松山での『和田家文書』講演と「越智国」探訪 皆川恵子 (会報145号)
コンピラさんと豊玉姫 西村秀己(会報146号)
『東日流外三郡誌』と
永田富智先生にまつわる遠い昔の思い出
松山市 合田洋一
私が「古田史学の会」に入会(平成十四年一月)して数年経った頃、『東日流つがる外三郡誌』の「偽書問題」について当時事務局長だった古賀達也氏と話しをしていた時、氏の口から「北海道の歴史研究家として著名な永田富智先生と北海道の松前町でお会いして(平成八年九月)、先生が見た『東日流外三郡誌』は“間違いなく明治の写本”との評言を得た」と。
(注)実はこの話を聞いた時、あまりの偶然さにびっくりした。と言うのは、私は永田先生を直接知っていたのである。それも、永田先生より『東日流外三郡誌』のことをお聞きしていたからであった。その経緯を以下に述べる。
私は、明治大学三年(昭和三十八年)の八月に帰省(北海道江差町)した時、父に卒業論文(『蝦夷地に於ける戦国時代』)の史料研究のため函館図書館に寄るので一日早く帰ると話したところ、父は「それならいい人を紹介するよ」と目の前で函館図書館に電話してくれた。なんと、その相手の人こそ当時図書館で学芸員をされていた永田富智先生だったのである。しかも、私は右の論稿には既に永田先生の調査報告を多数引用していたのである。父と先生との関係は、父が江差町の町会議長をしていた時に『江差町史』の編纂でお世話になって以来の付き合いとのこと。当時、汽車で江差・函館間は三時間の道のり、勇躍函館図書館に向かったのである。と言うのも、私が探していた松前藩の正史とされた『新羅之記録しんらのきろく』の原本がここにあると聞いていたからである。早速、永田先生にお会いして長時間に亘りご指導戴いた。それも、恋焦がれていた『新羅之記録しんらのきろく』の原本を前にして。当時コピー機がなかったので、先生が直接カメラを手に原本すべてを接写して下さったのである。他にも沢山の史料を写して戴いた。その時の先生の言葉を今も鮮明に覚えている。「合田君、北海道・東北の歴史を研究するなら『つがる外三郡誌』という書があるからそれを研究したらいいよ」(その時はつがるの字は「東日流」ではなく「津軽」とばかり思っていた)と。私は「その書はここにあるのですか」とお聞きしたところ「ここにはなく、青森のある人が持っているので紹介してあげるから東京への帰途寄ったらどう」と言って下さったのである。当時の私は奨学金とアルバイトで学生生活を送っていた貧乏学生だったことから、青函連絡船(四時間半)で青森に行き夜行列車(二十二時間)で急いで東京に帰り、仕事(アルバイト)に間に合わせなければならなかったので、丁重にお断りして「またの機会に是非お願いします」と辞したのである。のちのち寄り道できなかったことがなんとも悔やまれた。
この話をかつて古賀さんに話したのだが、その時に古賀さんから「そのことを是非会報等の記録に残しておいてほしい」と言われた。それをすっかり忘れていたところ、今年の総会(平成三十年六月十六日)後の懇親会の折、『東日流外三郡誌』の話になり、あらためて古賀さんより同様の要請があった。
振り返って見ると、昭和三十八年とは、『東日流外三郡誌』がまだ活字本になっていない時であった。古賀さんの前掲論稿によると、昭和五十年頃「市浦村史版」、六十年頃「八幡書店版」が発刊されるが、永田先生はその前の昭和四十六年に市浦村役場で二、三百冊の『東日流外三郡誌』明治写本を見たとのことであった。なお、これに先だって大泉寺の開米智鐙氏が『青森民友新聞』に昭和三十一年十一月一日から翌年の六月三日まで百四十八回の連載で、『和田家文書』に基づく「役の行者」や「金光上人」、「荒吐神」などの伝承を紹介し、また和田親子が山中から発見した文物の調査報告などを記していたようである。
そうなると、永田先生は私がお会いした時には既にこの新聞を見ていたのであろうか。はたまた数点の「寛政原本」か「明治写本」でも見ていたのであろうか。なにしろ道南の松前町と津軽の五所川原市は一衣帯水の土地柄であることから、情報は早くから伝わっていた可能性はある。そして、その時紹介しようとしていた人は和田喜八郎氏だったのか、あるいは古賀さんが青森で多くの人に会ったその内の一人だったかも知れない。いずれにしても、私にとっては学生時代に『東日流外三郡誌』との幻の出会いだったのである。
その後、永田先生にはもう一度お目にかかった。それは私が社会人になって数年後、父が余市町に転居していた関係で、その途次札幌・北海道庁で『北海道史』編纂室に勤務していた永田先生をお訪ねしたのである。それというのも、私の卒業論文『蝦夷地に於ける戦国時代』(原稿用紙で四百五十枚ほど)の論稿を先生に見て戴くことが目的であったのである。と言うのは、卒業時に私のゼミの指導教授であった渡辺保先生(中世史)から「大学に残らないか、そしてこの論文を出版したらいい。巻頭言を私が書いてあげる」と言ってくれていたので、永田先生にこの論文の良し悪しと出版のご意見を伺うためであった。なお、出版の件は資金面で無理があったので、将来の出版を待つことにした。この時は『東日流外三郡誌』の話は出なかったと記憶している。
それ以来、永田先生とは先生がお亡くなりになるまで年賀状のやり取りをし、私の第二書『聖徳太子の虚像』(平成十六年七月、創風社出版)を謹呈した。その時、私が「古田史学の会」に入会したことを知って「奇遇ですね」と言って下さったことを思い起こしている。今に思えば私は大学院に残らなくて良かった。何故なら、残っていれば「古田史学」には到底巡り合わなかったであろうから。
なお、この論文の第一章「渡島わたりしまと粛慎みしはせ考 -- 渡島は北海道ではない」に、「北方新社版」の『東日流外三郡誌』(全六冊)と『和田家資料』(全四冊)を購入して研究を加え、古田先生直接編集『なかった―真実の歴史学』(ミネルヴァ書房)の第二集から五集に連載して戴き、それが『地名が解き明かす古代日本 -- 錯覚された北海道・東北』「六国史の渡島は北海道ではない」(ミネルヴァ書房)を上梓することにつながったのである。なんとも“奇遇”というほかない。
ところが、『東日流外三郡誌』との関わりはこれだけではなかったのである。それはある日突然、茨城県石岡市在住の合田寅彦従兄より大封筒で何やら資料らしきものがどっさり送られてきた。開けてびっくり、私も伝え聞いていた『東日流外三郡誌』偽書問題での渦中の人物である野村孝彦氏が控訴人となって、被告人・和田喜八郎氏を写真盗用で訴えた裁判資料(平成七年八月二二日)だったからだ。更に、平成二十八年十月十日付けで『東日流外三郡誌』は偽書だと言う一派のおびただしい資料を戴いた。
何故このようなものが従兄宅にあったのか。早速聞いてみた。従兄によると彼と野村氏とは囲碁(氏の父親が戦前の名高い棋士)での知り合いとのこと。従兄が大手出版社を退職していたことから、野村氏が何らかの形で「偽書問題」を本にしたいということで従兄に近づいたのではないかと推測する。一回目は野村氏が一人で来られ、従兄宅に泊まり資料を置いて行った。二回目は野村氏と安倍高星丸の子孫と称する安倍義雄氏と二人で来て、また従兄宅に泊まり資料をどっさり置いて行ったとのこと。
しかしながら、従兄はこのように思ったようである。和田喜八郎氏は何となく胡散臭いところもあるように見受けられるが、この「偽書問題」は本にはできない、と。
更に、『東日流外三郡誌』とのもう一つの関わりを述べることにしたい。
それは、『東日流外三郡誌』「寛政原本」と「明治写本」の保管・展示場所の問題である。
かねて私は、古田先生より右記書の保管・展示場所について、ご相談を受けていた。そこで、私が三十三年間にわたり仕事上でお世話になっている関西の経済界でも著名な北村守氏(ニチニチ製薬株式会社ほか全国にゴルフ場九ヶ所・ホテル三ヶ所・ワイナリー事業・牧場経営などのデイリー社グループの会長でアナン学園高等学校の理事長)のところへ、服部静尚氏(古田史学の会誌編集長)と二人で氏の大阪の会社にお伺いした(平成二十七年六月二十二日)。氏は「古田史学」への多大な支援者で、拙書や拙論掲載の書をいつも大量にご購入戴き、氏のお知り合いの政治家や経済界の人たちへ謹呈して下さっていた。そのようなことから、『東日流外三郡誌』の保管・展示場所について氏にご相談申し上げたところ、すぐさま氏経営の青森ワイナリーホテル(宿泊客年間十一万人、青森ロイヤルゴルフクラブ併設、青森県南津軽郡大鰐町。因みに、私も三回宿泊させて戴いたが大変素晴らしいホテル)を保管・展示場所としてご承諾下さった。併せて「古田史学の会」へのご入会も。私が松山に帰って後、古田先生にそのことをお話ししたところ、先生は大変お喜びになり「検討させて戴きます」と述べられた。同年八月に先生からお電話があり、私と北村氏との関係などを再び聞いてこられた。そして先生がお亡くなりになる二週間ほど前の九月末頃だったと思うが、先生から電話を頂戴した。いつもは夜電話がかかるのにこの日に限って昼だった。先生の声はいつも張りのある声なのに、この時は大変弱々しいしい声でびっくりしたのであるが、「この前お話戴いた青森での保管・展示場所を北村さんにお願いしたいので、北村さんの電話番号と連絡の時間帯を教えてほしい」と。そこで、先生のご質問にお答えしたのであるが、そのあとのことは分らずじまいになってしまった。先生が十月十四日鬼籍に入られたからである。折角、保管・展示場所が決まったと思ったのに、何とも残念なことになった。先生もきっと心残りではなかろうか。
それにしても、私は学生時代から今日まで、『東日流外三郡誌』とは不思議な縁で結ばれていたような気がしてならない。『東日流外三郡誌』があって、古田先生とも大変有意義な論争もでき、その上で先生の『なかった -- 真実の歴史学』に私の論文を連載して下さり、あまつさえ先生から「緒言」も戴いた拙書『地名が解き明かす古代日本』も上梓できたのである。私にとっては、『東日流外三郡誌』様々であった。
(注)『新・古代学』第4集、古賀達也論考「続 平成・諸翁聞取帳―『東日流外三郡誌』の真実を求めて」で詳述
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