松山での『和田家文書』講演と「越智国」探訪 皆川恵子 (会報145号)
コンピラさんと豊玉姫
高松市 西村秀己
コンピラさんとは我が讃岐の国(香川県)で最も有名な神社であり、江戸時代には伊勢詣でに次ぐ人気であったそうで、東海道中膝栗毛にもその描写がある。そのコンピラさんと神武天皇のお祖母さんである豊玉姫とどんな関係があるのかと訝る向きもあるだろうが、実は関係がありそうなので報告する。
コンピラさんは正式には「金刀比羅宮ことひらぐう」であり、現在は「完全な」神社として存在し祭神は大物主の神である。かつては神仏習合により、真言宗象頭山松尾寺金光院であって、金毘羅大権現と呼ばれていたが、明治になり神仏分離・廃仏毀釈の実施で仏教色を拭い去ったのだ。これだけ有名な神社であるにも関わらず「讃岐一宮」でなく「讃岐二宮」でも「讃岐三宮」でもないのは、かつては寺であったからだろう。
金毘羅は宮毘羅とも書き薬師如来の眷属十二神将の筆頭でもある。(この場合の読みは「クビラ」)金毘羅は元来「クンビーラ」と読む。クンビーラはヒンドゥー教の神で、ガンジス川の化身である女神ガンガーの「乗り物」(ヴァーハナ)でもあり、その正体は鰐である。このヒンドゥー教の神であるクンビーラが何故九州でも近畿でもない、残念ながら空海以外は歴史を主導したとは思えないこの讃岐に座を据えたのだろうか?一説にはクンビーラは祭神大物主の本地仏だからという説もあるようだが、大物主を祀る最も有名な神社である大神神社では本地仏を大日如来或いは聖観音としているようなので、クンビーラ本地仏説は後付けだろう。
さて、高松市男木町には「豊玉姫神社」があり祭神はもちろん豊玉姫である。「豊玉姫神社」は全国にあるので、男木島にあっても驚くには当らない。ところが、この男木島から海上八㎞程度の距離にある屋島の浦生には豊玉姫が神武の父親であるウガヤフキアエズを生んだという伝承を持つ「鵜羽(うのは)神社」がある。(尚、参考までに付け加えると千葉県長生郡睦沢町にもほぼ同じ伝承を持つ「鵜羽(うば)神社」がある。)ウガヤフキアエズの父親の彦火火出見は海神から「虚空彦(そらつひこ)」と呼ばれる。これは彦火火出見が「虚空」から来たことに因んでいると思われる。彦火火出見は「虚空」から来てそして「虚空」へ帰っていった。豊玉姫は彦火火出見を追ってその国に行きそこでウガヤフキアエズを生む。従ってウガヤフキアエズは「虚空」で生まれたことになる。ところがこの「鵜羽神社」がある浦生の読み方は「ウロ」なのである。「ウロ」の意味は「うつろ」即ち「虚」「空」である。すなわちここには伝承と地名の一致がみられるのだ。
是に海神の女、豊玉毘売命、自ら参出て白ししく、「妾は已に妊身めるを、今産む時に臨りぬ。此を念ふに、天つ神の御子は、海原に生むべからず。故、参出到つ。」とまをしき。爾に即ち其の海辺の波限に、鵜の羽を葺草に為して、産殿を造りき。是に其の産殿、未だ葺き合へぬに、御腹の急しさに忍びず。故、産殿に入り坐しき。爾に産みまさむとする時に、其の日子に白したまひしく、「凡て佗国の人は、産む時に臨れば、本つ国の形を以ちて産生むなり。故、妾今、本の身を以ちて産まむとす。願はくは、妾をな見はまひそ。」と言したまひき。是に其の言を奇そと思ほして、其の産まむとするを竊伺みたまへば、八尋和邇に化りて、匍匐ひ委蛇ひき。即ち見驚き畏みて、遁げ退きたまひき。爾に豊玉毘売命、其の伺見たまひし事を知らして、心恥づかしと以為ほして、乃ち其の御子を生み置きて、「妾恒は、海つ道を通して往来はむと欲ひき。然れども吾が形を伺見たまひし、是れ甚?づかし。」と白したまひて、即ち海坂を塞へて返り入りましき。是を以ちて其の産みましし御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命と謂ふ。然れども後は、其の伺みたまひし情を恨みたまへども、恋しき心に忍びずて、其の御子を治養しまつる縁に因りて、其の弟、玉依毘売に附けて、歌を献りたまひき。(『古事記』上巻)
「鵜羽神社」(西潟元村に在る)
相伝えていること、「上古、海神の長女豊玉姫が、お産に臨んで亀に乗って此の浦に来、?(ママ)草葺不合尊を生み奉ったが、そのお産は羊の子のように安らかであった。それで産婦は此の神に祈れば安全が得られるのだ」と。土地の人は言う、「此の神は寿命を護ることが出来るので、此の浦の人は八九十まで生きない人は無いし、又若死にしたり流行病を患う人も無いにだ」と。又言う、「当時此の神は鰐魚に跨って川を泝り、四条に至って留まられた。それで四条川といい、鰐河というのだ」と。(『口訳全讃史』)
木田郡61「鵜羽神社」
屋島町大字西潟元字浦生
祭神 ??(原文は篇と旁が左右に並ぶ。以下同じ)草葺不合尊
由緒 屋島町村社八坂神社境外末社。伝ふる所によれば、神代の昔豊玉姫命浦生の地に来たり??草葺不合尊を生み給ふ。豊玉姫命八尋の産殿を造らせ給ひしかば島の名を八尋島と云ふ。後世に至り山容家の形に似たる故を以て屋島と云へり。姫命又鰐に御して川を遡る。故に鰐河と云ひ河の上に和爾賀波の神社あり。尊御降誕の故を以て安産の神として厚く崇敬せらる。又此の神よく寿をまもり給ふ故に浦人皆長寿なりと云へり。天平勝宝年間唐土の沙門鑑真浦生に来り当社に請願して屋島に登れりと伝へらる。一に枯木大明神と称せられ、浦生の人氏神として崇敬す。(『香川県神社誌』)
古事記などの説話では豊玉姫は彦火火出見に出産を覗き見られ恥ずかしさのあまり本国に帰るのだが、讃岐に残る伝承では何故か出産を終えた豊玉姫は、川を遡上して木田郡三木町下高岡にある「鰐河神社」若しくは同じく三木町井戸の「和爾賀波神社」に降り立ち鎮座する。この神社の名前に「鰐」或いは「和爾」が付く理由は、川を遡上する豊玉姫の「乗り物」が「鰐」だったからである。
「和爾賀波神社」(高岡村四条川のほとりに在る)
土地の人の言い伝えに言う、「海神の長女が亀に乗って山田郡潟元村の浦に来、??草葺不合尊を生み奉った。それで其の地を名づけて浦生という。遂に鰐魚に化って、流れに従って泝り四条に至った。それでその川に名づけて鰐河といい、祠を立ててこれを祀り、鰐河神社という」と。『極楽寺記』にいう、「延喜八年夏四月、高岡八幡を立てた」と。今これを考えるに、元来は豊玉姫を祭神としており、延喜の時八幡神をこれに合祀したのである。(『口訳全讃史』)
木田郡184「鰐河神社」
下高岡村字四條
祭神 応神天皇 豊玉姫命
由緒 四條八幡、或は高岡八幡宮と奉称せられ、延喜式内和爾賀波神社は当社なりとも云へり。三代物語に『四條八幡宮・・・和爾賀波神社・・・高岡一郷社祀之』とあり、全讃史式内祠の條に『和爾賀波神社在高岡村四條川上』、神社考には『和爾賀波神社、高岡一郷の産社』と見ゆ。里人の伝ふる処、海童の女亀に乗りて山田郡潟元の浦に来り??草葺不合尊を生む。因りて其の地を浦生といふ。遂に鰐魚に乗り流れを泝りて四條に到る。依て其の川を鰐河と云ひ、亦祠を立てて之を奉ぜし所を鰐河神社と称すといふと。(『香川県神社誌』)
木田郡214「和爾賀波神社」
井戸村字熊田
祭神 豊玉比売命 八幡大神 玉依比売命 息長足姫命
由緒 延喜神名式に『讃岐国三木郡一座和爾賀波神社』とありて延喜式内讃岐国二十四社の一といふ。社記に『此郷有川曰鰐川其源従寒川郡南山出流到鴨部郷遂東北入於海昔者海神之女豊玉姫神駕鰐魚遡流覓居地時来座此処面白是土者甚宜居処也即鎮座因曰居処郷今訛謂井戸郷又此社上有石神名曰世田姫海神也』とありて古く神代の鎮座なりといふ。官社考證に右社記を引きたる後『肥前国風土記佐嘉郡段に郡西有川曰佐嘉川云々此川上有石神名曰世田姫海神謂鰐魚年常逆流潜上到此神所海底小魚多相従之云々・・・とあるを考合てよ・・・此神社の東方を流るヽ所謂和爾川の川上寒川郡長尾郷名村に石神と云地ありて、いみじき大石あり、又石神権現と云社もあれば、彼風土記の古伝と此社伝とを熟考るに此所にも上古肥前国佐嘉川の如く此川を海神の逆りて彼石神の所へ往来せし事の時々有しを故縁ありて此井戸郷に其霊を斎祀しにやあらむ』といへり。一説に神代の昔豊玉姫命鰐魚に乗りて屋島の西海より今の晋川を遡り此の処に鎮座し給へり。而して晋川は当時此の地を流れて屋島の西海に入れりと。(『香川県神社誌』)
前記二つの「ワニカワ神社」は延喜式内の「和爾賀波神社」の論社の内の二つである。どの「ワニカワ神社」が式内社であるのかの結論を出すのが本稿の目的ではないが、下高岡は屋島の西端から真っ直ぐ新川を遡れば到達するが、井戸のそれは屋島の西の海岸から屋島・庵治・志度の小串岬を東に超えて鴨部川を遡る必要がある。尚、肥前の世田姫伝説も興味深い。
いずれにしても香川県には鰐に乗る女神の伝説が体系的に存在する。水(川)の女神「ガンガー」の「乗り物」たる金毘羅(クンビーラ)と同じモチーフを持った伝説が既にこの讃岐にはあったのだ。即ち水(海)の女神「豊玉姫」の「乗り物」である「鰐」の伝説である。これが、金毘羅大権現が香川県仲多度郡琴平町に鎮座する理由となったのではあるまいか。
(注)香川県に馴染みのない読者には史料の郡名が判り難いと思われる。香川県(讃岐)の郡はその殆どが明治になって二郡を一郡に併せられたものだ。例えば那珂郡と多度郡が合併して仲多度郡となった。本稿の舞台である木田郡は、三木郡と山田郡が合併したものである。
会報一四六号をお届けします。本号は特に苦労させられました。最後に空いた穴が一と四分の三頁。「穴(あな=うろ)」埋め作業のお陰で「虚空」彦と「浦生(うろ)」に気が付きました。だからといってこの伝承が讃岐が本家と主張したいわけではありません。とにかく讃岐には色んな人がやって来ています。ヤマトタケル(若しくはその子・兄弟)が大魚退治をし、藤原不比等が恋に落ち(海女の珠取り伝説)、鑑真が立ち寄り、眞田信繁(幸村)が逃げてきたり。また近畿ではほとんど見かけないヤマトトトヒモモソ姫を祀っている神社が沢山あります。モモソ姫といえば、纏向遺跡から出た桃の種の年代が卑弥呼と同年代だと大騒ぎしている様ですが、単に卑弥呼と同年代に纏向にもある程度の集落があったというだけのこと。桃と言えば中国でも霊木の一つ。張政もこれだけの桃の花を見れば報告する筈ですが倭人伝に記載なし。つまり卑弥呼の都でない証拠では。(西村)
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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