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九州王朝(倭国)の四世紀
~六世紀初頭にかけての半島進出
川西市 正木 裕
一、「倭の五王」の朝鮮半島進出と九州王朝(倭国)
四世紀末から六世紀初頭にかけての中国南朝の史書には、「讃・珍・済・興・武」という、いわゆる「倭の五王」が、時の中国王朝に遣使し、半島に関する支配権の承認を求めた趣旨の記事がある。(註1)その中でも四七八年の「倭王武の上表文」には、歴代の倭王が半島に進出していったことが記されている。
◆『宋書』(倭国伝)順帝の昇明二年(四七八)に、使を遣し上表して曰く、「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰そでい躬みずから甲冑を環つらぬき、山川を跋渉ばっしょうし、寧処ねいしょに遑いとまあらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓ひらきき、畿きを遐はるかにす。
近畿天皇家一元説では、これらの王を大和朝廷の祖先のいずれかの天皇にあてようとしているが、『書紀』に讃~武の名が無いのはもちろん、在位年数や続き柄が合わない(註2)。他方、多元史観・古田説では九州王朝(倭国)の天子(王)としている。
ここでは多元史観の正しさを裏付ける、考古学上の根拠を示し、併せて九州王朝(倭国)の半島進出の歴史をたどっていきたい。まず、史書の年代の順序とは逆に、最後の倭王武の上表文から始めよう。
二、倭王武の上表文は九州王朝(倭国)の半島支配を示す
1、百済南西部に九州様式の前方後円墳
倭王武の上表文が、九州王朝(倭国)の「海北」即ち半島支配を示すものなら、何らかの遺跡・遺物が存在しているはずだ。そして、最近の韓国における考古学・遺跡調査等の発展により、「九州勢力の半島進出」の痕跡が発見されてきている。それは旧百済南西部栄山江よんさんがん流域に分布する北部九州様式の前方後円墳だ。慶北大学考古人類学科教授朴天秀氏は次のように述べている。(註3)
◎韓国旧百済栄山江流域に十三基(*十四基とも)の前方後円墳が発見されている。(註4)
①これらの古墳は、韓国のそれ以外の地にはみられない。
②古墳群のように一箇所に集中しておらず広く分布している。
③他の韓国式古墳群とは離れた場所に孤立しているものが多い。
④若干の異論もあるが、五世紀末~六世紀初めの築造とみられる。
そして同氏は、これらの前方後円墳は、墓の様式や出土品が北部九州と一致し、北部九州の勢力が造ったとする。
◎(百済南西部)栄山江流域の前方後円墳の横穴式石室は、平面長方形で平天井を呈し、立柱石と腰石を配する形態で、時には石室に赤色顔料の塗布が確認される(*装飾古墳)点で、北部九州地域にその系譜が求められる。
◎栄山江流域における前方後円墳の被葬者は、横穴式石室、繁根木型のゴホウラ製貝釧、栄山江流域産の土器の分布、江田船山古墳の副葬品のような百済系文物の分布から周防灘沿岸、佐賀平野東部、遠賀川流域、室見川流域、菊池川下流域などに出自をもつ複数の有力豪族と想定できる。(註5)
朴氏は、これら古墳の埋葬者は「倭系の百済の官人」ではないかとする。しかし、これらの古墳は、註4のとおり武寧王陵(宋山里古墳群七号墳。径二〇mの円墳)など、当時の百済王陵を上回る規模であり、「官人の墓」が「王陵」をしのぐ規模であるとは考え難い。また、「在地の首長」という説も同様に成立しがたいだろう。
そして、前方後円墳以外にも、「九州系石室」を持つ鶴丁里古墳群(円墳・方墳)、山堂里古墳(円墳)、双岩洞古墳(円墳。倭系鏡が副葬)、角化洞古墳(円墳)、造山古墳(円墳)、永洞里一―一号墳(方墳)、伏岩里三―九六号墳(方墳)、竹林里古墳群五号墳(円墳)などの古墳が多数存在する。(註6)
これは九州の勢力の有力者が、その配下とともに長期間駐在していたことを示すものだ。このようにこれらの古墳は、五世紀末の倭王武の時代に九州の勢力、即ち九州王朝(倭国)が百済南西部に進出していたことを示している。
三世紀の『魏志倭人伝』の時代、「倭の北岸」狗邪韓国は、対馬の北釜山・洛東川一帯と考えられるから、五世紀後半までに九州王朝(倭国)が百済南西まで版図を広げるには、相応の「半島侵攻の歴史」があったと考えられよう。武の「昔より祖禰そでい躬みずから」とあるのは、その経緯を示すものだ。そして、こうした「海北(半島)平定」の歴史は、『日本書紀』によって明らかにすることが出来る。
三、『書紀』と海外史料に見る九州王朝(倭国)の半島平定の歴史
1、四世紀、三六九年の新羅討伐
『書紀』で半島勢力との抗争は神功紀に始まる。『書紀』神功皇后四十九年(己巳。書記紀年二四九年)に、神功皇后が新羅を討伐し、加羅諸国と堺をなす七か国を平定した記事がある。資料上新羅の初見は『秦書』で、前秦の世祖宣昭帝の建元十三年(三七七)、新羅国王楼寒(奈勿麻立干。なこつまりつかん即位三五六)の前秦への朝貢記事だから、新羅討伐は二四九年の事実ではありえない。そして、『三国史記』と『書紀』共に記す、近肖古王・近仇首王の崩御記事の年代のずれから、神功紀は「二運・一二〇年」繰り上がっていることがわかっており、この記事も実年では三六九年のことと考えられる。(註7)
◆『書紀』神功皇后四十九年(二四九)(実年三六九年)春三月に、荒田別あらたわけ・鹿我別かがわけを以て将軍いくさのきみとす。則ち久氐くてい等と共に兵を勒ととのへて度わたりて、卓淳とくじゅん国に至りて、将まさに新羅を襲おそはむとす(略)即ち木羅斤資もくらこんし・沙沙奴跪ささぬき(略)に命みことおほせて、精兵ときいくさを領ひきゐて、沙白・蓋盧かむろと共に遣しつ。倶ともに卓淳に集つどひて、新羅を撃ちて破りつ。
因りて、比自火+本 ひしほ・南加羅ありしひのから・喙とく国・安羅あら・多羅たら・卓淳とくじゅん・加羅から、七の国を平定ことむく。仍よりて兵いくさを移して、西に廻めぐりて古爰津(こけいのつ 全羅南道康津か)に至り、南蛮の忱弥多礼(とむたれ 済州島か)を屠ほふりさきて、百済に賜たまふ。是に、其の王こきし肖古せうこ及び王子せしむ貴須くゐす、また軍いくさを領ひきゐて來會まうけり。時に比利ひり・辟中へちう・布彌支ほむき・半古はんこ、四つの邑むら、自然おのずからに降服したがひぬ。(略)
五十年(二五〇)(実年三七〇年)(略)「(略)海わたの西の諸もろもろの韓からくにを、既すでに汝いましが国に賜たまひつ。(略)」
「諸の韓の国を既に百済に賜う」とあるから、済州島のほか比利等の百済南西部の旧「馬韓地域」は百済の支配下に入ったこととなる。百済王は大いに感謝し、これを契機に百済と倭国の盟約(辟支山へきさんの盟約)が結ばれ同盟関係が成立する。三六九年は百済が高句麗から侵略を受けた年だが、こうした倭国との同盟を背景に、雉壌きじょうの戦いでこれを破り、逆に高句麗への反攻を強め、三七一年百済は高句麗の故国原ここくげんおう王を平壌城に攻め敗死させている。
この時に倭王に贈られたのが石上神社に伝承されてきた七支刀だ。加羅「七ヶ国」平定と錬造時期が一致することから、これは七ヶ国平定と領土の礼の為に造られ、高句麗戦勝後に献上されたものと考えられる。
◆『書紀』神功五十二年(壬申二五二)(実年三七二)九月丙子(十日)(略)(百済肖古王)七支刀一口、七子鏡一面、及び種種の重宝を献る。
◎七支刀銘文
(表)泰(和)四年(*己巳三六九)五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供(侯)王
(裏)先世以来未有此刀百済(王)世□奇生聖音故為倭王旨造(傳示後)世
2、神功皇后のモデルは誰か
ちなみに、大善寺玉垂宮(福岡県久留米市大善寺町)の由緒書によれば、(初代)高良玉垂命は仁徳五十五年(三六七)にこの地に来て、同五十六年(三六八)に賊徒を退治。同五十七年(三六九)に高村(大善寺の古名)に御宮を造営し筑紫を治め、同七十八年(三九〇)この地で没した(*古賀達也氏による)とある。
高良玉垂命は「姫神(女性)」とされ、女帝の神功皇后と一致し、新羅討伐(三六九)や没年(神功六十九年二六九年)(実年三八九)とほぼ合致するので、神功皇后のモデルは、九州王朝(倭国)の女王高良玉垂命だと考えられる。
九州王朝には対外的に活躍した女帝がいたが、近畿天皇家に女帝はいなかったため、『書紀』編者は神功紀を創造し、俾弥呼・壹予と玉垂命の事績をその中に入れたものと思われる(註8)。
3、四世紀末~五世紀初頭に百済南東部に侵攻
そして、高句麗好太王の碑文から、九州王朝(倭国)は四世紀末には本格的に半島に進出し、新羅・百済を支配下に置いたことがわかる。
『書紀』応神三年(二七二・実年三九二年)には、倭国は百済の辰斯王しんしおうを「礼無し」と責め、百済側で誅殺させ阿花王を即位させているが、これに対応するように、好太王の碑文には、倭国の百済支配が記されている。
◆(好太王碑文)百殘・新羅は旧是れ属民由に來りて朝貢す。而るに倭は辛卯の年(三九一年)以來、海を渡り、百殘■■新羅を破り、以って臣民とす。
ただ、その後高句麗は百済への攻勢を強め、三九六年には五十八城を落し、阿花王に高句麗の「永き奴客」となることを誓わせ、王弟を人質として兵を引いた。しかし、倭国はこの百済の高句麗への屈服を責め、百済南東部に侵攻し、その結果百済は太子腆支(てんし『書紀』では直支とき)を倭国に質に出し盟を約す。
◆(好太王碑文)永楽九年(三九九)己亥。百残、誓に違い倭と和通す。王、平壌に巡下す。新羅、使を遣し、王に云へて曰く、『倭人、其の国境に満ち、城池を潰破し、奴客を以て民と為す』。
この「百残(百済)の違背」の次第が『書紀』応神八年に記されている。
◆『書紀』応神八年(二七七年、実年三九七年)の春三月に、百済人来朝まうけり。《百済記に云へらく、「阿花あくゑ王、立ちて貴国かしこくくにに礼无ゐやむし。故ゆゑに、我が枕彌多禮とむたれ、及び峴南けんなむ・支侵ししむ・谷那(こくな 全羅南道谷城か)・東韓とうかんの地を奪うばはれぬ。是ここを以もて、王子せしむ直支ときを天朝みかどに遣まだして、先王さきのこしきの好よしみを脩をさむ」といへり。》
阿花王が太子を質に出したのは、『三国史記』では阿花王六年(三九七)で、この記事も神功紀同様二運(一二〇年)ずらされていることがわかる。枕彌多禮等とむたれの位置は正確には分かっていないが、岩波注が「百済の地を倭国が奪ったのである。」とするように、洛東川周辺から進出していったとすれば全羅南道東部が相応しく、谷那を全羅南道「谷城」とする考えが当を得ていることになろう。
また倭国は、新羅に対しても積極的に侵攻し、好太王の碑文に、永楽十年(四〇〇)には、新羅の男居なむぎょ城より新羅城に至るまで倭兵で満ち、永楽十四年(四〇四)には、倭が帯方郡界に侵入したことが記されている。
4、倭王「讃・珍」とは誰か
こうした半島進出を積極的に進めたのが倭王讃だった。
◆『宋書』高祖(武帝・劉裕)の永初二年(四二一)、詔していうには「倭讃が万里はるはる貢を修めた。(略)」
それでは、この「讃」(『梁書』では「賛」)は、九州王朝(倭国)では誰にあたるのだろうか。
先述のように、神功皇后に比定される高良玉垂命は三八九年に崩御したが、彼女には「九体の皇子」がいたとされる。長男は斯礼賀志しれかしの命、次男は朝日豊盛の命で、『高良社大祝旧記抜書』(元禄十五年成立)では、長男斯礼賀志の命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛の命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続くとある。倭の五王の讃と珍は兄弟であり、かつ弟の珍の子孫が倭王を継いでいるから、年代と続き柄から、讃は斯礼賀志の命、珍は豊盛の命である可能性が高いだろう。
5、五世紀中庸(珍の時代)百済を支配
こうした讃の積極的な半島進出は、次代の珍にも引き継がれた。
『書紀』仁徳四十一年(三五三)に、百済の国郡の堺を決め、郷土所出くにつものを録すとの記事がある。
◆『書紀』仁徳四十一年(三五三)紀角宿禰を百済に遣して始めて国郡の彊(さか 土偏)場ひを分ちて、具つぶさに郷土所出くにつものを録す。是の時に、百済の王の族酒君、礼无むし。是に由りて、紀角宿禰百済王を訶ころひ責む。時に百済の王悚かしこまりて、鐵の鎖を以て酒君を縛ゆひて、襲津彦に附けて進上す。
「国郡の彊(土偏)場を分つ」とは、地図を作る事でも国境を視察することでもなく、倭国の支配地域と、その中の国・郡を明確にすることだ。また「郷土所出を録す」というのも。単に名産・特産品を記すのではなく、税としての貢納品を徴するための台帳を作るものだと考え。これは倭国の百済領への侵攻を意味している。そうでなければ、倭国が百済の地でわざわざそのような行為を行う必要は無いし、酒君が、捕縛されるまで抵抗する必然性もないのだ。
それでは、この記事の実年はいつ頃なのだろうか。
先述の通り応神八年(二七七)の実年は三九七年であることが分かっている。仁徳四十一年(三五三)は『書紀』の紀年でその七十六年後にあたる。『古事記』では仁徳の没年齢は八十三歳のところ、『書紀』では「在位」が八十七年となっている。その前の応神の在位は四十一年で、没年齢は一一〇歳とされる。また六世紀初頭の継体の没年齢は、『古事記』では四十二歳前後、『書紀』では八十四歳前後となっており、それまでの『書紀』紀年は、二倍年歴の可能性が高いと考えられる。従って一倍年歴では実年三九七年の三十八年後(七十六年の1/2)で四三五年、おおよそ四三〇年代のこととなろう。これは「讃末期から珍」の時代にあたる。
『宋書』で倭の五王「珍」が、「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と自称し、除正を求めたのは四三八年だ。
◆『宋書』「文帝紀」元嘉十五年(四三八)讃死して弟珍立つ。使いを遣して貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍・倭国王に除す。
珍は、讃の積極的な半島侵攻を引き継ぎ、こうした新たな百済支配を背景に、宋に百済支配を認めさせようとしたのではないか。
6、済・興時代、半島侵攻は困難に直面
先に見た四七八年の、『宋書』に記す「倭王武の上表文」では、高句麗の攻勢と済・興の「不測の死」が記されている。
◆『宋書』而るに句驪無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷へんれいを掠抄りゃくしょうし、虔劉けんりゅうして已やまず。毎つねに稽滞けいたいを致し、以て良風を失い、路に進むと曰ふと雖も、或は通じ、或は不からず。臣が亡考済、実に寇讐こうしゅうの天路を壅塞ようそくするを忿いかり、控弦こうげん百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄にわかに父兄を喪い、垂成すいせいの功をして一簣いっきを獲えざらしむ。居りて諒闇りょうあんに在り、兵甲を動かさず。是を以て、偃息えんそくして未だ捷かたざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。
高句麗では好太王の崩御を受け、四一三年に長寿王(三九四~四九一)が即位した。『三国史記』高句麗本記によれば、彼は平壌に遷都し、四三五年に北魏の冊封を受け、四五四年には新羅討伐に乗り出す。そして、四七五年には百済に侵攻し、ついに王都の漢城を陥落させ、百済王の蓋鹵がいろ王を誅殺し、男女八千人を捕虜とした。子の文周王(四七七年に暗殺される)は逃れ熊津に遷都したが、事実上百済は崩壊したことになる。
このことは『書紀』雄略二十年(四七六)に次のように記されている。
◆『書紀』雄略二十年(四七六)冬、高麗王、大きに軍兵を発おこして、伐ちて百済を盡ほろぼす。(略)百済記に云ふ、「蓋鹵がいろ王の乙卯年(四七五)冬、狛の大軍來りて、大城を攻むること七日七夜、王城降陷やぶれて、遂に尉禮いれを失い、国王及び大后、王子等、皆敵の手に沒す」といふ。
そして『宋書』の四七七年に「これより先、興没し、弟の武立つ」とある。時期から見て、また「祖禰躬ら甲冑を環き」とあるように、九州王朝(倭国)の王自らが戦の戦闘に臨むという伝統からも、武の兄興がこうした半島での戦において没した可能性は高いだろう。
7、五世紀末の九州王朝(倭国)による百済支配
さらに雄略二十三年(四七九)には、倭国が末多王を擁立し、「筑紫国の軍士」に護られて百済に帰国。「筑紫の将軍」が高句麗を攻めたとある。
◆雄略二十三年(四七九)夏四月、百済文斤王(もんこおう 三斤王とも。文周王の長子)薨る。天王、昆支王(こんきおう 蓋鹵王の子で文周王の弟)の五子中第二の末多王の幼年くして聰明さときを以て、勅して内裏に喚めし、親ら頭面を撫で、誡勅いましみるみこと慇懃ねむごろにして、其の国に王とならしむ、仍ち兵器を賜ひ、并せて筑紫国の軍士五百人を遣して、国に衞まもり送らしめ、是を東城王とす。是の歳、百済の調賦みつきもの、常の例より益まされり。筑紫安致臣・馬飼臣等、船師ふないくさを率ゐて高麗を擊うつ。
これは、五世紀末の百済では、高句麗からの防衛に「筑紫の軍士・将軍」らが携わった、すなわち、当時の百済は倭国によって守られ、国として維持されたことを表すものだ。そして、まさにその時代の百済南西部に「北部九州様式の前方後円墳」などが造られている。これは「半ば占領下」にあった百済に駐留した、「筑紫の軍士・将軍」らのものとしか考えられないのだ。
そして、この事実は、高良玉垂命以来の九州王朝(倭国)の歴代の王こそ、四世紀末から六世紀初頭にかけ、半島で高句麗や新羅と覇権を競った「倭の五王」であることを何よりも雄弁に示しているといえよう。
(註1)『晋書』(四一三年)、『宋書』(四二一年~四七八年)、『南斉書』(四七九年)『梁書』(五〇二年)
(註2)「讃」は履中・仁徳・応神説があるが、何れも反正との関係が説明できない。
①在位年数が合わない。『宋書』によれば讃・珍二代の在位年数の合計は少なくとも二十六年以上だが、『日本書紀』では履中(六年)、反正(五年)と、二天皇の合計在位年数はわずか十一年で、讃=履中、珍=反正は不成立。
②続き柄が合わない。『宋書』では、讃は珍の兄だが、『日本書紀』では仁徳と反正は親子で、讃=仁徳、珍=反正も不成立。
(註3)以下は朴天秀(慶北大学考古人類学科教授)「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳―古代九州との国際交流―」による。
(註4)①高敞七岩里古墳(墳丘長五十五m)②霊光月桂古墳(四〇m)③咸平新德一号古墳(五十五m)④咸平長鼓山古墳(六十六m)⑤咸平馬山里古墳(四十六m)⑥潭陽古城里古墳(二十四m)⑦潭陽聲月里古墳(三十八m)⑧光州月桂洞一号墳(四十五m)⑨同二号墳(三十五m)⑩光州明花洞古墳(三十三m)⑪光州堯基洞古墳(五〇m)⑫霊岩チャラボン古墳(三十七m)⑬海南龍頭里古墳(四〇m)⑭海南長鼓峰古墳(七十六m)など。
(註5)①(ゴホウラ製貝釧)韓国造山古墳から出土した繁根木型のゴホウラ製貝釧は、佐賀県の関行丸古墳、福岡県櫨山古墳、熊本県伝佐山古墳から出土。②(栄山江流域産の土器)栄山江流域に見られる両耳付壺・鋸歯文土器・有孔広口小壺等が対馬(塔の首二号石棺墓ほか)と北部九州(前原市浦志遺跡ほか)に出土。③(鳥足紋叩き土器の石室内に副葬)福岡県苅田町の番塚古墳、福岡市の梅林古墳では栄山江流域産の鳥足紋叩き土器が石室内に副葬。日本列島の前方後円墳でこの地域産の土器の副葬はこの二例。
(註6)崔榮柱(全南大学人類学科講師)「韓半島の栄山江流域における古墳展開と前方後円形古墳の出現過程」(『立命館文學』 第六三二巻二〇一三年)による。
(註7)肖古王薨去記事・貴須王薨・枕流とむる王即位記事は『書紀』と『三国史記』では一二〇年ずれている。
◆『書紀』神功五五年(乙亥二五五)。百済の肖古王薨せぬ。
◎『三国史記』近肖古王三〇年(乙亥三七五)冬十一月王薨せぬ。
◆ 『書紀』神功六四年(甲申二六四)。百済の貴須王薨りぬ。王子枕流王、立ちて王と為る。
◎『三国史記』近仇首王十年(甲申三八四)夏四月、王薨。枕流王元年(三八四)継父即位
(註8)俾弥呼・壹予を「倭の女王」として魏への遣使を神功皇后紀の紀年にあわせ記し、玉垂命の事績を実年より一二〇年繰り上げた。これにより俾弥呼・壹予と玉垂命という女王を神功皇后一人の事績に纏めるという潤色を行った。
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