構や遺物の有無などの検証が、互いの説の優劣を検討する有効な論点となるでしょう。
 なお、前期難波宮造営の基準尺が一尺二九・二㎝とされており、藤原宮からは一尺二九・五㎝の「ものさし」が出土しています。これらを「小尺」とできるかは不明ですが、七世紀中頃に「小尺」に近い基準尺が採用されている事実から、『続日本紀』の記事はそのまま信用できないと考えています。

四、太宰府条坊と藤原京の土器比較

 質問2対する井上さんの返答は次のようなものでした。

〔回答2〕右郭十二条八坊整地層からの出土土器にはレジュメにある渦巻き状の文様を持つものがあり、これは藤原京から出土する土器の特徴であることから、大宰府条坊と藤原京は同時期と見なしてよい。

 この井上さんの返答は考古学者ならではの知見によるもので、わたしも貴重な指摘と思いました。九州王朝の首都太宰府条坊都市と大和朝廷の王都となる藤原京との関係性がうかがわれる知見だからです。もちろん具体的な関係のあり方はまだわかりませんが、土器だけではなく瓦にも両都市間の関係をうかがわせる出土物が知られています。たとえば観世音寺の創建瓦老司Ⅰ式と藤原宮出土瓦との類似性が指摘されています。従って、両者が無関係に造営されたとは考えにくいのです。
 他方、太宰府条坊都市造営時期や造営過程については多くの不鮮明で難しい問題があります。それは太宰府条坊は七世紀初頭から末頃までの長期間にわたって増設された可能性があり、従って整地層出土土器の年代も場所によって異なるのではないかという疑問をわたしは抱いているからです。このことについても井上さんと意見交換しました。

五、古い土器が出土する「通古賀」地区

 井上さんとの二つ目の質疑応答は太宰府条坊都市の造営年代を考古学的土器編年により大枠を押さえることをテーマとしたものです。考古学者の井上さんが最も得意とする分野であり、文献史学のわたしは教えを請うというスタンスで臨みました。
 質問1の観世音寺の創建年代とは異なり、土器の相対編年によるため、数十年幅という年代の大枠しか押さえられないのですが、太宰府条坊の造営年代において、井上説(七世紀末頃)とわたしの説(七世紀初頭頃)では七十年近くの開きがありますから、どちらの説がより妥当かという程度の優劣を比較するのには、土器の相対編年による考察は有効です。しかも条坊都市という広範囲の土器の様相の比較ですから、個別の遺跡よりも比較資料が多く、この点でも検証しやすいと思われます。
 一例をあげれば、前期難波宮と藤原京の整地層出土土器の比較なども、前期難波宮の造営が孝徳期か天武期かという検討において有効でした。出土干支木簡により天武の時代に造営開始されたことが明らかな藤原京整地層の主要出土須恵器は坏Bであり、坏G・Hを整地層からの主要出土須恵器とする前期難波宮とはその土器様式の様相が明確に異なっています。この考古学上の実証的事実によっても、前期難波宮の造営時期は天武期よりも早く、孝徳期造営説が有利であることがわかるのです。
 このような、いわば「ビッグデータ」を比較することにより、太宰府条坊造営時期に関する井上説とわたしの説の比較検証が可能と思われるのです。今回の質疑応答では井上さんが指摘されたように、右郭十二条八坊整地層の出土土器からは七世紀末頃とする判断が穏当であり、わたしが見ても自説の七世紀初頭とは思えませんでした。もちろん、レジュメの資料は出土土器の一部と思われますから、より正確に判断するには調査報告書を精査する必要がありますが、それでも大きくは変わらないと思います。
 しかしながら、太宰府条坊は七世紀初頭から末頃までの長期間にわたって増設された可能性があり、整地層出土土器の年代も場所によって異なるのではないかという問題があり、一カ所の出土土器だけでは決められないのです。この点、条坊造営時の初期政庁は右郭の王城神社がある「通古賀」にあったと井上さんは考えられており、その根拠の一つがその地域から七世紀に遡る古い土器が出土することです。
 また、太宰府条坊都市から土器が多く出土するのは政庁・官衙付近と「通古賀」付近の二地域とのことで、中でも「通古賀」からは古い土器が出土するとのこと。この事実は、太宰府条坊が同時期に全てが造営されたわけではなく、まず「通古賀」付近が造営され、その後に順次拡張されたのではないかと考えられるのです。
 この可能性から、太宰府条坊造営時期を土器から判断する場合、条坊の場所ごとの比較検証が必要とわたしは考えています。こうしたテーマはやはり考古学者のお力添えが必要です。これからも井上さんから学んでいきたいと願っています。

 

六、前期難波宮は「北闕」型か

 三つ目の質問は、直接には唐の長安城(「北闕」型の都)を見た遣唐使(粟田真人)により日本国に伝えられ、その「北闕」様式が平城京と大宰府政庁Ⅱ期の造営に採用されたとする井上説への質問なのですが、より深くは前期難波宮を一元史観に基づく考古学ではどのように説明されるのかを確認することが目的でした。当然ながら、井上さんはわたしの質問意図を正確に理解され、次のように回答されました。

〔回答3〕前期難波宮は中国様式の宮殿であるが、上町台地の最も良い場所(北端部の高台)に造営されたものと考える。

 すなわち井上さんは、前期難波宮は好適地に造営したら、結果として「北闕」型のようになっただけと考えておられることがわかりました。自説が成立するためには、そのように考えざるを得ないということかもしれません。わたしとしては、それはかなり無理な解釈と思うのですが、実はこの「無理な解釈」をせざるを得ないのは井上説だけではなく近畿天皇家一元史観の論者が共通して持つ難問でもあるのです。

七、異質で傑出した前期難波宮

 質問3には一元史観による王都・王宮発展史に関わる重要な問題が含まれていました。おそらく井上さんもその問題をご存じのはずで、質問に対して、前期難波宮を「北闕」様式とは見なされず、たたま立地上の制約から「北闕」様式のようになったとする考えを示されました。
 実はこれはちょっと意地悪な質問だったかもしれません。井上さんも前期難波宮を中国様式の宮殿と認められたのですが、ということは唐の長安城の宮殿の様子を倭国は七世紀中頃には知っていたことになります。そうであれば当然のこととして、長安が「北闕」様式の都城であることも知っていたはずです。従って、八世紀初頭の遣唐使によって初めて「北闕」様式の都城の様子が伝えられ、平城京や大宰府政庁Ⅱ期の造営に採用されたとする井上説は成立困難となります。
 この王都の「北闕」様式については、考古学者の井上さんだけではなく、一元史観の文献史学研究者にとってもかなりやっかいな問題なのです。一元史観に立って近畿天皇家の王都・王宮の変遷を見たとき、飛鳥の雑然とした王宮に居した皇極、その次の孝徳はいきなりけた違いに巨大な左右対称の朝堂院様式を持つ「北闕」型の前期難波宮を造営、次の斉明(皇極)はまた飛鳥の雑多な王宮へ戻り、次の天智は前期難波宮によく似た巨大な朝堂院様式の近江大津宮へ遷都、次の天武は飛鳥に戻り、それまでの王宮に「エビノコ郭」を増築、次の持統は飛鳥に巨大な朝堂院様式を持つ「周礼」型の藤原宮を造営、その後七一〇年には「北闕」型の平城京へ遷都、およそこのような変遷をたどります。
 このように一元史観に立った近畿天皇家の王都・王宮の変遷を見たとき、孝徳の前期難波宮だけが前後の王都・王宮とは様式も規模も異質で傑出しており、同じ「王朝」のものとは思えないのです。特に王宮を王都の北に置く(前期難波宮・平城宮)のか、中心(藤原宮)に置くのか、両者は政治思想的にも異なりますし、律令官制による全国支配とその行政を中央で取り仕切ることに対応した「朝堂院」様式の王宮(前期難波宮)が孝徳になって突然出現し、かと思うと次の斉明はまた辺境の飛鳥の宮へと戻ります。孝徳から斉明に代替わりしたら、律令官制をやめたとでもいうのでしょうか。その数千人に及ぶとされる官僚群や家族たちはどこへ引っ越ししたのでしょうか。
 このように、一元史観による近畿天皇家の王都・王宮の変遷史から前期難波宮を見たとき、思想的に全く異質で規模もけた違いに巨大であることは明白です。このことに対して一元史観の研究者は合理的な説明に成功していません。この一元史観にとって困難な問題は井上さんの説でも避け難いのです。「ちょっと意地悪な質問」と記したのは、このような理由からだったのです。

八、おわりに

 一元史観にとって前期難波宮の存在が説明困難な課題となっていることに、わたしが気づいたのは、ちょうど前期難波宮九州王朝副都説へ至ろうとしていた頃でした。九州王朝説にとっても一元史観にとっても説明困難な前期難波宮の存在を、九州王朝副都説でうまく説明できることを確信した瞬間でもありました。

 今回の井上さんのご講演と質疑応答を経て、一元史観では未だ前期難波宮問題を解決できていないのだなと思いました。そのことを確認できたことも、井上さんに大阪でご講演いただいた学問的成果の一つではないでしょうか。また九州王朝の首都太宰府の研究が井上さんら当地の考古学者により進められることを願っています。その成果は九州王朝説・多元史観にとっても大きな刺激となることでしょう。


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