2017年10月10日

古田史学会報

142号

1,井上信正さんへの三つの質問
 古賀達也

2,「佐賀なる吉野」へ行幸した
 九州王朝の天子とは誰か(下)
 正木 裕

3、古代官道
 南海道研究の最先端(土佐国の場合)
 別役政光

4,気づきと疑問からの出発
 冨川ケイ子

5,『古代に真実を求めて』第二○集
「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」
 について(2の上)
 林 伸禧

6、「壹」から始める古田史学十二
 古田説を踏まえた
 俾弥呼のエピソードの解釈①
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

古田史学会報一覧


「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か (上) (中) (下)

多元史観と『不改の常典』(144号)

「伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点」(86号)


「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か(下)

川西市 正木 裕

七、「常色じょうしきの君」と伊勢王いせのおほきみ

1、「常色の君」は『書紀』では「伊勢王」と呼ばれていた

 前々号(一四〇号)では古田氏が「持統天皇の吉野行幸記事」により明らかにした「『書紀』記事の三十四年の繰り下げ」をもとに、常色元年(六四七)に、九州王朝の天子(*仮に「常色の君」とよぶ)が即位したこと、彼は筑紫小郡の宮を建設し、そこで律令を制定するなど、「常色の改革」とも称すべき改革を行ったことを述べた。
 また、前号(一四一号)では、『書紀』記事や万葉歌をもとに、「常色の君」の制定した律令は、「飛鳥浄御原律令」と呼ばれたと考えられると述べた。
 ところで、「常色の君」の活動が、吉野行幸記事のように、『書紀』では三十四年後に「繰り下げ」られていたのなら、「伊勢王」と呼ばれる人物が注目されることになる。
 まず、『書紀』に記す伊勢王の事績を、年代順に要約してみよう。
 『書紀』での伊勢王の初見は、白雉元年(六五〇)に「孝徳天皇」の主催する白雉改元儀式で、左右の大臣らと「白雉を載せた御輿」を担いだ記事だ。但し、九州年号白雉元年は六五二年だから、白雉の輿を担いだのは、実際は六五二年のことになる。白雉改元は同年の難波宮完成によるもので、「常色の君」が崩御したものではないと考えられるから、九州王朝では彼の時代にあたる。

①六五〇年「白雉の輿を担ぐ」(白雉元年二月十五日)
  そして、『書紀』では六六一年六月と六六八年六月の二度薨去記事がある。

②六六一年「伊勢王薨る」(斉明七年六月)

③六六八年「伊勢王と弟王日を接して薨みまかる」(天智七年六月)、
  これにもかかわらず、④六八三⑤六八四年⑥六八五年⑦~⑨六八六年⑩六八八年という「天武末から持統当初」に再び記事が見える。

④六八三年「天下を巡行す」(天武十二年十二月十三日)

⑤六八四年「諸国の堺を定む」(天武十三年十月三日)

⑥六八五年「また東国に向る」(天武十四年十月十七日)

⑦六八六年「無端事に答える」(朱鳥元年正月二日)

⑧六八六年「飛鳥寺に派遣さる」(朱鳥元年六月十六日)

⑨六八六年「天武の葬儀で誄す」(朱鳥元年九月二七日)

⑩六八八年「葬儀を奉宣す」(持統二年八月十一日)

 通説では六六一年六月記事②と六六八年六月記事③は、内容や月が一致していることから重複記事とし、その他の記事については、「伊勢王」は個人の名前ではなく官職名、あるいは地位の俗称であり、「伊勢王」と称する人物が複数存在したとする。しかし、④~⑩の天武・持統紀の記事を、古田論証をもとに吉野行幸同様「三十四年前」に遡らせると、「六四九年~六五四年」に収まることになる。

2、「無端事」と伊勢王

 なかでも、注目されるのが朱鳥元年(六八六)正月二日の、「伊勢王」が無端事で、「天武」に対し実(正解)を答え、諸々の恩賞を得たという記事だ。ちなみに、六八六年の三十四年前は、九州年号では白雉元年(六五二)にあたる。

◆朱鳥元年(六八六)。
春正月癸卯(二日)に、大極殿に御して、宴を諸王卿に賜ふ。是の日に、詔して曰はく、「朕、王卿に問ふに、無端事あとなしことを以てす。仍りて対へて言すに実を得ば、必ず賜ふこと有らむ」とのたまふ。(略)伊勢王、亦実を得。即ち皁くりそめの御衣三具・紫の袴二具・絁ふといぬ七匹・絲廿斤・綿四十斤・布四十端賜ふ。

岩波注釈は「無端事」を次のように解説する。
◆集解(*八六八年頃に編纂された養老令の注釈書『令集解りょうのしゅうげ』のこと。)は考課令にいう方略のことで、多聞博覧を試みるために種々の問を発することという。考課令集解古記に『多聞博覧之士、知無端、故試以无端大事也』

 つまり知識人の知恵に限りが無い(無端=エンドレス)ことを試すのが「無端事」だという。そして、そのような行事の記事が『書紀』中ただ一か所だけある。それは『書紀』の白雉元年に見える、「白雉改元の吉祥の占い、改元の可否の問いへの奉答」だ。
 この記事では、穴戸国から白雉が献上された意義を、当代の知識人(多聞博覧之士)たちに尋ねている。そして百済君・沙門等・道登法師・僧旻みん法師らが、「後漢書、明帝紀」「芸文類聚、吉瑞部、雉条」「同、水部、海水条」「宋書、符瑞志」等に記す数多の故事来歴を引用し、「白雉」が非常な吉祥であることを奉答する。これはまさに考課令にいう「無端事」そのものだ。
結局『書紀』朱鳥元年(六八六)に記す「無端事」行事は、本来白雉改元に関する行事だったのだ。
 白雉改元記事は、『書紀』では白雉元年(六五〇)に記されるが、「九州年号白雉元年」は六五二年で「壬子の年」だ。そして、「『書紀』年号の白雉」ではなく、「九州年号の白雉」が正しかったことは、「元壬子年木簡(註12)」で確認されているから、先述の白雉改元儀式で、「伊勢王」が白雉の輿を担いだのも当然六五二年、白雉に関する「無端事」行事も、同じ六五二年のこととなる。そして、これは朱鳥元年(六八六)の三十四年前にあたるのだ。
 従って、『書紀』では、伊勢王が「輿を担いだ」事績は六五〇年、「無端事」は六八六年と分かれて書かれているが、実際はどちらも九州年号白雉元年(六五二)のことで、伊勢王は一連の改元行事に参加したことになる。

 

八、評制施行・難波宮遷都を行った伊勢王

1、伊勢王の天下巡行と評制施行

 そして、白雉改元に先立つ「評制施行」と「難波宮の建設」に、伊勢王が関係していたことを示すのが、先掲の④~⑥の記事だ。
伊勢王が「天下に巡行」した④天武十二年(六八三)の三十四年前は大化五年、九州年号では常色三年(六四九)で、前号で述べたとおり、全国に評制が施行された年にあたる。
◆天武十二年(六八三)十二月丙寅(十三日)、諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・小錦下多臣品治ほむじ・小錦下中臣連大嶋、あわせて判官・録史・工匠者等を遣して、天下に巡行ありきて、諸国の境堺を限分さかふ。然るに是の年、限分ふに堪へず。
 「諸国境界の確定」とは、国・評の領域を定めるもので、隣接する地域の支配者間の利害調整・調停を伴う「政治的行為」だ。しかも「天下」とあるからには、全国的に実施された事業を意味する。天武十二年に何故そのような事業を行ったのか不明だ。しかし、これが三十四年前の六四九年であれば、全国的な評制施行の一環として、合理的に解釈できる。

 

2、難波宮建設は天下巡行のもう一つの目的

 さらに、この「巡行」は、単に国や評の境界を決めることだけが目的ではなかった。これを明らかにするのが、四日後に出された「副都詔」だ。
◆天武十二年(六八三)十二月庚午(十七日)(略)又詔して曰く、凡そ都城・宮室、一処に非ず、必ず両ふたつみつ造らむ。故、先づ難波に都造らむと欲す。是を以て、百寮の者、各おのおの往りて家地を請はれ。

 難波宮は『書紀』で六五二年に完成したと記されるのに、「先づ難波に都造らむ」とは不可解なことだが、三十四年前の六四九年であれば、難波宮を作れとの詔として、自然な記事となる。
 そして、この「難波に都を造る」ことが、天下を巡行する「もう一つの目的」であったことは確かだろう。全国に創設する評を統治するためには、どこに、どのような都城・宮室を作ればいいのか、その答えが「必ず両参造らむ。故、先づ難波に都造らむ」というものだった。

 この詔は直ちに実行され、翌天武十三年(六八四)三月には「天武」が「宮室の地」を定めている。
◆『書紀』天武十三年(六八四)三月辛卯(九日)、京師に巡行ありきたまひて宮室の地を定めたまふ。

 そして、同じ天武十三年十月には、伊勢王等を派遣し、諸国の境界を定めた記事がある。
◆天武十三年(六八四)十月辛巳(三日)、伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ。

 この三十四年前、六五〇年の十月には、「難波宮の堺標」が決まり、「宮室の地(宮地)」に編入された者に「移転補償」が行われている。
◆『書紀』白雉元年(六五〇)冬十月に、宮の地に入れむが為に、丘墓はかを壊られたる人、及び遷されたる人には、物賜ふこと各差しな有り。即ち将作大匠たくみのつかさのかみ荒田井直比羅夫を遣して、宮の堺標を立つ。

 天武十三年(六八四)の一連の記事が、三十四年前の六五〇年のことなら、三月に難波宮の宮室の地を定め、十月に諸国の境を決めるとともに、難波宮予定地において、宮地の境界を定め、墓等の移転補償をおこなったことになる。前年の天武十二年、実際は六四九年に「限分さかふに堪へなかった境界」が、宮地を含めて限分さかふことができたのだ。
こうして「評制の施行と都城・宮室の整備」という「天下巡行」の二大目標が達成されたことになる。これは、六四九年という評制の施行年や、六五二年に完成する難波宮建設スケジュールと見事に一致している。
 なお、「将作大匠」とは将作監(土木建築を所管する役所)の長官で、唐では将作監大匠といい工匠者等を統括する。これは、天武十二年末の工匠者等の派遣と符合する。天武十二年記事は、やはり三十四年前の六四九年のことで、そこに見える「工匠者等」とは、荒田井直比羅夫の率いる工作人たちだった。

3、伊勢王は「派遣された」のでなく官吏を「派遣した」

 ちなみに、文面上では天武が伊勢王を派遣したように書かれているが、「評」は九州王朝の制度だから、三十四年前の「評制施行者」が天武であるはずは無い。また、九州年号の白雉改元行事の「主催者」も、当然だが近畿天皇家の孝徳ではなく、当時の九州王朝の天子だ。従って、実際に諸国を巡行させ、国評や難波宮の堺を定めた人物も、天武でも孝徳でもなく、「常色の君」ということになる。そして、『書紀』でこれら一連の行事全てに関連する人物として記されているのは「伊勢王」だから、『書紀』編者は、「常色の君」を伊勢王と呼んだうえ、伊勢王を天武や孝徳と「入れ替え」たことになる。
 天武十二年記事で言えば、「天武」が伊勢王や官吏・工匠者等を遣したのではなく、「伊勢王(常色の君)」が彼らを遣わしたのであり、白雉元年記事で言えば、「孝徳」が伊勢王や左右の大臣らの担いだ、御輿の白雉を見たのではなく、「伊勢王(常色の君)」が彼らの担いだ白雉を見たのだ。(註13)
 「無端事」の場合も、問いを発したのは「天武」ではなく、伊勢王(常色の君)であり、これに正しく答えて恩賞を得た伊勢王とは、本来は別の臣下だったことになろう。(註14)

4、対新羅戦に備えて東国に遷った伊勢王(常色の君)

 「宮室の地」と「諸国の堺」が定まった天武十三年の翌年、先掲⑥に示す天武十四年に、伊勢王が「東国」に向ったとの記事がある。
⑥天武十四年(六八五)冬十月己丑(十七日)、伊勢王等、亦東国に向る。因りて衣袴を賜ふ。

 この記事には「遣」の言葉が無く、伊勢王本人らが東国に向かったとある。三十四年前は『書紀』白雉二年(六五一)(常色五年)であり、年末には難波宮への遷居が記されている。従って、これは伊勢王(常色の君)が、六五一年(常色五年)十月に、「東国の難波」へ遷った記事だと考えられる。伊勢王がもともと居していたのは、難波を「東国」と呼べる地域、すなわち筑紫となるだろう。(註15)

 それでは、「常色の君」が東国の難波へ遷居した背景は何だろうか。実は六五一年には、新羅との関係が極めて悪化し、新羅討伐が奏請された記事がある。
◆『書紀』白雉二年(六五一)(常色五年)是歳、新羅の貢調使知萬沙飡等、唐の国の服を着て、筑紫に泊まれり。朝庭、恣ほしいままにしわざ移せるを悪にくみて、訶嘖めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣、奏請して曰はく、「方に今新羅を伐ちたまはずは、於後に必ず当に悔有らむ。其の伐たむ状は、挙力やむむべからず。難波津より、筑紫の海の裏に至るまでに、相接ぎて艫舳ふねを浮け盈てて、新羅を徴召して、其の罪を問はば、易く得べし」とまうす。

 新羅の使節を筑紫から追い返したのだから、これは筑紫での出来事だ。こうした中、天子が新羅との戦場から近い筑紫を避け、遠い難波に移ることは極めて合理的な選択なのだ。しかも「難波津より、筑紫海の裏に至るまで相接ぎて艫舳を浮みて」とは、難波を本拠と想定した発言となっている。

 これを裏付けるのが、天武十四年(六八五)十一月の、周防に軍事物資を送る記事や、十二月の筑紫の防人海中に漂うとの記事だ。
◆天武十四年(六八五)十一月甲辰(二日)、儲用の鉄一万斤を、周芳の総令の所に送す。是日、筑紫大宰、儲用まうけの物、絁一百匹・絲一百斤・布三百端・庸布四百常・鉄一万斤・箭竹二千連を請す。筑紫に送し下す。
    十二月壬申朔乙亥(四日)、筑紫に遣せる防人等、海中に飄蕩ただよひて、皆衣裳を失へり。則ち防人の衣服の為に、布四百五十八端を以て、筑紫に給り下す。

 筑紫に武器を送った天武十四年(六八五)の三十四年前は六五一年で、『書紀』白雉二年(六五一)記事の、「新羅を伐つべし」との奏上と呼応し、また、筑紫の海中に防人が漂ったというのは、「筑紫海の裏に至るまで船を浮かべて」との奏上と符合する。
 さらに、十一月に「周芳の総令の所に送す」「筑紫に送し下す」という記述は、伊勢王(常色の君)が十月に東国に向かったことと時期が一致する。「常色の君」は十月に九州から難波に移り、十一月に難波から武器を送ったのだ。
 この様に、一連の『書紀』天武紀の伊勢王の記事を、古田論証に基づき三十四年前の記事と対比したうえ、「諸国境堺の限分」を「評制施行」、「東国」を難波、宮を難波宮、伊勢王を「常色の君」と考えれば、評制施行から難波遷都までの一連の出来事として自然に解釈できるのだ。(註16)

九、「常色の君」は歴代天皇に入れ替えられた

1、斉明・持統との入れ替え

 『書紀』で初めて「伊勢王」の名が記されるのは①の六五〇年だが、天武紀では④の天武十二年(六八三)の「天下巡行」だ。三十四年前は六四九年で、実際はこれが最初となる。一方「伊勢王」の最後の記事は⑩の持統二年(六八八)で、三十四年前は『書紀』白雉五年(六五四)となる。
 そして、不思議なことに、『書紀』の持統天皇の吉野行幸記事を三十四年遡らせた場合、行幸は翌年の斉明元年(六五五)に始まり、これ以降頻繁に繰り返されたことになる。
 『書紀』では、六五四年に斉明らが難波宮から「倭の河辺の行宮かりみや」に遷り、老者おいひとが「鼠の倭の都に向かいしは、都を遷す兆しなり」と言った記事がある。通説では飛鳥に戻ったとされるが、行宮かりみやに遷るのを「遷都」というのは不自然だ。六五三年記事には「倭京に遷りたい」との文言も見えるが、「倭京」は九州年号にあることから(六一八年)、「倭」とは筑紫、「京」とは太宰府をさすと考えられる。従って、「常色の君」は六四九年に全国的に「評制」を施行し、その統治のため難波宮を造営したのち、対唐・新羅の防衛を固めるため、再び筑紫に「戻った」ことになろう。

 これを証するように、『書紀』斉明二年(六五六)には、狂心の渠を穿ち、田身嶺に「周れる垣」を冠し、山に石垣を築くといった大工事が行われ、吉野宮を造った記事がある。古田氏はこれらは九州王朝の天子の事績とされており、「常色の君」は筑紫帰還後にこうした防衛施設の整備に全力を注いだことになる。そして筑紫には神籠石群はもちろん、大野城や水城、長大な土塁等の、太宰府を防衛する大規模な施設群が残っている(註17)。これらは天皇家の「斉明」でなく「常色の君」の事績だったのだ。
 従って、『書紀』編者は、斉明紀では「常色の君」を「伊勢王」ではなく、「斉明」と書いたのだ。
 考えてみれば、「常色の君」が伊勢王と称された時代は、東国・難波に行幸し、難波宮を造り、改元行事をおこなうなど、近畿天皇家にとっても「身近な存在」で、「現認者」や記録も多かったはず。従って「常色の君」を「無かった」ことには出来ないため、「伊勢王」という呼称を使い、近畿天皇家配下の「諸王」だと潤色した。
 そして、「常色の君」が九州に帰ってからは、彼の事績である「対唐・新羅戦に備えた大工事」を、近畿天皇家の事績にするため、彼を「斉明天皇」と入れ替えたのだと考えられる。さらに、古田氏が明らかにされたとおり、「常色の君の佐賀なる吉野行幸」を三十四年繰り下げ、「持統天皇の大和吉野への行幸」にすり替えた、つまり持統と入れ替えたのだ。(註18)

 

2、「常色の君」は「孝徳・斉明・天武・持統」に入れ替えられた

 結局、「佐賀なる吉野へ行幸した九州王朝の天子」とは、九州王朝の「常色の君」であり、彼の諱や字は不詳だが、近畿天皇家からは(あるいは一般にも)通称「伊勢王」と呼ばれていた。そして、その偉大な事績のうち、
Ⅰ飛鳥浄御原宮律令制定などは、三十四年繰り下げられ「天武の事績」に、

Ⅱ難波宮建設・白雉改元などは「孝徳の事績」に、

Ⅲ六五五年九州に帰ってからの吉野宮の造営や対唐・新羅戦に備えた大規模事業などは、「斉明の事績」に、

Ⅳ吉野行幸は「持統の事績」に、

 というように、各々の天皇の事績に分割され、置き換えられたと考えられるのだ。

 最後になるが、伊勢王は六六一年に薨去し、この年に九州年号は「白鳳」に改元されている。これは九州王朝の天子「常色の君」の崩御と、新天子の即位を意味するものだ。その「新天子」は「常色の君」が控えていた唐・新羅との直接対決に乗り出し、白村江で大敗。その後、九州王朝は斜陽の道をたどり、七〇一年には近畿天皇家(大和朝廷)にとってかわられる。
 そして、大和朝廷の編纂した『書紀』によって、九州王朝の偉大な天子「常色の君」は、近畿天皇家配下の「諸王伊勢王」として薨ったことにされ、その業績も、九州王朝の存在もろとも「無かったこと」にされてしまったのだ。

(註12)一九九六年に芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した木簡で、「元壬子年」との墨書がある。出土土器から、この「壬子」は六五二年で、これは九州年号白雉元年にあたる。

(註13)例えば天武十二年記事では、本来の九州王朝の史書に「伊勢王、遣~」とあったところ、「遣」の位置を変え、近畿天皇家の位階を付せるだけで、簡単に「遣諸王五位伊勢王」となり、「孝徳が伊勢王を派遣した」ように見せられる。
 また白雉元年記事では、内裏前殿に入って玉座の前まで、白雉の輿の「後頭」を伊勢王・三国公麻呂・倉臣小屎の三人で担いでいる。「前頭」を左右大臣の二人で担ぎ、前殿以前も計四人、前後を二人ずつで担いでいる。「後頭」を三人で担ぐのは不自然で、伊勢王は『書紀』編者により付け加えられ、孝徳の臣下として参加したように潤色されたと考えられよう。

(註14)「高市皇子・伊勢王」と書き替えられたのは孝徳や中大兄だった可能性もある。地理的に見て難波宮造営に最も貢献したのは近畿天皇家だったと考えられるからだ。

(註15)「神武東征」でも九州から浪速に向かうのに「猶東へ行かんと思ふ」(『古事記』)とある。

(註16)詳細は拙論「伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点」(古田史学会報八六号、二〇〇八年六月)を参照されたい。

(註17)大野城出土の木柱の伐採年がX線CT撮影により六五〇年だと判明し、築造工事は六五〇年代であることが確実視されている。これで、『書紀』六五六年の田身嶺に周れる垣を冠したという記事と、大野城の築造年代や形状が整合することとなった。

(註18)但し、佐賀なる吉野行幸は、白村江敗戦直前まで、次代の九州王朝の天子によって続けられ、『書紀』持統紀では、彼もまた持統と入れ替えられたことになる。


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