「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」について(1) (2の上) (2の下) 林伸禧
よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1) (その2) (その3)正木裕
倭国年号の史料批判・展開方法について
神戸市 谷本茂
【はじめに】
本会において『「九州年号」の研究』(二〇一二年刊)、『失われた倭国年号(大和朝廷以前)』 (古田史学論集第二十集 二〇一七年刊)が上梓され、倭国年号(古代逸年号)の研究が積み重ねられ史論として発展していることは同慶の至りです。
新たな史料も発見され倭国年号の本来形や関連紀年記事に検討が及んで、多元史観を基礎とする新しい視点が次々と導入されてきており、大いに知的刺激を受けています。
そうした中で、本会の重鎮である正木裕氏の「近江朝年号」論、古賀達也氏の「七〇一年以 後の倭国年号」論が提起され議論されてきましたが、両氏の議論の方法に違和感を持ちましたので、率直に本稿で指摘させて戴き、史料批判の基本姿勢について疑問を述べたいと思います。
【中元/果安は古代逸年号か?】
江戸期より前の文献に見られない中元/果安の年号を近江朝と関連する古代逸年号とみなす試論が正木氏により展開され、古賀氏が高く評価しておられますが、そもそも、中元/果安は『二中歴』等に記載されている様な古代逸年号と同格に扱える史料なのか?この大きな疑問に正木氏は史料批判の眼を向けられず、いきなり『襲国偽僭考』『和漢年契』等から年号の検討を始めておられます。
しかし、江戸期の文献から出現する年号については、それ以前の古代の逸年号群とは別のものであり、江戸期の学者の解釈や誤解に基づく可能性が大きく、より慎重に考察しなければならないことは、既に、久保常晴氏(『日本私年号の研究』一九六七年刊)や丸山晋司氏( 『古代逸年号の謎』一九九二年刊)により指摘されています。私もこれら先学の意見に賛成です。
貝原益軒『続和漢名数』(一六九五年刊)の「日本偽年号」の項目には、中元/果安は有りません。
藤井貞幹『衝口発』(一七八一年刊)の「年号」の項目に、「○天智帝 中元(四年○戊辰為元年 一為六年 然則六年壬申可係大友天皇)○天武帝 白鳳‐年 果安‐年 朱雀‐年」 と初めて現れます。中元は天智天皇の治世で四年あるいは六年、果安は天武天皇の治世で継続年数不明なのです。
高昶『和漢年契』(一七九七年刊)の凡例(一七八九年識)においては、「○(天智帝之時)中元(四年終 ○按戊辰為元年)、○(天武帝之時)果安(○按不審年数)」とあり『衝口発』に基づく記述と思われます。次に、藤井貞幹『逸号年表』(一七九八年刊) には『古代年号』という文献からの引用として、天智帝即位元年(戊辰)[六六八年/『紀』天智天皇七年に当たる]から中元 元、二、三、四とし、天武帝朱鳥元年(丙戌)[六八六年] 果安元年、持統帝 元、二、三をそれぞれ果安 二、三、四としています。『衝口発』や『和漢年契』では不明だった果安の継続年数が四年とされた初見かと思います。
以後、19世紀に入ってからの文献では、これ以上の情報は増えず、中山信名『増補逸号年表』(明治十二年[一八七九年]写し)においても、文献数は増補されているものの、中元/果安についての情報は『逸号年表』元のままです。藤井貞幹が依拠した史料とされる『古代年号』がその存在も含めて全く不詳である現状からして、中元/果安を一六世紀以前に存在した古代逸年号とみなす立場は相当に脆弱です。
中元/果安が江戸期の学者による古文献の解釈または誤解から生じた可能性が高いと思われるのは、以下のような例があるからです。
『逸号年表』の『古代年号』引用として、孝霊帝の時代に「列滴」が記載されていますが 、これは山口幸充『嘉良喜(カラキ)随筆』(一七五〇年頃執筆/日本随筆大成第一期第二一巻)の 第五巻の自注に、「幸充云 孝徳帝大化以前(善紀以下)年号アリ、後人ノ附会成ベシ。又 富士往来ノ烈擲五年モ、杜撰好者ノ者ノ所為ナルベシ」という指摘が既にあります。久保 常晴氏は『詞林菜葉抄』引用の『富士縁起』に見える「天竺列擲三年我朝飛来・・・」の「列擲三年」を年号と誤読し、その後『富士往来(富士野往来)』に「烈擲五年」の表記が現れた経緯を詳しく推測しておられます。『富士野往来』は一六五二年頃に上梓されその後ベストセラーとなった書物で、江戸中期以降の学者には良く知られていたようです。
「果安」は『愚管抄』(一三世紀前半成立)巻第一に引用する「皇帝年代記」天武天皇の条に、「大納言蘇我果安(元年八月坐事被誅・・・)」とある割注[( )で示した部分・一行書き]を本文に続けて「果安元年」と解釈し年号と誤解した可能性が濃厚です。元々「果安」は人名ということになります。
天智天皇の治世を即位年[六六八年]から数える方法は『藤氏家伝』(八世紀中葉成立)や『興福寺縁起』(九世紀末成立)など比較的古い文献に見られるものであり、天智天皇の即位と同期する「中元」は、この年数の数え方を肯定して、年号と見立てたものと推測できます。
また、中元/果安は一六世紀までの文献に「年号群の一部分」としての記載が無く、実際の古文書において使われた形跡も今まで見出されていません。やはり中元/果安は、江戸期の学者により「仮創された」年号とみなすのが妥当ではないでしょうか。少なくとも史料的に非常に脆弱な中元/果安は所謂「古代逸年号」から切り離して別途検討する慎重な姿勢が必要です。
中元/果安が年号として使われていたことを前提にした「近江朝年号」論は、仮定を重層することになり、仮説としての措定自体が難しいと思われます。また、史料根拠の薄弱な「中元/果安」を古代年号として強引に仮説に組み入れることは、倭国年号の検討・展開において、本来の「古代逸年号」に対する一般の読者や研究者の疑念を増幅する逆効果になりはしないか懸念します。
【七〇一年以後の倭国年号】
一般論として、七〇一年以後の倭国年号(古代逸年号)の存在(残存)を想定することは仮説措定として充分ありえることであり、その視点からの年号史料の見直し・再検討は重要な課題であることは認めます。しかし、古賀氏の提唱する、大化年号九年継続(六九五年~七〇三年)大長年号少なくとも九年継続(七〇四年~七一二年~?)という復原試案には少なくない疑問が湧いてきます。
まず、古賀氏は『運歩色葉集』京都大学蔵元亀二年(一五七一年)写本の「柿本人丸」の項目にある「大大長四年丁未」から「大長四年丁未」を抽出し、丁未年は七〇七年[『続紀』元明天 皇慶雲四年]と考えられ、『伊予三島縁起』の大長年号と同期するので、大長年号が七〇一年以後に存在したことが明確になった、とされました。同じ箇所が天正十七年(一五八九年)写本に「大長四季丁未」とあるので、元亀二年写本の「大大長四年」は「大長四年」の誤写として問題はありません。
ところが、別系統の写本、静嘉堂文庫本『運歩色葉集』(原本成立一五四八年の直後に書写。 書写時期は元亀二年本より早いか同時期)においては、その部分が「大長四季丁亥」となっています。静嘉堂文庫本は流布本の祖本で、こちらの方が一般的には江戸期によく知られていました。この場合、丁亥年は六八七年と考えられますから、内容的にも持統天皇の治世(『紀』の紀年)と一致し、大長元年は六八四年(甲申)ということになります。『二中歴』 の朱雀元年に相当する年で、大長年号が仮に九年間継続したとしても六八四年~六九二年となり、七〇一年より前だと考えざるをえません。
古賀氏が「大長四年丁未」を本来の情報とされる場合には、「柿本人丸」項目の内容記載の持統天皇が元明天皇の間違いであると仮定するか、「大長四年」記事は持統天皇の問答とは関係が無く大宝元年記事の後に挿入されるべきもので、順序を違えて前の部分に記載されたという状況を仮定しなければなりません。いずれにしても、それらへの検証が無いまま論考が進められています。
次に『伊予三島縁起』の記述について検討します。『伊予三島縁起』(一四世紀後半成立)の 付属文書「系図」に「天武天皇御宇天長九年(壬子)六月一日」とあり、古賀氏は①「天長」は「大長」の誤写、②壬子年は七一二年と考えられる、③「天武天皇御宇」は「文武天皇御宇」の誤写ではないか、とされています。
①は、古賀氏自身の内閣文庫本の調査、あるいは大田南畝『百瀬川』の記述などから妥当と判断されます。
②「壬子」は割注(細字)ですので、「壬午」の誤写ではないかという想定が成り立ちます。仮にそうだとすれば、壬午年は六八二年と考えられます。
③「天武」は「文武」の誤写と想定しても、七一二年は元明天皇の治世ですから妥当しませ ん。ちなみに、六八二年であれば、まさに「天武天皇御宇」ですから、天皇名誤写説は必要ありません。要するに誤写説をとるのであれば、天皇名の誤写よりも干支の誤写の方が蓋然性は高いと考えられるということです。干支の誤写または誤解と考えれば、仮説を重層することなく、素直に本文を理解可能であるように思いますが、いかがでしょう。
仮に「壬子」が「壬午」の誤写と想定すれば、大長年号は六七四年~少なくとも九年間六八二年まで継続したことになりますが、『二中歴』では白鳳年号の真只中と云うことになります。あるいは誤写説をとるのであれば、「大長九年(壬子)六月一日」は「大長元年(壬午)六 月一日」であったとも考えられますが、この様な仮説重層を今は採らないことにします。
ちなみに、他の史料『八宗伝来集』『白山由来長瀧社寺記録』『杵築大社旧記御遷宮次第 』などに記載された大長年号は九年間継続したとしても七〇一年より前です。(丸山晋司氏の紹介史料による。『古代逸年号の謎』第Ⅱ章)
副次的な問題として、通常は『二中歴』に従って大化年号は六年間継続と理解されていますが、古賀氏の復原試案のように大化九年まで続いた史料は存在するでしょうか?
私が目にした史料では、『箕面寺秘密縁起』(一七世紀後半成立。原資料は一〇世紀前半までに成立か?『修験道史料集Ⅱ』所収)に、「持統*[異体字]天皇御宇、大化九季(乙未)二月十日、流遣伊豆國大嶋、行者[役行者]六十二也」とあります。乙未年は六九五年と考えられますが、その年が大化九年に当たるというのです。
ところで、この文書の冒頭に役行者の生誕年が「舒明天皇御宇、正徳六年(甲午)・・・十月 七日」と記載されており、この年は六三四年(甲午)と考えられます。『二中歴』には無く他の年号群史料に有る「聖徳六年」に相当しています。この誕生紀年が正しいとすると、役行者六二歳の年は六九五年(乙未)となり、干支「乙未」は正しいと思われます。
詳細は割愛しますが、他の多くの記載された逸年号から判断すると、結局、『箕面寺秘密縁起』のこの大化年号は『二中歴』と同じもの(六九五年~七〇〇年)と推測でき、「大化九季(乙未)二月十日」は「大化元季(乙未)二月十日」の誤写である蓋然性が高いといえます。
また、「大化九年」が正しいとしても、その記載干支自体は七〇一年より前の年号であることに変わりはなく、仮に『二中歴』大化年号が六年で終わらなかった記録の断片と見做すとしても、大化年号はたかだか七〇三年まで存在したという想定に留まり、七一〇年を超えての倭国年号の残存という仮説は現時点では検証されていないと思われます。
『二中歴』等の大化年号が六年で終わらずに七年以降も続いたのかどうか?一般的な可能性としては低くないと推測できますが、具体的な「大化七年~九年」の使用例が見出されていない現状では、七〇一年以後の「大化」年号についても、より慎重にならざるをえません。七〇一年~七〇三年の間の紀年は中国史書の記述からしても(通常は「記述の混乱」として処理されていますが)更に検討してゆく余地は残っているとは思います。(『愚管抄』にその手掛かりがあるかも知れないと秘かに考えています。)
以上、主として正木氏、古賀氏の新しい倭国年号論について、その史料の取り扱いにおいて気になる諸点を列挙しましたが、本会の内部で史料批判の方法を磨くための(自省を含めた)注意点を述べたつもりであり、他意はありません。会員諸兄の御批評が戴ければ幸いです。 (二〇一七年六月二四日最終稿了)
これは会報の公開です。『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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