2017年12月12日

古田史学会報

143号

1,「古記」と「番匠」と「難波宮」
 阿部周一

2,『令集解』所引「古記」雑感
 古賀達也

3,九州王朝説に朗報!
古期前方後円墳の葬送儀礼「折り曲げ鉄器」は九州北部起源―大和にはない
 合田洋一

4,九州王朝(倭国)の
四世紀~六世紀初頭にかけての半島進出
 正木 裕

5,「中国風一字名称」の再考
 西村秀己

6,『古代に真実を求めて』第二○集
「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」について(2の下)
 林 伸禧

7,講演会報告
深志の三悪筆
 松本市での講演会と懇親会
古田史学の会・代表 古賀達也

8,「壹」から始める古田史学十三
古田説を踏まえた俾弥呼のエピソードの解釈② 古田史学の会事務局長 正木 裕

9,筑前町で出土していた弥生時代の「硯」
 犬塚幹夫

10,講演会報告
受付から見た講演会 
 岩本純一

11,岩波『日本書紀』の「覩貨邏国」注釈
事務局長 正木 裕

 

古田史学会報一覧

水野孝夫さん「阿漕的仮説―さまよえる倭姫―」(会報69号)
正木裕「常色の宗教改革」(会報85号)

鞠智城創建年代の再検討 -- 六世紀末~七世紀初頭、多利思北孤造営説 古賀達也(会報135号)

須恵器窯跡群の多元史観 -- 大和朝廷一元史観への挑戦 (会報144号)


『令集解』所引「古記」雑感

京都市 古賀達也

 札幌市の阿部周一さん(古田史学の会・会員)からお知らせいただいた『令集解』引用「古記」に見える「造難波宮司」記事に触発され、大阪梅田阪急の古書店で国史大系『令集解』全四冊を購入し、二日間でざっと目を通しました。古代史料をこれほど集中して読破したのは久しぶりです。
 九世紀前半に編纂された『令集解』は『養老律令』の注釈書ですが、その中に引用されている「古記」には『大宝律令』の注釈があり、現存しない『大宝律令』の復元に利用されています。また、九州王朝から大和朝廷への王朝交代直後における大和朝廷側の認識を示す貴重な史料でもあります。ですから、今回の『令集解』読破では、この「古記」部分を特に丹念に読みました。当時の用語による難解な漢文ですので、残念ながら正確に読みとることはできませんでした。それでも、読み進むうちに少しずつ用語や文法に慣れて、興味深い記事をいくつも見つけました。

 「儀制令」の年号使用命令

 たとえば、『養老律令』「儀制令」に公文書には年号を使用するよう定めた次の条項があります。
 「凡公文応記年。皆用年号」『律令』(日本思想大系)三五〇頁

 そして、『令集解』の同条項の解説に次の引用文が記されています。
 「釋云、大寶慶雲之類。謂之年號。古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。穴云、用年號。謂延暦是。問。近江大津宮庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前云耳。」『令集解』(国史大系)第三 七三三頁

 律令の注釈書「令釋」「古記」「穴記」が引用されているのですが、意訳すると次のようです。
 「釋にいう。大寶・慶雲の類を年号という。古記に云う。年号を用いよ。大寶と記し、辛丑(干支)は注記しない類をいう。穴(記)にいう。年号を用いよ。これを延暦という。答う。近江大津宮の庚午年籍は何の法に依ったのか。答える。この文以前は未だ制度がなかったというのみ。」

 「令釋」では年号の説明として大寶(七〇一~七〇四)・慶雲(七〇四~七〇八年)を例示していることから、慶雲年間頃に成立した記事と考えられます。
 「古記」では大寶だけを例示していますから、大寶年間頃に記されたと考えられます。更に「辛丑」(干支)は注記しないと説明していますから、出土木簡が七〇〇年以前は干支表記で、七〇一年以後は年号表記になっている考古学的出土事実に対応しています。従って、この「古記」の記事が『大寶律令』の注釈記事であると判断できます。
 「穴記」では延暦(七八二~八〇六年)を例示していますから、延暦年間頃の成立記事と考えられます。なお、これら引用史料の成立年代には諸説ありますが、本稿では立ち入らないことにします。
 末尾に『令集解』編者による問答が記され、近江大津宮の庚午年籍の時代には年号使用の制度がまだなかったと解説しています。
 このように『令集解』の「古記」の史料批判と分析により『大寶律令』の内容や、出土木簡の紀年表記が七〇一年以降は干支から年号使用に全国一斉に変化していることが、大和朝廷の『大寶律令』に依っていることがわかります。ということは、九州王朝律令では木簡に年号使用することを規定していなかったことになります。このように、『令集解』の「古記」が九州王朝研究に役立ちます。

 「戸令」の「水海」

 『養老律令』「戸令」には「庚午年籍」(六七〇年造籍)の永久保存を定めた次の有名な条項があります。
 「凡戸籍。恒留五比。其遠年者。依次除。近江大津宮庚午年籍。不除。」『律令』(日本思想大系)二三二頁

 そして、『令集解』の同条項「近江大津宮庚午年籍不除。」の部分の解説として次の「古記」引用文が記されています。
 「古記云、水海大津大宮庚午年籍莫除。(後略)」『令集解』(国史大系)第二 二八七頁
 訳すと次のようです。
 「古記に云う。水海大津大宮の庚午年籍は除くなかれ。」

 『養老律令』や『日本書紀』天智紀では天智天皇の宮殿を「近江大津宮」と表記されていますが、それらよりも成立が早い『大寶律令』には「水海大津大宮」と記されていたことがうかがえます。
 「近江」とは琵琶湖のことで、「近つ淡海あはうみ」の二文字表記です。すなわち、大和朝廷にとって近くにある「近つ淡海」を「近江」と表記し、「おうみ」と訓んでいます。遠くにある「淡海」(浜名湖)は「遠つ淡海あはうみ」で「遠江」と表記されています。ところが、より成立が早い『大寶律令』では、この「古記」の記事により、琵琶湖のことを「近江」や「淡海」ではなく「水海」と表記されていたことがわかります。すなわち、九州王朝の時代である七世紀には、琵琶湖は「水海」と表記されていたと考えられるのです。
 「古田史学の会」関西例会では、『万葉集』に見える「淡海」は琵琶湖ではなく、たとえば淡水(河口の伏流水)と海水が混じり合い、文字通り「淡い海」である八代海球磨川河口とする説が発表されてきました(西村秀己さん、水野孝夫さんの研究による)。すなわち、琵琶湖は真水であり、「淡海」という表記は不適切という指摘でした。
 この他にも、『万葉集』の歌には「淡海」での「いさなとり」を歌ったものがあり、琵琶湖に鯨いなさはいないので、「淡海」は琵琶湖ではないとする論稿も発表されています(木村賢司さん「夕波千鳥」『古田史学会報』三八号、二〇〇〇年六月)。
 このような研究経緯がありましたので、琵琶湖の表記として「淡海」は不適切であり、「古記」のように「水海」のほうが妥当です。この「水海」を当時何と訓んでいたのかは不明ですが、九州王朝の時代には「近い」「遠い」を表す表記(近江・遠江)ではなかったことになります。九州王朝の都、太宰府から見れば琵琶湖も浜名湖もはるか遠方であり、琵琶湖を「近つ水海」とは表記できなかったのではないでしょうか。あるいは、わたしが考えているように「九州王朝の近江遷都」説が正しければ、すぐとなりの琵琶湖は近すぎて、逆に「近つ水海」と呼べなかったのかもしれません。
 なお、ご参考までに「洛中洛外日記」十七話「淡海は琵琶湖ではなかった」を転載します。

【転載】洛中洛外日記
第十七話 2005/08/05
「淡海は琵琶湖ではなかった」
 古田史学の会内部でしばしば研究テーマとなっているものに、「淡海」はどこかという問題があります。口火を切られたのが木村賢司さん(会員・豊中市)で、『万葉集』に見える「淡海の海」を全て抜き出され、その歌の内容から通説の琵琶湖ではありえないとされました(「夕波千鳥」、『古田史学会報』三八号)。そして、淡海の海を博多湾近辺の海ではないかとされました。
 古田先生は現在の鳥取県にあたる『和名抄』の邑美を候補とされ、後に阿波(徳島県)近海と考察されるに至っています。
 西村秀己さん(本会全国世話人・向日市)は『倭姫命世記』に見える「淡海浦」の地勢記事から熊本県八代市の球磨川河口付近とする説を関西例会で口頭発表されました。
 いずれの説も一理あるものの決め手に欠けていました。そんな中で発表されたのが、水野孝夫さん(本会代表・奈良市)の「阿漕的仮説―さまよえる倭姫―」(『古田史学会報』六九号)でした。その結論は西村説を裏づけるものですが、『倭姫命世記』に記された淡海浦の記事、すなわち西に七つの島があり、南には海水に淡水が混じって淡くなるという海域が八代市球磨川河口(球磨川の伏流水が水島付近で湧き出している)に存在することを見つけられたのでした。しかも、対岸の天草には放浪するお姫様の伝承を持つ姫戸などの地域があったのです。すなわち、倭姫伝承も九州王朝の伝承からの盗用だったのでした。(後略)

「戸令」の「常色」

 九州年号「常色」(六四七~六五一年)は「白雉」の直前の年号で、わたしが九州王朝の副都と考える前期難波宮(難波宮・味経宮)造営時期、九州王朝による「天下立評」(評制施行)の時代です。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は「常色の宗教改革」(『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月)の時代と表現されており、九州王朝にとっても画期をなした時代と言えるかもしれません。
 わたしは九州年号研究の当初、この「常色」を「じょうしょく」と訓んでいました。ところが、九州年号をテーマとした大阪でのわたしの講演の質疑応答において、「古田史学の会」会員の加藤健さん(交野市)から、「常色」は九州王朝の年号だから呉音の「じょうしき」と訓むべきではないかとのご指摘をいただきました。なるほどもっともなご意見と思い、それ以後は「じょうしき」と訓むよう心がけました。ちなみに、正木さんは当初から「じょうしき」と訓まれています。
 この九州年号の「常色」とは直接の関係はありませんが、最近読み始めた『令集解』「戸令」の注釈にこの「常色」という用語があることが目に留まりました。次のような記事です。
 「謂。小子入中男。中男入丁。丁入老。老入耆之間。是為一定以後。若改其常色者。更須依親皃之法。故云一定以後。不須更皃也。(後略)」『令集解』(国史大系)「戸令」二八六頁
 ※「皃」の字は、国史大系『令集解』の活字では「只」の「口」部分が「白」。

 戸籍登録における年齢判断に関する規定のようですが、今のところそれ以上のことは判断できませんので、引き続き勉強します。
 ここに見える「常色」と九州年号「常色」と関係があるとは思えませんが、九州王朝が年号として「常色」の表記を選んだ理由などを考察する材料になるかもしれませんので、ご紹介することにしました。皆さんのご意見、ご批判をお待ちしています。


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