古田先生との論争的対話 「都城論」の論理構造 (会報147号)
滋賀県出土法隆寺式瓦の予察(会報149号)
『論語』二倍年暦説の史料根拠 (会報150号)
九州王朝の高安城
京都市 古賀達也
一、高安城、九州王朝築城説
正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から驚きの論稿が発表されました。多元的古代研究会の機関紙『多元』一四四号(二〇一八年三月)に掲載された「王朝交代 倭国から日本国へ (2)白村江敗戦への道」です。その中の「7.高安城・屋嶋城・金田城造営も白村江前」において、次のように高安城の築城目的を説明されているのです。
「そして倭国(九州王朝)は、その後順次、対馬から瀬戸内経由難波までの防衛施設を整備していたと考えられる。(中略)また、高安の城は生駒山地の高安山(標高四八七m)の頂にあり大阪平野・大阪湾から明石海峡まで見通せる。
これは唐・新羅が『筑紫から瀬戸内を超え、難波まで攻め込んでくる』ことを想定した防衛施設整備と言えよう。」(十一頁)
わたしは高安城は近畿天皇家による造営と、今まで疑問視することもなく考えてきたのですが、正木さんはそれを九州王朝(倭国)が造営したとされたのです。『日本書紀』天智六年(六六七)条には高安城築造について次のように記されており、わたしは「倭国(やまと国・奈良県)」防衛を主目的とした近畿天皇家によるものと単純に理解していました。
「是月(十一月)、倭国に高安城、讃吉国山田郡に屋嶋城、對馬国に金田城を築く。」『日本書紀』天智六年(六六七)条
対馬の金田城や讃岐の屋嶋城は筑紫や難波副都防衛のために九州王朝(倭国)が築城したと理解していましたが、高安城については「倭国(やまと国)」とありますから、大和に割拠していた近畿天皇家によるものと文脈上から理解していました。ところが正木さんは高安城も難波京(九州王朝の難波副都)防衛を主目的とした九州王朝による築城とされたのです。そこで、この正木説が成立するのかを検討します。
二、高安城の位置と地勢
正木さんが発表された高安城九州王朝造営説が成立するのか、まず地勢的に考察してみます。
『日本書紀』天智六年(六六七)条には高安城の築造場所を「倭国(やまと国、奈良県)」とするだけで、屋嶋城のように「讃吉国山田郡」と郡名(山田郡)までは記されていないことから、「高安」という城名だけで『日本書紀』読者にはその場所がわかったはずです。従って、現存地名の高安山近辺(奈良県生駒郡平群町・大阪府八尾市)とする理解は穏当と思われます。ただし、当地からは倉庫跡の礎石は発見されていますが、明確に城跡と確定できるような城壁の石積みや土塁が未発見であることに、本当に高安山近辺としてよいのか一抹の不安は残ります。ちなみに、対馬の金田城や讃岐の屋嶋城は城跡遺構が出土しています。
ここで注目されるのが竜田関との位置関係です。竜田関は高安山の東南方向にあり、大和川沿いの竜田道の関所です。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の研究(注①)によれば、竜田関は竜田道峠の大和側にあり、大和から河内・摂津への侵入を防ぐ位置にあることが判明し、九州王朝副都難波京防衛の為の関とされました。従って、竜田関よりも河内・摂津側に近い高安城も難波京防衛を目的とした城と考えても問題ないようです。
三、築城目的は難波副都防衛
『日本書紀』天智六年(六六七)条に見える高安城が九州王朝の難波副都防衛を目的として築城されたのであれば、太宰府を防衛する大野城や阿志岐山城のように、神籠石列石や百間石垣、あるいは土塁が出土してほしいところですが、高安山付近からはそうした遺構は発見されていません。現在まで多くの地元研究者らにより探索が続けられてきたにもかかわらず、倉庫跡の礎石しか発見されていないことから、高安城の性格は大野城や阿志岐山城等とは異なるようです。
九州王朝における典型的な山城に「神籠石」山城があります。その特徴は次のような点にあり、首都(太宰府)や国府の近傍、交通の要衝に位置し、軍事要塞としてだけではなく、「逃げ城」としての機能を併せ持っています。
〔神籠石山城の特徴〕
①一段列石により山頂や中腹を囲繞している。
②その内部に水源を持ち、その排水施設として水門が列石に付随している。
③内部から倉庫遺跡が発見される例が多い。
④『日本書紀』など近畿天皇家側史書に、その存在が記載されていない。
神籠石山城ではありませんが、大野城は②③の特徴を持ち、国内最大というその規模から、太宰府の人々(都民)をも収容することを目的としていると思われます。
ところが、こうした神籠石山城の特徴を高安城は有していないのではないでしょうか。そもそも、難波副都からは距離があり、数万人ともいわれる「副都民」が大挙して避難できる場所とは考えにくいのです。したがって、高安城の目的は要塞的軍事施設というよりも、正木さんが指摘されたように、「高安の城は生駒山地の高安山(標高四八七m)の頂にあり大阪平野・大阪湾から明石海峡まで見通せる。
これは唐・新羅が『筑紫から瀬戸内を超え、難波まで攻め込んでくる』ことを想定した防衛施設」であり、「逃げ城」というよりも「監視施設」だったのではないでしょうか。従って、防御のための城壁や籠城のための水源も必要なかったので、それらの遺構が発見されていないのではないかと思われるのです。
四、「壬申の乱」での高安城
高安城が難波副都防衛のための「監視施設」とする仮説を支持する史料根拠があります。『日本書紀』天武紀に見える次の記事です。
「是の日に、坂本臣財等、平石野に次やどれり。時に、近江軍高安城にありと聞きて登る。乃ち近江軍、財等が来たるを知りて、悉くに税倉を焚やきて、皆散亡す。仍よりて城の中に宿りぬ。會明あけぼのに、西の方を臨み見れば、大津・丹比の両道より、軍衆多さわに至る。顕あきらかに旗幟見ゆ。」『日本書紀』天武元年(六七二)七月条
「壬申の乱」の一場面ですが、高安城を制圧した天武軍(坂本臣財ら)が翌朝に大津道と丹比道から進軍する近江朝軍を発見したことが記されています。この記事から高安城が「監視施設」の機能を有する位置にあることがわかります。
なお、この記事には続きがあり、進軍する近江朝軍に対して坂本臣財は高安城を出て交戦しますが、「衆少なくして距ぐこと能わず」退いたと記されています。すなわち、高安城には大軍がいなかった(宿営できなかった)ようです。せいぜい「守備隊」程度の兵士が高安城に「見張り番」として通常は置かれていたと思われます。この推定が正しければ、高安城は、大規模な大野城や「神籠石」山城とは目的が異なっていることになります。恐らく高安城の性格は難波副都の地勢に対応したものと思われます。
拙論「『要衝の都』前期難波宮」(注②)にて詳述しましたが、九州王朝の副都として前期難波宮が造営された上町台地は、後に石山本願寺や大阪城が置かれたように、歴史的にも有名な要衝の地です。三方を海や河内湖に囲まれているため、南側の防御を固めればよく、しかも上町台地北端の最高地付近に造営された前期難波宮は、周囲からその巨大な容貌を見上げる位置にあり、王朝の権威を見せつけるのにも適しています。
したがって、このような難波副都防衛のために高安城に「見張り番」を常駐させれば、瀬戸内海からの海上船団や南から難波大道を北上する軍事集団を発見することが可能です。すなわち難波副都にとって必須である南の守りの一環として高安城を築城したと考えることができるのです。
五、九州王朝系近江朝が築城
「九州王朝の高安城」と銘打った本テーマを文献史学の視点から考察してみますと、新たな問題点が見えてきます。その一つは高安城の初見が『日本書紀』天智六年(六六七)条であることです。
通説では白村江戦(六六三)の敗北により、大和朝廷が防衛の為に高安城などを築城したとされています。九州王朝説によれば九州王朝(倭国)が自国防衛のために築城したと理解するのですが、従来の九州王朝研究では首都太宰府防衛とは無関係な屋嶋城や高安城の築城はほとんど取り上げられてきませんでした。ところが、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に基づき、屋嶋城や高安城も九州王朝による難波副都防衛のための九州王朝による築城とする正木説が登場したわけです。
ここで着目すべきは、天智六年(六六七)という築城年次です。近年、正木さんが発表された「九州王朝系近江朝廷」説(注③)によれば、このとき九州王朝の天子薩夜麻は唐に囚われており、高安城築城の翌年(六六八)に天智は九州王朝(倭国)の姫と思われる倭姫王を皇后に迎え、九州王朝の権威を継承した九州王朝系近江朝廷の天皇に即位します。そうすると、高安城の築城は天智によるものとなり、それは難波副都の防衛にとどまらず、近江「新都」の防衛も間接的に兼ねているのではないかと思われるのです。
その結果、高安城築城主体について、太宰府(倭京)を首都とする九州王朝(倭国)とするよりも、九州王朝系近江朝廷(日本国)の天智によるものではないかという結論に至ります。そしてこの論理性は、同じく天智紀に造営記事が見える水城や大野城などの造営主体についても九州王朝系近江朝の天智ではないかとする可能性をうかがわせるのです。
六、九州王朝の対唐政策転換
『日本書紀』天智六年(六六七)条の記事を初見とする高安城ですが、次の記事が『日本書紀』や『続日本紀』に見えます。
①「是月(十一月)、倭国に高安城、讃吉国山田郡に屋嶋城、對馬国に金田城を築く。」天智六年(六六七)
②「天皇、高安嶺に登りて、議はかりて城を修めんとす。仍なお、民の疲れたるを恤めぐみたまいて、止やめて作らず。」『日本書紀』天智八年(六六九)八月条
③「高安城を修つくりて、穀と塩とを積む。」『日本書紀』天智九年(六七〇)二月条
④「是の日に、坂本臣財等、平石野に次やどれり。時に、近江軍高安城にありと聞きて登る。乃ち近江軍、財等が来たるを知りて、悉くに税倉を焚やきて、皆散亡す。仍よりて城の中に宿りぬ。會明あけぼのに、西の方を臨み見れば、大津・丹比の両道より、軍衆多さわに至る。顕あきらかに旗幟見ゆ。」『日本書紀』天武元年(六七二)七月条
⑤「天皇、高安城に幸いでます。」『日本書紀』天武四年(六七六)二月条
⑥「天皇、高安城に幸す。」『日本書紀』持統三年(六八九)十月条
⑦「高安城を修理す。」『続日本紀』文武二年(六九八)八月条
⑧「高安城を修理す。」『続日本紀』文武三年(六九九)九月条
⑨「高安城を廃やめて、その舎屋、雑の儲物を大倭国と河内国の二国に移し貯える。」『続日本紀』大宝元年(七〇一)八月条
⑩「河内国の高安烽を廃め、始めて高見烽と大倭国の春日烽とを置き、もって平城に通せしむ。」『続日本紀』和銅五年(七一二)正月条
⑪「天皇、高安城へ行幸す。」『続日本紀』和銅五年(七一二)八月条
以上の高安城関係記事によれば、白村江戦(六六三)の敗北を受けて、近江朝にいた天智により築城され、九州王朝から大和朝廷へ王朝交代が起こった大宝元年(七〇一)に廃城になったことがわかります。こうした築城と廃城記事の年次が正しければ、次のことが推測できます。
①九州王朝が難波に前期難波宮(副都)を造営したとき、海上監視のための施設を高安山に造営しなかった。
②このことから、三方が海や湖で囲まれている前期難波宮の地勢のみで副都防衛は可能と九州王朝は判断していたと考えられる。
③すなわち、前期難波宮では瀬戸内海側からの敵勢力(唐・新羅)侵入を現実的脅威とは感じていなかった。あるいは前期難波宮造営当時(白雉年間、伊勢王の時代〔正木説〕)は唐や新羅との対決政策は採っていなかった。
④白村江戦の敗北後に金田城・屋嶋城・高安城を築造したとあることから、その時期(白鳳年間、薩夜麻の時代)は唐・新羅との対決姿勢へと九州王朝は方針転換していたと考えられる。この白雉年間から白鳳年間にわたる九州王朝(倭国)の外交方針(対唐政策)の転換については正木裕さんが既に指摘されている(注④)。
⑤文武天皇の時代になっても高安城は修理されていたが、王朝交代直後の大宝元年に廃城とされていることから、近畿天皇家は高安城による海上監視の必要性がないと判断したと考えられる。しかも、前期難波宮は朱鳥元年(六八六)に焼失しており、守るべき「副都」もこのとき難波には無かった。
⑥廃城後の高安山には「烽」が置かれていたが、それも廃止され、他の「烽」に置き換わった。このことから、海上監視よりも連絡網としての「烽」で藤原京防衛は事足りると大和朝廷は判断したことがわかる。
以上のような推論が可能ですが、そうであれば高安城は九州王朝系近江朝により築城され、七〇一年に王朝交代した大和朝廷により廃城されたとする理解が成立します。これ以外の理解も可能かもしれませんが、現時点ではこのような結論に至りました。
(二〇一八年八月十七日、筆了。初出「洛中洛外日記」より加筆修正)
(注)
①服部静尚「関から見た九州王朝」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収)
②古賀達也「『要衝の都』前期難波宮」(『古田史学会報』一三三号、二〇一六年四月)
③正木裕「『近江朝年号』の実在について」(『古田史学会報』一三三号、二〇一六年四月)
④正木裕「王朝交代 倭国から日本国へ (2)白村江敗戦への道」(『多元』一四四号、二〇一八年三月)
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