2017年 4月10日

古田史学会報

139号

1,倭国(九州)年号建元を考える 
 西村秀己

2,太宰府編年への
 田村圓澄さんの慧眼
 古賀達也

3,「東山道十五国」の比定
西村論文「五畿七道の謎」の例証
 山田春廣

4,「多利思北孤」 について
 岡下英男

5,書評 倭人とはなにか
漢字から読み解く日本人の源流
 竹村順弘

6,金印と志賀海神社の占い
 古賀達也

7, 『大知識人 坂口安吾』大北恭宏
 (『飛行船』二〇一六年冬。
 第二〇号より抜粋)

8,文字伝来
 服部静尚

9,「壹」から始める古田史学Ⅹ
 倭国通史私案⑤
 九州王朝の九州平定
 ―糸島から肥前平定譚
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

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 古田史学の会四国の白石京子さんが、文芸誌『飛行船』に、坂口安吾と古田武彦氏について触れた短編を見出され、合田洋一さんからコピーが送られてきました。一読すると、古田説に共鳴し、安吾の歴史観との関係について述べるという、従来にない観点ですので、著者の了解を得て、その部分を抜粋し会員各位に紹介するものです。(事務局長 正木裕)

『大知識人 坂口安吾』大北恭宏

(『飛行船』二〇一六年冬。第二〇号より抜粋)

(前半略)
「恭宏。邪馬台国は、やっぱり九州だな。」
 突然、父が、私に言った。父が亡くなる少し前のことだ。私の父は、長年、塗装業を営んできた。仕事柄、シンナーを扱う。そのため、父は、「進行性球麻痺」という難病に罹り、五十三歳の若さで、死んでしまった。今から、約三十年前のことだ。
 私は、若い頃から、日本の古代を勉強してきた。小学校の教師をしていたので、当たり前と言えば、当たり前なのだが、個人的にも、日本の古代に、大いに関心がある。
 私も、邪馬台国は、九州(特に、福岡あたり)だと思っていた。
 安吾は、日本の古代についても、すばらしい見識を持っていた。例えば

「現天皇家が本当に確立の緒についたとみられる天武持統の両ご夫妻帝(以下略)」『坂口安吾全集 18』「飛騨・高山の抹殺」(ちくま文庫)
「だいたい日本神話と上代の天皇紀は、仏教の渡来まで、否、天智天皇までは古代説話とでも云うべく、その系譜の作者側に有利のように諸国の伝説や各地の土豪の歴史系譜などをとりいれて自家の一族化したものだ。だから全国の豪族はみんな神々となって天皇家やその祖神の一族親類帰投者功臣となっている。そして各国のあらゆる豪族と伝説と郷土史がみんな巧妙にアンバイされて神話(天智までの天皇紀も含めて)にとりいれられていると見てよろしい。しかし。神話だから、そのとりいれの方法が正確ではないし、所詮はボーバクたる神話なのだから、似ているがハッキリとそれがオレの国の誰それ様だとも言いかねるものが多いのです。」(前掲書)。
「古代史家が隠しても隠しきれなかったのは何かというと、まず第一に古代の交通路です。たとえば日本武尊の東征の交通路などを見ると分かりますが、上野ノ国からウスイ峠を越えて信濃へはいってヒダへ出たのは木曾御岳と乗鞍の中間の野麦峠のようだ。この峠のヒダ側は小坂の町です。」(前掲書)

 このように安吾は、日本の古代史にも、すばらしい見識を持っていた。私も、若い頃から、日本の古代史に、興味を持ち、勉強してきた。「日本の歴史」の中でも、古代史が、一番好きだ。また、私の母は、私に、何度も質問した。
「恭宏。神武天皇は、本当にいたの?金の鵄とびも、本当にいたの?」

 皆さんは、この質問に、どのように答えますか。
 私は、母に、次のように答えた。
「神武天皇に当たる人物は、現実に存在した。ただし、その人物の名前は、神武天皇ではない。」
 確かに、『古事記』には、神武天皇の名前を、「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)」と書いてある。また、『日本書紀』には、「神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコノスメラミコト)」と書いてある。しかし、私が注目したのは、『東日流外三郡誌』「寛政原本」の中に書いてある「左怒さぬ」や、「天孫日向ひなた王 左怒」という人名だ。この人名が、神武天皇のことだ。ここで、登場していただく先生がいる。古田武彦先生だ。古田先生は、日本の古代史の大学者だ。私は、今も、古田先生の本を、貪るように読み続けている。また、私は、日本の国家の成立を、二段階で、考えている。第一段は、旧日本国家の成立で、「出雲王朝」や、「九州王朝」などが、それだ。また、第二段が、新日本国家の成立で、近畿天皇家である。私の「二段階日本国家成立論」のもとになった考えが、古田先生の「九州王朝」という考えだ。詳しくは、古田武彦著『失われた九州王朝―天皇家以前の古代史』(ミネルヴァ書房)を、読んで下さい。
 前に、安吾が、「古代の交通路」に注目するようにと書いてある。この見識のすごさは、「神武天皇の東進」にも、応用できることである。神武は、九州を出発して、奈良へ入った。これを、「神武東進」(または、「神武東行」、「神武東征」、「神武東侵」)という。この「神武東進」の時期は、弥生時代中期末(西暦の紀元元年頃)。そして、神武の船団は、「楯津たてつ」という所に、入っていった。この「楯津」という場所は、現在の大阪府と、奈良県の県境の近くである。とても船で、入っていける場所ではない。ところが、古代の地形図が、その謎を解いた。「河内湾」が、現在の「大阪湾」から、さらに、東に、大きく入り込んでいたのだ。そして、その「河内湾」の辺ほとりが、「楯津」なのだ。
 また、安吾は、前に、「全国の豪族はみんな神々となって天皇家やその祖神の一族親類帰投者功臣となっている。」と書いている。皆さんは、継体天皇を御存知ですか。継体天皇は、実は、北陸(福井)の豪族で、二十年掛かって、やっとの思いで、大和入りを果たした。五二六年のことだ。このことに関しては、古田武彦著『古田武彦の古代史百問百答』(ミネルヴァ書房)を、読んでください。そして、このことに関する傍証が現れた。山尾幸久著『古代の近江』(サンライズ出版)の中で、「継体天皇の父親が、福井から、「振姫」という女性を迎え、継体が生まれた。」と書いてある。
 しかし、分からないのは、安吾が書いている「飛騨の両面宿儺りょうめんすくな」だ。今年の春、私は、妹と一緒に、飛騨の国を、旅行した。飛騨高山や、飛騨古川を訪れた。改めて、飛騨の国の山の深さに感動した。宿泊した飛騨古川では、冬に、約三メートルの雪が積もるそうだ。それにしても、「両面宿儺」の情報はなかった。安吾の「飛騨の秘密」から、引用する。
「日本書紀の仁徳天皇六十五年の条に、
『ヒダの国に宿儺(スクナ。以後カナで書きます)という者がおって、躰からだは一ツだが、面かおは両ふたツあって各々後向きについている。この後の説明の句がむつかしいナ。頂いただき合いて、項うなじなし。どういう様相に相成ってるのか。読者御自身ご判断下されたし。各々手足在り。つまりどっちの面も各々手足をもってるというのでしょう。また、膝ありて膕踵(ヨロボクボ。クビスのことらしいナ。どこのことやら。実際の様相の判断がつけにくいよ)そのヨロボクボがない、とある。膝があって、クビスがない。とは、これいかに。要するにスクナという怪人物は躰一ツに両面あって、手足四本。ヒダの人々は現実にこう解釈して、スクナの像はそうできてます。このスクナは力多くして早業があり、左右に剣をぶらさげ、四ツの手で二ツの弓を使う。皇命にしたがわず、人民をさらッて楽しみとなす。そこで、和珥臣の祖、難波根子武振熊をつかわして殺させた』
とあります。」

 私は、それでも、「飛騨の両面宿儺」がよく分からなかった。尾関章著『両面の鬼神 飛騨の宿儺伝承の謎』(勉誠出版)を読んでも、疑問は募るばかり。これから、しっかり考えていこうと思う。(以下略)


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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