住吉神社は一大率であった
奈良市 原 幸子
「難波宮」から見える近くの山々、遠くの山々全てが住吉神社の神領であると「住吉大社神代記」(以後「神代記』と略す)に記述されています。『神代記』は天平3年(731)撰、延暦8(789)年再書写で長く秘蔵されてきました。こういった事から「難波宮」が九州王朝のものなのか、近畿王朝のものなのかが解るのではと読み、考察した結果です。当時「一大率」と呼ばれていたかは不明ですが、当初想定していた近衛軍より、当会員の正木裕氏のご助言から、より適切と思い「一大率」としました。その場合の住吉神社は三大住吉と呼ばれる博多、下関、大阪の住吉神社です。そして結論としては九州王朝の一大率です。
何故住吉神社を「一大率」としたかの理由を下記に挙げていきますが、その前に「一大率」について書かれている『三国志』魏書東夷伝倭人条も載せておきます。
自女王以北 特置一大率檢察諸国 諸国畏憚之 常治伊都国 於國中有如刺史 王遣使詣京都 帯方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
①ほぼ同時期に創建された博多、下関、大阪の「三大住吉」は、いずれかから勧請されたのではなく、それぞれが独立した神社である。他の住吉神社はこの三社のいずれかから勧請して出来た神社。
②三社は緊密な関係にあり、機能は同じ。『神代記』に「三所大神 今謂墨江御峽大神。號稱住吉大明神也。」
と記され、「三大住吉」はそれぞれ独立してはいるが同じ存在である事を示している。また他の住吉神と区別して内部では「三所大神」と呼ばれていたのではないか。また「筑紫大神」ともよばれていたもよう。
③住吉神は他の神社の祭神と違って氏神ではない。従って「住吉神」を祖とする「住吉族」と称する一族は存在しない。『日本書紀』、『古事記』にも住吉神を祖とする氏族の記載は無く、「住吉大社」の神主さんも存在しない事を述べられている。
④住吉神社を祭祀する神主の系列も三社いずれも異なっている。
○博多の住吉神社〓佐伯氏(大伴氏と同族か)
○下関の住吉神社〓穴門直践立(凡河内氏と同族か)
○大阪の住吉大社〓津守氏(尾張氏と同族)
⑤住吉神は「現人神」であり、多数の子神を有している。つまりいつの時代においても住吉神と子神達は現役。神領の杣山で林業に従事し、難波や筑紫で治水工事、開拓・開墾工事、港湾工事、建設工事に従事していた。それらの工事は国家プロジェクトである。人々はそれを目にしていた。
⑥神功皇后の三韓征伐後の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)からの朝貢に携わっていた。
ここは『三国志』の中で「一大率」に書かれている通りの職掌。
⑦三種の神器の一つである「草薙剣」を一時所持していた。
天智天皇7年(668)、草薙剣を盗み逃亡していた新羅の沙門道行を捕らえたのが住吉神です。以後朱鳥元年(686)に尾張の熱田社へ草薙剣を送り返すまで住吉大社が所持いていた。
以上、上記の条件全て満たす存在とは誰なのか、もしくはどんな団体なのかの答えが出るのにはかなり時間がかかりましたが、現在そこから次々と見えて来るもの続き、見当はずれな考えではないと思っています。
なお、当会員である阿部周一氏のブログで倭王武の上表文に書かれている「虎賁」から、「倭の五王」時代、王権を支える「親衛隊」後の「兵衛府」・「虎賁衛」を推察されているのを知り、心強思いです。
「一大率」が九州王朝の軍団で、よって近畿は九州王朝の勢力下と住吉神社の「神領」から説明を例会ではしましたが、古代史料や遺跡を持ち出す必要なく、奈良を都とする大勢力の「大和朝廷」は存在しなかったといえる(ほぼ確信)と、つい最近分りましたので別稿で発表します。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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