2017年 4月10日

古田史学会報

139号

1,倭国(九州)年号建元を考える 
 西村秀己

2,太宰府編年への
 田村圓澄さんの慧眼
 古賀達也

3,「東山道十五国」の比定
西村論文「五畿七道の謎」の例証
 山田春廣

4,「多利思北孤」 について
 岡下英男

5,書評 倭人とはなにか
漢字から読み解く日本人の源流
 竹村順弘

6,金印と志賀海神社の占い
 古賀達也

7, 『大知識人 坂口安吾』大北恭宏
 (『飛行船』二〇一六年冬。
 第二〇号より抜粋)

8,文字伝来
 服部静尚

9,「壹」から始める古田史学Ⅹ
 倭国通史私案⑤
 九州王朝の九州平定
 ―糸島から肥前平定譚
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

古田史学会報一覧

諱いみなと字あざなと九州王朝説 服部静尚 (会報138号)
高麗尺やめませんか  服部静尚 (会報140号)


文字伝来

八尾市 服部静尚

一、はじめに

我国に文字が伝来したのはいつかということについて、大島正一氏は『漢字伝来』(二〇〇六年岩波新書)で、「西暦一世紀頃には漢字は日本列島に伝えられた。しかし、文字の伝来とそれを用いることとは次元がまったく違う。文字を用いるということは、ある高さまで進んだ文化水準を背景として初めて実現する営みである。(中略)文字とは意味と音の結合体である言語を書き表すための記号である。その記号としての漢字の知識と理解がひろく日本にもたらされたのは、どんなに早く見ても四世紀のことと思われる。」とされます。
一方、二〇〇九年四月に放映されたNHKの番組で、山尾幸久氏が「日本には文字がなかった。百済から文字が伝わった。仏教により文字が伝わった。」と五世紀になって伝わったとされたと、古田武彦氏が『古代に真実を求めて第十三集』に書かれています。そしてこれに対して古田先生は「三世紀の魏志倭人伝に倭国では音訓両方を使っている事実からは決定的におかしい。」と反論されています。 これらの個々の事実関係は別にしても、何をもって文字伝来とするのかの定義によっては、どうとでも言えるように思います。新(八~二三年)の王莽が造った「貨泉」と書かれた貨幣が弥生時代の遺跡で出土していますし、「漢委奴國王」と刻まれた金印が出土しているのですから、少なくとも一世紀には物理的に漢字は我国に伝来しています。ところが大島氏の言われるように漢字の知識と理解がひろまった時期を漢字伝来時期と定義するとこれは難しい。現代においても例えばエチオピアや南スーダン、マリの識字率は三〇%に満たないそうです。これをもって文字の知識と理解がひろまっているかと聞かれると返事に困る、そのような曖昧な定義です。
そこで、この定義を具体的なものにして文字伝来時期を考察したいと思います。

二、文字伝来の定義

その伝来時期を検証するための具体的で実証可能な定義として次を提案します。
(ア)文字(ここでは漢字)を記した物が伝来した。
(イ)この文字を使って人の名・地の名・日常品の名などを、自ら命名して使った。
(ウ)対外文書以外に、国内においても、その自ら命名した名を使った。

(ア)は当たり前の条件ですが、(イ)と(ウ)を併せた条件すべてを満足すれば、大島氏の言う「記号としての漢字の知識と理解がひろく日本にもたらされた。」と言えるのではないでしょうか。

三、新しい定義による文字伝来時期

(一)先ず、貨泉や金印は(ア)の証拠となります。次に、三国志魏志倭人伝中の「魏の明帝の詔書」や俾弥呼・壱与の上表文、そして宋書倭国伝の倭王武の上表文などは、(ウ)の証拠とはなりません。

(二)古田先生は、三国志の魏志倭人伝に出現する俾弥呼の使者の名「難升米」、次使の名「都市牛利」をあげています。(以下『なかった―真実の歴史学』第六号「北朝認識と南朝認識」より引用します)

◆後者は従来、多くの論者が「としごり」といった形で読んできたが、もし「といち」と読むのであれば事態は“一変”する。「都市」を「といち」と訓むとしたら、これは「音訓併用」だ。中国側の表記などではありえない。したがって、「三世紀」当時の倭国では、すでに「音訓併用」の段階まで、「文字文明」は進展していたこととなろう。『「邪馬台国」はなかった』では、「倭人伝中の固有名詞表記」は“中国側の表記”という立場だったけれど、倉田卓次氏(当時、佐賀高等裁判所長)の御批判(書簡)によって、わたしは自説の「非」を肯定した(“中国側が、あの小さな島、壱岐を「一大国」などと表記するはずがない”との論旨だった)。

要するに、倭国では人の名・国の名を自ら命名していたとされているのです。三世紀の倭国では(イ)(ウ)の条件をクリアしていたことになります。

 (三)古田先生があげられた「自ら命名の人名・国名」仮説の証明は難しいのですが、もう少し判り易い事例が同じ魏志倭人伝にあります。倭国各国の官位名です。これらには共通の官名もありますが、各国毎に異なる官名が見られることや、中国の古典を検索しても魏志倭人伝以外に同じ官名は出てこないことから、中国側から授けた官位官名ではない。邪馬壹国もしくは倭国の各国で独自に授けたものと考えられます。

◆對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。~至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。~到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。~東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。~東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、~南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利~邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮~

 各国の官位名の内、「卑狗」「卑奴母離」「爾支」「多模」「彌彌」「彌彌那利」「伊支馬」「彌馬升」「奴佳鞮」については、中国で使われていた官名で無いこと、文字はともかくその読みは倭国内で使われていた官名であることに異論はないと思います。そうすると、これらは倭国内での官名を聞いて、これに魏使が適当な漢字を当てた、もしくは倭国内で独自に官名の読みと漢字を定めていてこれを魏使に伝えた、のどちらかとなります。
次に「泄謨觚」「柄渠觚」「兕馬觚」ですが、正木裕氏は『邪馬壹国の歴史学』(二〇一六年ミネルヴァ書房)に掲載の「『魏志倭人伝』伊都国・奴国の官名の起源」で、次のように解明されました。

◆この泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚という官名では、例えば、泄謨觚の「泄」は「せち(呉音)・せつ(漢音)」で、柄渠觚の「柄」は「ひょう・へい」、「渠」は「ご・きょ」で一音ではない。他の官名から見て、「音の充て方」として非常に特殊だ。また、『倭人伝』では、「こ・く」には卑狗、狗古智卑狗のように「狗」の字を使っている。なぜ両国の官名にだけ「觚」の字が充てられているのか疑問だった。しかし、これが「爵と觚の儀礼」に由来すると考えれば十分理解できるようになるのだ。~「泄謨觚」とはその字義から、「蜃に似た大きな開いた口を持ち、酒が緩やかに外に漏れ流れ出る觚(コップ)」~「柄渠觚」というのは、「觚」の種類の内でも特別な、「北斗七星を象った、柄の頭にある溝(盃)で酒を汲む、柄付きの觚(コップ)」の意味~「兕馬觚」は、読んで字のごとく「兕馬の形をした觚(コップ)」或は「兕(*一角獣)に似た馬の觚(コップ)」~「觚」を用いた官名は、『倭人伝』時代、東夷の邪馬壹国に、周代の青銅の祭器由来の「礼(俎豆之象)」が存在したことを示すものといえよう。

 この三つの官名も中国内に見られない官名です。しかも正木氏の指摘のように、その官名に使われている漢字がその官名の由来を示唆するものなのです。
もしこの時点の倭国で漢字を使っていなかったとしましょう。そうであれば、殷周時代盛んに儀式で用いられていた(周および春秋戦国時代の後、中国を統一した秦は、周の制度を徹底的に否定したため、これら礼器の製作は終わり、青銅で作られる器物は燭台・香炉といった日常生活用品が主体となります)これら青銅器の名称=読みが倭国に伝わっていて、その青銅器の名称の読みから倭国はこれが官名に相応しいものと理解して、その名称を独自に(漢字でなく読みだけで)自国の官名に用いていて、これを魏使が聞き取って中国本来の漢字を当てはめたということになります。可能性としてゼロとは言いませんが、そのようなことが実際にあってこれを魏使が確認したとすれば、驚いてあるいは感銘して間違いなく倭人伝にその旨を特記したでしょう。しかし特記はされていません。つまり漢字官名が倭国内で独自に使われていたことになります。

(四)以上から、漢字とセットでないと読みでは意味を解せない官名が倭国内で独自に使われていて、それらは邪馬壹国の女王卑弥呼もしくは伊都国王・奴国王によって任命されている、そのような状況が倭人伝の記事から判明するのです。明白に三世紀の倭国では先の定義の(イ)(ウ)条件が成立していると言えます。
 つまり、新しく提案した定義で言うと、少なくとも三世紀の倭国に文字(漢字)が伝来していたとなります。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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