よみがえる倭京(太宰府)─観世音寺と水城の証言(会報50号)
「倭京」の多元的考察 古賀達也(会報138号)
前畑土塁と水城の編年研究概況 (会報140号)
太宰府編年への田村圓澄さんの慧眼
京都市 古賀達也
はじめに
村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の具体例として、太宰府編年における実証と論証というテーマで説明したいと思います。
従来、大宰府政庁の編年はⅠ期の堀立柱の小規模建物が天智期、Ⅱ期の朝堂院様式の礎石造りの政庁と条坊都市が八世紀初頭の大宝律令下の「大宰府」とされてきました。その根拠は出土土器等の飛鳥編年に基づいたものです。飛鳥編年とは畿内の出土土器や遺構(考古学的出土事実=実証)を『日本書紀』の記事(史料根拠=実証)の暦年にリンクさせて成立した土器編年です。これは現代の考古学編年における「不動の通念」とされているものです。この「実証」に基づいた飛鳥編年に準拠して、太宰府出土土器等(考古学的事実=実証)が編年され、先の大宰府政庁編年が成立しているのです。これらの「実証」からは、「太宰府は九州王朝の都」という古田説が成立不可能であることをご理解いただけるでしょう。
田村圓澄さんの疑問
このような「実証主義」に基づいた太宰府編年に根源的な疑問を呈した碩学がおられました。九州歴史学の重鎮、田村圓澄さん(一九一七 ― 二〇一三)です。田村さんは太宰府編年に対して率直に次のような根源的疑問を呈されていました。
「仮定であるが、大宝令の施行にあわせ、現在地に初めて大宰府を建造したとするならば、このとき(大宰府政庁Ⅰ期の天智期=古賀注)水城や大野城などの軍事施設を、今みるような規模で建造する必要があったか否かについては、疑問とすべきであろう。」(田村圓澄「東アジア世界との接点─筑紫」、『古代を考える大宰府』所収。吉川弘文館、昭和六二年刊。)
大宰府政庁Ⅰ期の小規模な堀立柱建物を防衛するために大規模な防衛施設である水城や大野城(『日本書紀』によれば天智期の造営=実証)が必要であったとは思えないという、きわめて理性的な疑問を呈されたのです。歴史学者の慧眼というべきでしょう。しかし、田村さんはこの疑問を解明すべく、新たな論証へは進まれなかったようです。大和朝廷一元史観の限界を田村さんでも越えられなかったのです。
九州王朝説による論理展開
この疑問に対して、九州王朝説に立てば次のような論理展開が可能となります。
1.『日本書紀』の記述を「是」とすれば、天智期に水城や大野城など国内最大規模の防衛施設が造営されたこととなり、それにふさわしい防衛すべき宮殿や重要施設が既に当地にあったと考えざるを得ない。
2.それほどの宮殿には当地を代表する権力者がいたと考えるべきである。
3.『日本書紀』にはそうした筑紫の権力者の存在が記されていない。従って、大和朝廷側の権力者ではない。
4.そうした筑紫の権力者の存在は、古田武彦氏が提唱した九州王朝しかない。
5.従って、太宰府には日本列島最大規模の巨大防衛施設で守るべき九州王朝の王都があったこととなる。
6.その時期(七世紀後半頃)の宮殿遺構は通説の大宰府政庁編年では存在しない。
7.従って、通説の太宰府編年は間違っている可能性が高い。
このように論理展開でき、この「論証」は従来の「実証」と対立するのですが、「学問は実証よりも論証を重んじる」という立場に立てば、この論証結果に従わざるを得ません。「論理の導くところへ行こう。たとえそれがいずこに至ろうとも。」です。こうして「太宰府は九州王朝の都」という仮説へと論証は進むのですが、もちろん「太宰府は九州王朝の都」などと記した「実証」などありません。わたしが古代史研究を進める上で、この論証と実証の関係性こそ古田史学を正しく理解し継承するためにどうしても避けて通れない課題でした。
ちなみに、この太宰府九州王朝王都説の論証を試みたのが拙稿「よみがえる倭京(太宰府)--観世音寺と水城の証言」です。「古田史学の会」HPに収録されていますのでご覧下さい。ただ、この論稿は二〇〇二年に発表したもので、現在の研究水準から見ると不十分かつ不正確です。しかし、初歩的ではありますが大宰府編年に対する疑問に真正面から挑戦したものであり、研究史的意義はあると思っています。
なお付言しますと、わたしの前期難波宮九州王朝副都説も基本的に同様の論理構造と学問の方法からなっています。この点については別の機会に改めて詳述します。
井上信正さんの新「実証」
従来の「実証」に基づいて成立した飛鳥編年により太宰府の土器や遺構(政庁・条坊など)は編年されていました。例えば政庁Ⅱ期や条坊都市は八世紀初頭以降の造営とされてきました。大和朝廷の大宝律令下の地方組織「大宰府」に相当するとされてきたわけです。
それら旧「実証」に代えて、更に精密な調査に基づく新「実証」により太宰府編年の修正をもたらした画期的な研究が井上信正さん(太宰府市教育委員会)によりなされたことは、これまで繰り返し説明してきたところです。井上さんが発見された新「実証」とは、太宰府条坊都市の北側にある大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺と南側に広がる条坊とは異なる尺単位で設計されており、政庁や観世音寺よりも条坊都市の成立の方が早いということを考古学的調査により明らかにされたことです。素晴らしい発見と言わざるを得ません。
この発見により、井上さんは大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺の成立を従来通り八世紀初頭、条坊都市は藤原京と同時期がやや早い七世紀末頃とされました。その結果、太宰府は大和朝廷の都である藤原京と同時期に造営された日本最古の条坊都市となったのです。その後、前期難波宮の時代に条坊都市難波京造営の可能性が高まってきており、正確には太宰府は国内二番目の条坊都市となります。
井上「実証」と田村「疑問」
しかし、この井上さんによる新「実証」とそれに基づく修正太宰府編年も、実は田村さんの疑問に対して答えることができません。
井上さんの新「実証」による修正太宰府編年によっても、太宰府条坊都市の成立が八世紀初頭から七世紀末頃になっただけであり、田村さんが疑問とされたように、やはり天智期(六六〇~六七〇年頃)に水城や大野城で護るにふさわしい宮殿や都市は太宰府には存在しないことになるのです。しかも、昨年には筑紫野市から羅城跡と思われる大規模土塁が発見されたことにより、太宰府条坊都市の成立に対して、現地の考古学者は飛鳥編年による従来説ではますます説明困難となっているのです。
やはり九州王朝説に基づく「論証」を優先させ、これまでの「実証」やそれに基づく太宰府編年を根底から見直す必要があるのです。まさに「論証」の出番です。これこそ「学問は実証よりも論証を重んずる」ということに他なりません。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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