隋書俀国伝「犬を跨ぐ」について
乙訓郡大山崎町 大原重雄
二〇一七年のある記事によると、犬の飼育数は八百九十二万匹で連続で減少し、猫が九百五十三万匹と逆転している。飼い主も高齢化し、飼うのが楽な猫に流れているようで、この傾向はまだつづくかもしれない。しかし家族の一員としての存在感はまだまだ犬の方が大きいであろう。そんな犬と人との古代からの関わりを考えてみます。
(1)「犬」なのか?「火」なのか?
隋書俀国伝に記された古代人の習俗の中に、嫁入りの際に「犬」を跨ぐとある。そのような風習があったのか考えにくいことなので、従来は民俗事例からして「火」の誤記と注釈や訂正がされてきています。はたして通説通りの「火」なのか、それとも古代の特異な民俗事例なのでしょうか。
石原道博編訳の岩波文庫の隋書俀国伝では、当時の人々の記述のなかで婚姻について、婦人は夫の家に入る際には必ず犬〔火〕を跨ぎ、夫と相まみえるとあり、「聖火による呪術の一様式」として、類する習俗は今も各地に現存すると解説しておられる。ここでは原文の「犬」が自明のことのように「火」と訂正がされている。
安易な原文改定をいさめる古田先生も、当初は「火」の誤記としておられたようだが、「古代史百問百答」において、「火」と考えると言われながら、忌避字の可能性を示唆され、その後、付記の武彦今言として、研究上の進展ありとされた。そして「一見意味不明の文のように間違えることはかえってありにくい」ゆえに「火」のあやまりではない、とされた。確かにうなずける指摘であります。さらに平成二十七年に、原文通り「犬」でもよいとされ、旧石器時代から犬と人間は共存してきたのであり、犬が新しい仲間と認めたという「儀式」の可能性を説かれた。さらにネット記事の「犬神」の引用や狗奴国に「狗」は犬の意味(子犬の意のようだ)で神聖な種族などと話されている。
隋書には、「犬を跨ぐ」の前に「必先」と記されており、この行為が一部のものではなく、広く当然のように行われていたように強調されています。はたして婚儀として花嫁が本当に犬を跨いでいたのか、民俗事例や犬と人間の歴史的関係などみていきます。
(2)火に関わる婚儀の民俗事例
民俗学事典には、①火をめぐる儀礼②水をめぐる儀礼③笠や鍋蓋をめぐる儀礼④草履をめぐる儀礼⑤その他の所作(花嫁の通る所に筵を敷く、など)が紹介されている。火をめぐっては、松明や篝火の燃えさしの上を跨ぐ婚姻儀礼が平安時代より各地にあったことが紹介されており、花嫁が婚家の炉のまわりを三回まわる。そして花嫁が婚家の炉に供養する。さらに花嫁が婚家に入るとき、あるいは入ってから火を跨ぐ。また昭和三十年代頃まで、類似の儀礼が各地で行われていたという記事もある。日本に限らず火にまつわる婚姻儀礼は外国にも多く見られるようです。
大林太良氏は魏志の「火を跨ぐ」と迷いなく論じておられる。また次のような最近の解説書もあります。「原文には犬を跨ぐとあるが、『北史』(六五九年)は火とするので、これにより改める。身体についた穢れを、火の燃焼作用によって払い浄めようという儀式である。」(松尾光 現代語訳魏志倭人伝)と決めつけておられます。
以上のような事例が多いことから、「火を跨ぐ」と原文改定されたのもあながち間違いとは言えなくもありません。ただ近世の民俗事例が弥生、古墳時代にあったものかどうか。さらにその儀式は、よく見れば、燃え盛る火を跨ぐのではなく、踏んでその火を消していることもあるようで、また東日本に多い事例のようですが、肝心の九州あたりではどうなのかは不明です。
(3)縄文期と犬の関係
ではその犬の可能性についてみてみます。サウジアラビアで八~九千年前の飼い犬の壁画が見つかったようですが、日本における人との関係の歴史もかなり古くからのようです。家畜化された犬が大陸より石器などといっしょに持ち込まれたと考えられています。もっとも古い犬の骨の出土は神奈川県の夏島貝塚の縄文早期九千年前で猟犬の可能性がある。他にも出土事例があり骨折や歯が欠けるとか外傷の痕跡多く、獲物の発見や追跡だけでなく捕獲にも献身的に関わっていたようです。
縄文後期の滋賀県平方遺跡では人と犬の足跡が見つかっており、住居内を犬が自由に動き回っていたと推測されます。現代でも室内で犬を飼う家庭は多く,縄文人も家族の一員として団らんのひと時を犬と一緒に過ごしていたのでしょう。犬の全身骨格の出土例は多数あり縄文人は大切に埋葬していたことがうかがわれます。他に土器や岩板、ベンガラなどといっしょの埋葬事例もあります。中には住居の炉を一度壊して犬用の土坑を掘り埋めた後、その上に新たな炉を構築し住み続けた事例(千葉県栗ヶ沢遺跡)があり、犬を住居の守り神にでもしたのでしょうか。さらに頭部を欠いた出土例もあり狩りの儀礼での犠牲獣にされたこともあるようです。
山田康弘氏は奇妙な埋葬事例として宮城県前浜貝塚の女性埋葬の例を挙げておられる。この女性の顔面に一匹の犬が乗せられていたという。さらに近くに胎児の入った土器が埋納されていた。この女性は高校生程度の年齢で出産時の事故などで死亡し胎児と一緒に埋納されたようです。他にも女性に近接して犬が埋葬されている事例があり、山田氏は動物を呪術的な意味で殉死させる風習があったとされます。不幸にして母子の命をうばった悪霊から犬に守ってもらい、常世では幸せに暮らせるようにという祈りの行為でしょうか。
(4)弥生時代以降の犬
縄文人と犬との深い関係をうかがえる事例は多くあるのに、これが弥生時代になると少し様相がちがってきます。壱岐島の原の辻遺跡などでは解体痕や毛皮を剥ぐ際の傷が見つかっており、渡来人が食用の犬を持ち込んだのではと考えられます。狩猟犬もいたようですがほとんど食用にされていたようです。その為かどうか弥生時代の犬の埋葬事例は少ないようです。ただそれでも柏原市平野遺跡では、楯を持つ人の前に犬らしき動物像が張り付けられており、祭祀に関わっていた様子が見てとれます。
古墳時代では犬型の埴輪も数は少ないですが、写真の大仙古墳出土などいくつか見受けられます。
中国では犬はかなり食されていたようですが、手当たり次第ではなくありがたい動物として祭祀の時などに調理されていたようです。日本では仏教の広がりなどで抑制されていったようです
古田先生の隼人舞についての記事の中で、犬に関して天子から教えられたまじないで犬を生き返らせたという不思議な話を紹介されています。
『日本書紀』には犬養部の記事があり、犬を飼育し屯倉の警備をさせていたということですが、詳しくは不明です。そのなかに安曇犬養と名乗る人々が海人の統率者であることから、海人は漁で得た魚を飼料として犬の飼育を行っていたのではないかとの推察もあります。鷹狩用の犬も育成していた可能性もあるようです。
また、肥前国風土記では、養父郡(佐賀県鳥栖市)の地名由来として「景行天皇」の巡行で天皇の犬がきて吠えたが、一人の産婦が御犬をのぞき込むと吠え止んだという言い伝えで、犬と女性との特別な関係をうかがわせる逸話です。八重山諸島、北海道には犬祖伝説が残っています。犬が功績によって人間の女をめとり民俗の祖となったという伝説で、中国の少数民族にも多数あるようです。
『古事記』雄略記の若日下部王の一節に、宮に似た家を作った大県主がとがめられ、白い犬を献上して許され、天皇はその犬を女性に贈ったとあります。そもそも犬の献上で家の炎上をまぬがれるというのも不思議ですが、鈴の付いた白色の犬に布をかけて、妻問いに渡し、女性は後日に出向くと返答するというのはなにやら「跨ぐ」儀礼を匂わすような説話です。
(5)跨ぐという行為に関する民俗事例
倉石忠彦氏によると儀礼的には、二つの空間の境界を超えるときに「跨ぐ」行為が出現するとされ、それが嫁入りの儀礼として松明を跨いだり姑と杯を交わしてから敷居を跨ぐなど各地で行われたという。(『身体伝承論』)
「跨ぐ」の民俗事例調査では胞衣、胎盤などを跨ぐ事例はその多くが懐妊を目的とするもので、縄文時代でも胞衣壺を戸口の近くに埋納する例が多数あるようです。逆に難産、異常出産を招くとして跨いではならないものに、箒、馬の手綱、馬具、牛の道具、船の網など禁忌例が多数存在しているようです。
動物例では唯一蛇があり、またぐと鱗型のある子が生まれるというタブー事例だが、縞蛇を跨ぐと運がくるという良い意味の例もありますが、火鉢や囲炉裏など禁止とされ「火」を積極的に跨ぐ事例もないそうです。
氏によれば跨ぐ対象物が跨ぐ女性に影響を与えると考えられている場合、「跨ぐ」という行為には疑似生殖行為としての側面をうかがうことができるという。いずれにしても直接犬に関するものは見当たりません。
他に秋田県では生家を出るときに杵を跨ぐ風習があったようです。語呂合わせの縁起担ぎも習俗にあります。中国の事例として、山東では敷居の上に一つの馬の鞍が乗せられており、新婦はそれを跨ぐそうです。これは「鞍(an)」は「安(an)」に音通し「四季平安」(年中無事)につながるそうです。
跨ぐではなく、ミニ鳥居をくぐるというのがあります。熊本県の粟嶋神社で安産、子授けのご利益があるそうですが、またいだり、くぐったりと女性は苦労が絶えませんね。
「跨ぐ」とは少し違いますが、古代中国では天子などが遠方に出かける前に、道中の無事を祈る伏祭(犬を伏せて王の馬車がその上を通って轢く)が行われ、犬の厄払いの呪力が認められていたとのことですが残酷ではあります。
「犬を跨ぐ」に直接つながるものはないかと見ていると次のような一文がありました。僧侶の宝誌の予言とされる記事(宋史巻六十六「五行志」)に「跨犬出金陵」(犬にまたがって金陵を出る)とあります。それは、江南の国が滅んだことを犬にまたがると表現されたようで、直接儀礼とは関係ありません。陰陽五行説での犬の意味に「滅びる」という意味があるのでそこからこの表現になったと思われます。
古代中国では、男女の結婚も陽と陰との往来、かけ合わせと考えられ、新郎が新婦を迎えに行くのが陰を意味する初昏、婚礼を始めるのが黄昏とされます。また唐・宋以前は犬に対する畏敬の念が強く、犬には呪力があって厄払いのできる神秘的な家畜とされ、また陰陽五行では犬は陽畜と見なされ、陽(体力などを意味する)を補うとされた。日本でも陰陽思想は取り入れられ、ハレの儀礼に陽畜の犬が使われた可能性はあるのではないでしょうか。よって隋書の作者もためらいなく犬の儀礼を記したとも考えられます。
(6)陰陽五行説の可能性
犬と人間との歴史的関係をみてもこの儀礼に近いものは見いだせませんが、犬の属性や性格とはことなる陰陽五行の考え方から犬にかかわる儀礼が生み出されたことも多くあるようです。
安産祈願のためのイヌの腹帯、お守りなどは犬が安産の動物であることにあやかってのものと一般に理解されていますが、吉野裕子氏によると全く異なる理由で、そもそも動物は犬やサルに限らずみんな安産であると。わざわざ五か月目の戌の日にお参りをするなど五行による儀礼として初めて理解できるというのです。
日本では、隋書の記述にあるように、仏法も広がりだした時期であり、合わせて陰陽五行説も入り庶民の生活にまで影響を受けるようになってきたと考えられます。
『史記』には、城門のところに犬を磔にして、その血で厄払いの儀式を行ったとあるようです。秦の時代には本物の犬のほかに土で作られた犬も鬼払いに用いられたようです。五行の解説によると、「木気(春気)」、すなわち春がなかなか訪れないのは金気が強すぎて妨害するからで、その金の象徴である犬を殺すことによって「金気」を抑止すると。こうすることで春を迎えることができるという正月の行事です。
日本においては、その思想をさらに独自に発展させて、中国にはない、または異なる習俗も多く生み出したようです。さすがに犬の磔はありませんが、正月に餅で小さな犬の形を拵え、これを窓の外や戸口に飾る風習が東北地方などにみられ、中国の犬の磔の日本版とされます。餅以外にもそば粉などで動物の形をつくる地域もあるが、これらはみな正月の行事であり、婚礼とは結び付かず、九州地方には見受けられず、また手のひらに乗るような餅の犬を敷居に置いて、花嫁に跨がすというのは儀式として弱い感じがします。あくまで迎春呪術でしょう。古賀氏は『九州王朝の筑後遷宮』の中で、人質となった百済国王王子による正月の犬の仮面をつけた舞を、獅子舞のルーツと想像されておられ、これもまた五行説からくる春を呼ぶための舞かもしれません。
正倉院の御物に大理石の石版彫刻があります。その構図は犬の上に猪がおそいかかり、猪が犬を剋伏している図で、猪が犬を跨いでいるように見えなくもありません。これも迎春のための縁起物なのでしょうか。他にも「子・丑」「辰・巳」など干支を描いた同様の石版があり、その方位に置いて魔除けとしたのでしょうか。戌亥(乾)は西北の方位で、いぬい蔵は吉とされ富をもたらす方角と考えられ家屋の西北に蔵がつくられた。また奥さんを夫の住居の戌亥の方角に住まわせたようで後に「北の方」とか藩主の正妻の住居を「乾御殿」というようになるのも、何か犬との関係を思わせます。
(7)陰陽五行説について
吉野裕子氏は日本に招来された陰陽五行説とその特質について次のように述べておられます。
「日本に入った陰陽五行の特色は、その実用の面にあり、歴・占星・占術の方面において、本家の中国も顔負けするほどの勢いで取り入れられた。その占術は原始日本信仰と密接に結びついて、日本古代呪術となり、日本の社会の深層に潜んで、根強く日本民族を支配して来た。その最盛時から千年以上の間、各階層を問わず、仏教の中にも神道の中にもしのび込み、表面には立たず地下水のような形で社会を動かしてきた。」(『日本古代呪術』)
暦や年間行事のみならず日頃は意識せずに行う習慣や婚礼などの儀礼や、さらに支配者の政治判断にも陰陽五行の影響があるようです。九州王朝の天子や側近は仏法とともに積極的に陰陽五行説を取り入れ、広く定着させていったことは間違いないと思います。
(8)今後の検討課題
類似例は見つけられませんが、この一見あり得ないような儀礼があるとすれば、歴史的な人間と犬との関係をふまえたうえでの陰陽五行による行為と考えることができるのではないかと思います。ただ婚姻儀礼で跨ぐのが何を意図したのかわかりません。戌には「切る」という意味があり、実家との関係が切られて新しい関係に入る、とも考えられなくもありませんが。現在において犬で間違いないのか確証はえられませんが、民俗事例での新たな気付きや今後の発掘調査などによって、犬の可能性を検討できればと思います。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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