「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か (上) (中) (下)
よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1) (その2) (その3)
「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か (上) (中) (下)
岩波『日本書紀』の「覩貨邏国」注釈 正木裕(会報143号)../kaiho143/kai14311.html
岩波『日本書紀』の「覩貨邏国」注釈
事務局長 正木 裕
岩波書店から刊行されている日本古典文学大系『日本書紀』は、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋の編纂によるもので、安易な原文改訂することも無く、その注釈や補注も詳細かつ丁寧で、優れたテキストとして常時活用しています。しかし、優れた注釈・補注であっても、引用する者の責任で史料批判を行う必要があるのは言うまでもありません。ここでは私がそのことを思い知らされた例を一つ挙げます。
隋・唐代の僧玄奘(三蔵法師。六〇二~六六四)は、経典(原典)を求め、六二九年密かに唐を脱し、苦難の末天竺に到着。六四五年に経典六五七部等を持ち帰ったことは良く知られていますが、その途上に「覩貨邏とから国」を経由したと『大唐西域記』(六四六年成立)に記されています。
◆『大唐西域記』巻第一、羯霜那(くさな)国条 覩貨邏国
「鉄門(*鉄門関・天山山脈の隘路)を出て、覩貨邏国に至る。(旧「吐火羅(とから)国」と曰う。訛なり)其の地は南北千余里、東西三千余里、東は葱嶺(*パミール山脈)に阨(ふさ)がれ、西は波刺斯(*ペルシャ)に接し、南は大雪山(*ヒンズークシ山脈)、北は鉄門に拠る。縛蒭大河(*アム・ダリア川)が中境を西に流る。数百年より、王族嗣ぐこと絶え、酋豪力を競い、各の擅君長(*専制君主)、川の険しきに依拠し、分かれて二十七国、野を区分ち画すも、總じて突厥に役属す。」
この覩貨邏国・吐火羅国は、その地理から今のイラン東北部に位置する「トカレスタン」地方の国と考えられますが、これと用字も同じ国名が『日本書紀』六五四年から六六〇年にかけて記されているのです。
◆①白雉五年(六五四)四月吐火羅国の男二人女二人、舎衞(しやえ)の女一人、風にあひて日向に流れ来りぬ。
②斉明五年(六五九)三月(十日)、吐火羅の人、妻舎衞婦人とともに来(まう)けり。
③斉明六年(六六〇)七月(十六日)、覩貨邏の人乾豆波斯達阿(けんずはしだちあ)本土に帰らむと欲ひて、送使を求(ま)ぎ請うして曰く、「願くは後に大国に朝(つかへまつ)らむ。所以(このゆへ)に、妻を留めて表(しるし)とす」とまうす。乃ち数十人と西海の路に入りぬ。岩波の『日本書紀』の補注では、覩貨邏国の所在について、西域説等を紹介しつつも「吐火羅国はおそらく、今のタイ国、メナム河下流の王国ドヴァラヴァティであろう」とし、根拠を堕和羅(ドワラ)・独和羅・堕羅鉢底(ドラバテ)という中国史書の表記と、六四〇年・六四九年に堕和羅国が唐に朝貢したことを挙げています。私も最初は「ああそうなんだ」とスルーしていました。
しかし、『大唐西域記』を調べてみると、同じ年代の西域にあった国として、『日本書紀』記事と同じ「覩貨邏国・吐火羅国」の名がズバリ記されていました。堕和羅等と比べると、どちらが『日本書紀』の国に合うかは明らかです。
そして、乾豆波斯達阿けんずはしだちあの「波斯はし」は中国語でペルシャを意味します。六五一年にササン朝ペルシャが滅亡し、王子卑路(ペーロー)斯(ズ)は覩貨邏国に逃れます。そして、六五四年にはペルシャ再興の支援を求めて唐に使節を送り、六六一年(六七〇年とも)に自らも入唐し、官位を授かっています。この時期覩貨邏国にいたペルシャ人が唐に来ていたのです。
『日本書紀』には六五三年に遣唐使が送られ、東シナ海経由の一艘が海難事故にあったと記されています。唐にいたペルシャ人が我が国にきた例は『続日本紀』の天平八年(七三六)にも記されていますから、遣唐使の帰国の際に同乗していたとすれば、漂白した年と状況が良く理解できるのです。
こうしたことから、『日本書紀』の覩貨邏(吐火羅)国人は、『大唐西域記』に記す覩貨邏国に逃れ、その後唐に派遣された亡命ペルシャ人だと考えられるでしょう。岩波の注釈は、『日本書紀』の読解上貴重な資料ですが、丸呑みせず自らちゃんと検討する必要があることを教えてくれた、「覩貨邏国」についての注釈でした。
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