訃報!竹田覚氏ご逝去 合田洋一(会報146号)
松山での『和田家文書』講演と「越智国」探訪
松山市 皆川恵子
二〇一八年三月三日は古田史学の会・四国にとって、記念すべき日となった。「東京古田会」の副会長で『和田家文書』研究家の安彦克己氏と「古田史学の会・仙台」代表原廣通氏を迎えて、特別講演として『和田家文書』の世界に誘われた。愛媛大学名誉教授の”くじら博士”として著名な細川隆雄先生、高松市から「古田史学の会」会報担当西村秀己氏、高知市から「四国の高良神社」の論稿(『古田史学会報』144号)を出されたばかりの別役政光氏らが駆け付けてくださり、総勢三〇人が参加した。「今、『和田家文書』にはまってワクワクしながら読み進んでいます。」と、愛媛県における彫刻家の第一人者で「古田史学の会・四国」の阿部誠一会長の挨拶で幕開けし、会員一同の熱い視線の中、
原廣通氏のレクチャー「勿来の関異聞―波越の堰と勿来の剗」が始まった。「私は、古田武彦氏の本に二六歳で出会い・魅了され、三四歳で古田史学の会・仙台を立ち上げた。以来、二四年間毎月一回日曜日の午後、第一部で古田先生の五十代から六十代に書かれた論文を読み直し、第二部で、『和田家文書』及び『東日流外三郡誌』を中心に丁寧に読み進んで来た。両書は大変貴重な資料であると実感している。」そして「勿来の関は和歌に読まれて有名だけれど一体どこにあるのかはっきりわかっていない。実は近畿天皇家が東北侵略のために造った関ではなく、東北王朝が造った柵ではないのか」という論旨。なるほど!二か所の比定地があるなんてびっくりだった。
安彦克己氏のレクチャーは「『和田家文書』から見えてくる真実の歴史」と題して、冒頭「愛媛丸」についての歌を出された。「鎮魂の鐘の音は澄む奪われし命無限響かせながら」(大川文香、赤旗新聞二〇一八年二月二一日)歌人と歴史研究者の共通性を指摘し、和田家文書は敗者の側の内容を紡いだもので、何とか残したいという思いをもって書かれているということで始まり。宗任と伊予とのつながり「宗任以下をして伊豫に流罪せしも村組の倭寇ら宗任を首領とせんありて、治暦丁未年、筑紫大宰府に配流さるも・・・」これもびっくりの内容!宮沢遺跡、アラハバキ神社、奈良県高市郡の小字名「あびこ」、金光上人の入滅日について、と『和田家文書』の概略を通してその重要性がわかる内容だった!
次の日(三月四日)、合田洋一氏提唱の「越智国」探訪に出かけた。
春の温かい日差しの中、ジャンボタクシーと会員の車二台に一五人が分譲し、いざ「越智国」へ出発。合田説「越智国」は、今治市の糸山半島から、新居浜市の国領川までの伊予の三分の一を占めているという。まずは「越智国」の第二王都と目され、道路建設で続々出土物のある新谷へ行く。二体の龍を描いた絵画土器も出土している。「龍は中国では王様の印」と合田氏。次いで第一王都とされる古谷の多伎宮古墳群(今治市朝倉、事実は古冢群)を見学。そのあと「三種の神器」出土の樹之本古墳や「天皇橋」を通って百四十基もあったと言われている野々瀬古墳群を見学。越智国はこんなに古く、すごい歴史があったのかと驚く。
次に斉明天皇伝承の地を巡った。昼食のあと、無量寺で謎の巻物『両足山安養院無量寺由来』を拝観の後、斉明天皇の行宮跡と言われている「橘広庭」伝承地(終焉の地か)に行った。ここは大字太之原(旧名皇之原)小字才明(旧名斉明)であり、ここには伏原正八幡神社が鎮座している。次いで「伝・斉明天皇陵」を見学した。
その後、朝倉から西条の氷見に移動した。合田氏の唱える多利思北孤行幸の「伊佐爾波岡」伝承地とされていて、山部赤人が「伊予の高峰」を詠ったと思われる地に鎮座している「石岡神社」(西条市氷見)を訪ねる。ここの大鳥居から石鎚山・瓶ケ森・笹ヶ峰の石鎚連峰がくっきりと遠望でき、赤人の歌はここだ!と思った。なお、ここには摂社として「高良神社」もある。更に『伊予国風土記』所収の「温湯碑」に登場する「神井しんせい」に比定されている「芝井の泉」を見る。すぐ側にある「温湯碑」の建立地と目される「高尾神社の岡」に登ると石岡神社のある祭ケ丘が間近に見える。また近くに「熟田津」伝承地の「石湯八幡宮跡」(西条市安知生)がある。
次に「紫宸殿」地名遺跡(西条市明理川・地籍は七四八〇〇平方メートル)に移動。ここは九州王朝の天子・斉明の宮殿跡か。次いで隣接する「天皇」地名(地籍は、八一〇〇〇平方メートル)であるが、ここも広大であり、合田氏曰く天子・斉明の政庁跡か、と。
ここから直線距離で二キロメートルほどの所に「永納山古代山城」(西条市河原津)があり、これに登城した。ひたすら杖を頼りに登って頂上に着くと、「わー!海がすぐそこに見える」夕焼けに染まって美しい!何故「永納山古代山城」は国府に向いていないで桑村郡に向いているのか?合田氏の答えは、「桑村郡にある紫宸殿及び越智氏の聖地・朝倉を守るためだ!国府の防御施設ではない、と。」充実しすぎの一日は、古谷・新谷に始まり、最後は永納山の「越智国」探訪であった。私は永納山に登ったのは二度目だったが、前回は表側の石垣側から、今回は裏側から登ったのであるが、この裏側には石垣がないのである。確かにこの山城は「紫宸殿」を守っていると思った。九州王朝の一の子分だった越智氏は、白村江に五、〇〇〇人の兵士を出した(『今昔物語集』・『予章記』)という。合田氏の熱い思いと共に、それほどの国力があったのか、と実感したツアーだった!
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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