井上信正さんへの三つの質問 古賀達也(会報142号)
井上信正氏講演 『大宰府都城について』をお聞きして
服部静尚正木 裕
二〇一七年六月十八日大阪府立労働センター五階で、古田史学の会主催の井上氏講演が聴衆六十二名の中開催されました。太宰府市の教育委員会で、大宰府条坊を中心に地道に発掘調査・分析を行われている井上氏の、興味深い、最新の成果報告をお聞きすることができました。
氏は、水城・大野城・基肄城を結ぶラインを大宰府の羅城と位置づけ、百済王都扶余・泗沘城になぞらえて、大野城に山城を利用した王宮があったのではないかと新説を唱えられ、これらは大宰府政庁・条坊に先行すると述べられた。更にその詳細な分析によって、大宰府条坊が大宰府政庁に先行すると自説を展開されました。
ただしその編年については、いずれも六六四年以降のものと言う従来説を述べられました。この部分は流石に参加者からの質疑が集中しました。
氏は「蓋然性(確からしさ)」より、このようにまとめざるを得ないとの見解でしたが、現役の学芸員としては周辺からの大きな圧力があるのだろうと、(私見)推測するところです。
特に、興味深かったのは大野城で出土したきれいな素弁蓮華紋軒丸瓦です。(以下私見)石田茂作氏他の考古学者は、この百済の影響を受けた瓦が五九〇年代建立の飛鳥寺の創建瓦等に見られることより、六世紀末から七世紀初頭と編年の基準としている瓦です(外縁が幅広の法起寺・法輪寺で見られる素弁瓦としても六五〇年前後)。西川寿勝氏によると、これを考古学者は「王家の紋章」と呼んでいるそうです。そして、その大野城より後でできたとされる大宰府政庁Ⅰが、瓦葺きでなくて掘立柱建築なのですから、建築史の時代が逆転しているわけです。私どもには、これらを白村江以前の遺跡と見る方に「蓋然性」があると思えるのですが、そのように言外に示唆する講演でした。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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