「那須國造碑」からみた 『日本書紀』紀年の信憑性 谷本茂(会報148号)
「壹」から始める古田史学十六 「倭の五王」と九州王朝 正木裕 (会報148号)誉田山古墳の史料批判
神戸市 谷本 茂
一、はじめに
百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録で話題になっている誉田(御廟)山古墳【伝応神天皇陵】については、「被葬者を応神天皇と考えてほぼ間違いない。」と強調する考古学者がいる一方で、具体的な比定方法に関する疑問が幾つも湧いてくる状況である。誉田山古墳の被葬者は決して明確にはなっていない。文献および出土物の状況の簡明な事実の一端を指摘し、巨大古墳分析の基本的な論理構造の問題点について再検証していく端緒としたい。
二、誉田山古墳をめぐる史料事実
誉田山古墳に関する史料事実について、基本的な事柄の認識が研究者の間で共有されていないのではないかと(自省も込めて)思われる節がある。『日本書紀』には応神天皇陵の場所が明記されていない事実である。
『古事記』には、「御陵在川内恵我之裳伏岡也」とある。「恵我ゑが」の領域は、現在の石川の流域の西側から東徐川流域にかけての藤井寺市、羽曳野市の比較的広い領域であると考えられている。明治時代に「恵我村」、現在では「恵我之庄」の関連地名が残っている。(近年の遺称地は古代よりもかなり西側の小領域となっているようである。)
『日本書紀』には、『古事記』と重なる神武天皇から推古天皇にかけての「天皇陵」の場所が記されているが、唯一の例外として、「応神天皇陵」に関する直接的な記載は無い。ただ、雄略天皇九年[西暦四六五年に相当]秋七月の条の中で、有名な「埴輪馬はにま伝承」の一節に、河内国言として「蓬蔂丘いちびこのおかの誉田陵ほむたのみささぎ」という陵名が記されている。丘の名前の注記はあるが、「誉田陵」に関する注記は一切ない。従来の研究者は、この「誉田陵」を(論証抜きに)「応神天皇陵」のことと理解してきた。『日本書紀』の「誉田天皇」(応神天皇)の「誉田」と、この陵名の「誉田」が同じだから、雄略紀の「誉田陵」=「誉田天皇の陵」でよいとするのだ。
しかし、『古事記』によれば、応神天皇の本来の名は「大鞆和気命」であり、亦の名が「品陀和気命」とあり、これは、天皇の義父にあたる品陀眞若王と関連する名と推定される。(応神天皇は品陀眞若王の三人の娘といずれも婚姻関係を持った。)
『延喜式』(西暦九二七年編纂)巻二十一諸陵寮には、「恵我藻伏崗陵、在河内国志紀郡、兆域東西五町南北五町、陵戸二烟、守戸三烟」とある。『延喜式』の陵墓名は『日本書紀』の表現に準拠するのが通例であるが、応神天皇に関しては『日本書紀』に記載が無いので『古事記』の系統の史料に基づいて(藻、崗の字が異なる)記載している。一町は約一〇九mなので、墓域は約五四五m×五四五m相当とみなしていることになり、現状では、誉田山古墳しか該当しない。つまり、『延喜式』では、「誉田山古墳=応神天皇陵」としていることが分かる。
誉田山古墳の南側に祭祀を担ってきた誉田八幡宮がある。誉田八幡宮の社伝では、欽明天皇の時代(六世紀中頃)の創建との伝承があるが、確実な応神天皇祭祀のための神社の存在が確認できるのは、十一世紀中頃である。
『延喜式』の記述と誉田八幡宮での祭祀の経緯を考えると、十世紀~十一世紀には、「誉田山古墳=応神天皇陵」の認識が広く普及していたようである。しかし、八世紀初頭の段階では、応神天皇陵の所在地の情報は不安定なものになっていたと考えざるをえない。『日本書紀』に応神天皇陵の場所が記載されていない史料事実については、「伝写途中の文章の脱落」事故であり当時不明になっていた訳ではない、とする説もある。しかし、そのような想定は、八世紀~九世紀の書紀講釈・「私記」その他の同時代文献に照らして考えれば、相当無理な仮定であろう。(この点、文字数の制約もあり、別の機会に詳細を述べたい。)
三、「蓬蔂丘」と「裳伏岡」は同じものか?
【三の一】「蓬蔂丘いちびこノおか」と「裳伏岡もふしノおか」は、異なる丘を示すと理解するのが普通の読み方である。これらの地名が同じ丘を指すという論証は従来説には一切見られない。
【三の二】『日本書紀』の「誉田陵」を現在の誉田山古墳(字地名・誉田に存在する)であると考えるのは無理ではないが、「誉田陵」が応神天皇陵に結び付く情報は皆無である。先述のように、応神天皇が『日本書紀』で「誉田天皇」(『古事記』では「品陀天皇」)と記されていることだけが根拠になって、「誉田陵」=「応神天皇陵」が説かれてきたのである。その説には両者を結び付ける論証が欠けている。
【三の三】明治四十年代の地形図(陸軍測量部・二万分の一縮尺・等高線は二・五m毎)や、現代の国土地理院のデジタル等高線データ等に依れば、藤井寺市、羽曳野市の(古代の「恵我」と想定される)領域には、明確に二つの丘陵地帯が認められる。誉田山古墳はそれらの境界領域の東側の丘陵地帯に属し、稜の西側に築造されているのである。これらの二つの丘陵地帯が「蓬蔂丘」「裳伏岡」と区別して呼ばれていた蓋然性が高いのではないだろうか。
【三の四】先述のように応神天皇が近畿圏に入った後に大きな拠り所とした有力な在地勢力の一つが品陀眞若王の系列であった。したがって、「誉田陵」がこの豪族系統に関連したものである可能性を考える必要がある。応神天皇の時代(四世紀後半頃)に、ヤマト王権と河内領域の豪族の力関係の強弱あるいは優劣がどのようなものであったかは、究明対象であって、無条件に「ヤマト王権側の方が圧倒的に強かった」というような前提を置くことは、研究姿勢として倒錯しているのである。
四、白石太一郎氏の方法論への基本的な疑問
【四の一】白石太一郎氏などは、誉田山古墳の築造年代を出来る限り遡らせて、従来円筒埴輪の編年から五世紀中頃以降に属すると考えられていたものを、五世紀第一四半期内でよいとする説を強調している。その主な根拠は、誉田山古墳の外堤などで採集されている須恵器がTK七三型式であり、TK七三型式は平城宮址で出土した四一二年伐採(年輪年代法)のヒノキの木製品と同伴していたので、誉田山古墳の築造時期も五世紀第一四半期と推定してよく、「応神天皇陵」であることと矛盾しない、というものである。
論証の厳密さからは、土器編年の存在時期の或る一時点が正確に判明したとしても、論理的には、存在期間の上限が決まるだけで、その土器型式が何年続いたのか、どの時点で遺跡の地層に残されたのかは曖昧である。ましてや、型式の変化/維持の期間は(均一ではなく)バラツキがあり、一方で古墳の築造期間にも幅があるので、両者のバラツキを考えると、プラスマイナス(±)二十五年くらいの誤差は容易に生じる。出土物の相対編年により古墳の築造期を「四半世紀」内の精度で推定することの信頼度は余り高くないと言える。
【四の二】「不都合な事実」として、誉田山古墳の外濠部改修にともない出土した物の中に、「円筒埴輪で口径二十㎝以下の小型のものがある。(中略)円筒埴輪編年の末期[谷本注=五世紀後半]に位置付けできる。これらの埴輪が何処から流出したのかは今のところ不明である。」(『大水川改修にともなう発掘調査概要X 応神天皇陵古墳外堤V』大阪府教育委員会 一九九九年三月刊) 要するに出土物の編年からは、誉田山古墳は五世紀のどこかで造られたというしかない状況なのである。
【四の三】仮に白石氏のように五世紀第一四半期の造営を前提としても、四世紀後半あるいは末頃(三九四年?これは『古事記』細注の崩御年干支からの推定年。この前後に十二年の幅があるかも知れない)に崩御したと推定される応神天皇の陵墓としては、依然として、やや遅い様に思える。
【四の四】白石太一郎氏の著書『古墳の被葬者を推理する』(中公叢書二〇一八年刊)に収められている「誉田御廟山古墳の被葬者をめぐって」(二〇一二年初出)では、「誉田御廟山古墳が、記・紀にみられる応神大王の墳墓である蓋然性を否定するのはきわめて難しいのではないか」とされる。ここでは論理的倒錯が生じている。
「誉田」という名称が共通している、築造時期が矛盾しない、といくら力説しても、それらは単に必要条件を満たしていることを述べているだけで、十分条件に該当する論証が従来説には全く欠落しているのである。「誉田山古墳=応神大王陵」という仮説は、ほとんど根拠らしい根拠(検証できる史料事実や出土事実)を提示していないので、(K.ポパーの言う)反証可能性を持たない。つまり、反証可能性を有しない仮説である故に、確かに、否定するのは極めて難しい。
しかし、この仮説を提示する側に、肯定する立証責任があるのであって、『古事記』『日本書紀』を素直に理解する立場から疑問・反論を提示する側に、その反証責任を負わせるのは、いかがなものかと思う。
【四の五】「誉田御廟山古墳は同時期の古墳のなかでの規模の隔絶性から、ヤマト政権の盟主である大王の墓と想定するしかない」との主張は、これまた、論理的倒錯である。
「ヤマト王権(天皇家)が、当時どの程度の権力・支配圏を有していたのか?」の究明が研究対象のはずである。その究明作業の前に、「巨大墓は天皇の墓と想定するしかない」との先入観を導入するのであれば、典型的な「結論先取り論法」と言わざるをえない。これでは同義反復(トートロジー)に陥ってしまう。
「巨大古墳=天皇陵」が証明されてから、ヤマト王権の権力規模や本当に盟主であったかどうかの議論が可能になるのである。それを逆転させるのは、(無意識・無自覚であっても)「新たな皇国史観」である。
五、おわりに
戦前の偏狭な皇国史観を克服して「民衆的な立場」から研究を進めてきたはずの戦後の日本古代史学界は、今大きな分岐に直面している様に見える。貴重な伝承・古文献を「造作」の予断のもとに軽視・無視し、一方で、記紀伝承に書かれていないことまで深読みして、無意識・無自覚的に「万世一系のヤマト王権の日本統治」を肯定する傾向が強くなってきている。学問研究の進め方の多様性を認めようとしない頑迷なプロ研究者が存在することも事実である。
本会は、多元史観の立場に立つ同好の士の集まりである。個々の論説には多様性を大切にしつつ、「一元史観」の強化や「新たな皇国史観」の台頭には、機敏に異議申し立てをして、大枠としてのベクトル(学究姿勢)を見失わないように、発展してゆきたいものである。
(二〇一九年七月四日浄書了)
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