須恵器窯跡群の多元史観 -- 大和朝廷一元史観への挑戦 (会報144号)
九州王朝の都市計画 前期難波宮と難波大道
古賀達也
(会報146号)
古田先生との論争的対話 「都城論」の論理構造 (会報147号)
律令制の都「前期難波宮」
京都市 古賀達也
(1)「天武朝」造営説の難問
前期難波宮九州王朝副都説への反論(対案)が、これまでの論争を通して、ほぼ前期難波宮「天武朝」造営説に収斂してきたように感じています。前期難波宮のような巨大宮殿が白村江戦以前の九州王朝(倭国)の興隆期に、九州王朝の配下である近畿天皇家の孝徳の宮殿と見なすことへの不自然さのためか、造営時期をより新しい天武の時代と見なし、その頃であれば九州王朝よりも近畿天皇家の勢力が優勢と考え、前期難波宮を近畿天皇家(天武天皇)の宮殿と理解することができるという見解です。
しかし、この「天武朝」造営説には避け難い難問がいくつもあります(注①)。本稿では新たに「天武朝」に律令があったとするのかという問題を指摘します。一元史観論者であればことは簡単で、「近江令」や「浄御原令」が近畿天皇家には存在したとする理解で問題はありません。ところが、わたしたち古田学派は、七〇一年以前の「近江令」「浄御原令」の内実は九州王朝律令であり、近畿天皇家の律令は大宝律令に始まるとする古田説を支持しています。そして、この古田説は前期難波宮「天武朝」造営説と両立できないのです。
(2)矛盾する「天武朝」造営説
大和朝廷の巨大宮殿、平城宮や藤原宮は朝堂院様式の中央官庁群を有しており、大宝律令・養老律令に基づく数千人(服部静尚さんの計算によれば約八千人)の官僚がそこで政務に就いていたことを古田学派の論者も反対できないでしょう。とすれば、平城宮・藤原宮と同規模の朝堂院様式の宮殿である前期難波宮でも律令による官僚組織が機能していたと考えざるを得ません。
したがって、古田学派の論者による前期難波宮を天武の宮殿とする理解では、先の古田説と矛盾してしまいますが、わたしの九州王朝副都説では、九州王朝律令に基づいて前期難波宮で九州王朝の官僚群が政務に就いていたとしますので、古田説と矛盾しません。
(3)「天武朝」に律令はない
七〇一年以前の近畿天皇家には律令がなかったとする古田説ですが、その根拠の一つに次の金石文の存在があります。
それは「金銅威奈大村骨蔵器」(国宝)です。江戸時代の明和年間(一七六四~一七七二)に現在の奈良県香芝市から発見されたもので、蓋と身が半球形に分かれる特殊な形です。同骨蔵器は蓋に三一九字におよぶ銘が刻まれています。これには、威奈大村が宣化天皇の子孫にあたり、「後清原聖朝(持統朝か)」のときに任官、「藤原聖朝(文武朝か)」で少納言、大宝律令制定とともに従五位に列せられ、慶雲二年(七〇五)に越後守に任ぜられるが、同四年(七〇七)に任地で歿し、大和の葛城下郡山君里、今の香芝市穴虫の地に葬ったことなどが記されています。
このように、この骨蔵器は九州王朝から大和朝廷への王朝交代直後に製造された同時代金石文で第一級史料です。その銘文に「以大宝元年律令初定」と、大宝元年(七〇一)に成立した大宝律令が大和朝廷として初めて制定した律令である旨が記されています。大宝律令を制定した文武朝の高級官僚(少納言)だった威奈大村の骨蔵器に記されているのですから、大和朝廷としての最初の律令は大宝律令であり、それ以前の九州王朝の時代には自前の律令は持っていなかったことを意味します。すなわち九州王朝説に立てば、七〇〇年以前の九州王朝の時代には、近畿天皇家も含む九州王朝(倭国)支配領域内は「九州王朝(倭国)律令」に基づいて統治されていたということになるのです。
したがって、前期難波宮の律令制に対応した朝堂院様式の官庁や東西の官衙は、近畿天皇家以外の権力者(九州王朝)が制定した律令により、その官僚群が政務に就いていたと理解せざるを得ません。ですから前期難波宮を、「九州王朝(倭国)律令」に基づいて全国統治していた官僚群がいた九州王朝の宮殿・官衙と理解する九州王朝副都説は有力な仮説なのです。
七世紀中頃における九州王朝の勢力を過小に見積もり、近畿天皇家が九州王朝よりも優勢であったかのような論調が古田学派内でも見られますが、本稿で紹介したように史料根拠に基づく論理的な歴史理解の方法、すなわち論証がもっと重視されるべきです。「学問は実証よりも論証を重んずる(村岡典嗣先生)」「論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処へ至ろうとも(岡田甫先生)」「論証は学問の命(古田武彦先生)」という言葉を、古田学派の皆さんに訴えたいと思います。
(4)前期難波宮と平城宮・藤原宮
近畿天皇家が「天武朝」のときには自前の律令を持っていなかったことを説明しましたが、前期難波宮が律令官制による統治機構を有していたとする論理性と考古学的痕跡について説明します。
まず大枠の理解として、平城宮・藤原宮と前期難波宮の規模・様式の対応という視点があります。七〇一年の王朝交代後の平城宮や藤原宮が、大宝律令・養老律令により全国統治した大和朝廷の王宮・官衙遺構であることは論を待たないと思います。そうであれば、律令官制による全国統治に必要な規模と様式を備えていたのが平城宮と藤原宮であったと理解できます。このことにも反対意見は出ないでしょう。したがって、平城宮・藤原宮とほぼ同じ規模で同じ朝堂院様式を持つ前期難波宮も「律令官制による全国統治が可能」な宮殿・官衙遺構と見なしうるということになります。
もしこの論理性に反対されるのであれば、その反対論は「律令も持たず、全国統治もしていなかった近畿天皇家が、なぜか必要もなく突然に列島内最大規模の王宮を造営した」ということになります。更に言えば、日本列島の代表王朝であった九州王朝(倭国)は自らの王宮(太宰府)よりも大規模な前期難波宮を近畿天皇家が造営したことを咎めることもなく、また造営にあたり各地から「番匠」「工人」を徴用したことも許したということになります。このような歴史解釈は、古田先生の九州王朝説を是とするわたしには到底理解も賛成もできません。
(5)前期難波宮にあった「漆部司」
前期難波宮が律令官制による統治機構を有していたとする考古学的痕跡について、更に説明を加えます。
二〇一七年一月に「古田史学の会」は、大阪府文化財センターの江浦洋さんの講演会を開催しました。そこで前期難波宮の西方官衙の北側にある「谷2」(一三層)から大量の漆容器が出土していたことを江浦さんは紹介されました。その出土層位は「戊申年」(六四八年)木簡が出土した「谷1」(一六層)に対応するもので、前期難波宮存続期間に相当する堆積地層です。この漆容器は各地から前期難波宮に納められたと思われ、その数は三千個にも及んでいます。
江浦さんが特に着目されたのが、その出土位置でした。前期難波宮の北西に位置する出土地(谷2)は前期難波宮の宮域に接しており、ゴミ捨て場として利用されたと推定されています。前期難波宮の周囲にはいくつもの谷筋が入り込んでいますが、宮域北西の谷に漆容器が大量廃棄されていることから、その付近に漆を取り扱う「役所」が存在していたと考えられます。
江浦洋さんの論文「難波宮出土の漆容器に関する予察」(『大阪城址Ⅲ』大阪府文化財センター、二〇〇六年三月)によれば、漆部司について次のように説明されています。
「奈良時代には令制官司の一つとして『漆部司』の存在が知られている。漆部司は大蔵省の被官であり、漆塗り全般を担当している。」五二二頁
「今回の調査地から本町通を挟んだ南側の市立中央体育館の跡地では、(財)大阪市文化財協会による数次の発掘調査が行われている。この一連の調査では、前期難波宮段階に帰属する建物群が検出されている。建物群は塀によって区画されており、その中から整然と配置された総柱の堀立柱建物群が検出されている。
この一画は内裏西方倉庫群、内裏西方官衙と仮称されており、すでに多くの研究者が注目し、呂大防の『長安城図』の対応する位置に『大倉』という記載とともに描かれた建物群との関連が注目され、『大蔵』に関連する施設である可能性が指摘されている。」五二四頁
「また、これも後の史料であるが、『陽明文庫』の平安京宮城図には宮城の北西隅に『漆室』と書かれた区画がある(図三二九)。これをそのまま対応させることには異論があろうが、今回の調査地が難波宮の北西隅近くに該当することは明らかであり、ここに漆を保管する『漆室』との記載がある点は看過しがたい事実であるといえる。」五二五頁
このように前期難波宮宮域北西隅の谷から大量出土した漆容器と、律令官制の大蔵省下にある漆部司、そして唐の長安城図の「大倉」や平安京宮城図の「漆室」との位置の一致は、前期難波宮が律令官制による宮殿・官衙とする有力な考古学的事実・史料事実なのです。
(6)前期難波宮は律令制の宮殿
前期難波宮の規模や様式が、律令官制に基づく全国統治機能を持った宮殿・官衙であり、大蔵省下の漆部司などの考古学的痕跡が発見されていることなどを紹介してきましたが、前期難波宮に大蔵省があった史料根拠(痕跡)もあります。その史料とは他ならぬ『日本書紀』です。前期難波宮が失火により焼失した次の記事が天武紀に見えます。
「乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉に焚(や)けぬ。或は曰く『阿斗連薬が家の失火、引(ほびこり)て宮室に及べり』といふ。唯し兵庫職のみは焚(や)けず。」『日本書紀』天武紀朱鳥元年(六八六)正月条
岩波『日本書紀』の頭注では、この「大蔵省」や「兵庫職」を次のように解説し、『日本書紀』編纂時の追記などとしています。
〔大蔵省〕後の大蔵省に相当する官司の倉庫で、難波にあったもの。省は追記であろう。
〔兵庫職〕大宝・養老令制の左右兵庫・内兵庫に相当する官司。朝廷における武器の管理・出納のことにあたった。ここはおそらく兵庫職に所属する倉庫の意で、やはり難波にあったもの。
このように一元史観の通説による解釈では、律令官制に基づく「大蔵省」「兵庫職」のことではなく、律令以前の難波にあった「役所」の「倉庫」のこととしています。
しかし、前期難波宮に大蔵省配下の「漆部司」の存在をうかがわせる考古学的痕跡が出土していることから、朱鳥元年条に見える「大蔵省」「兵庫職」は九州王朝律令に基づく官司と理解することができます。もしこれらが『日本書紀』編纂時の追記・脚色であれば、この前期難波宮焼失記事中に突然このような律令官制に基づく「大蔵省」「兵庫職」という表記が現れる理由の説明が困難です。ところが前期難波宮九州王朝副都説に立てば、考古学的出土事実と『日本書紀』の史料事実とが九州王朝律令によるものとする合理的理解が可能となるのです。すなわち、前期難波宮は律令制の宮殿だったのです。
(7)難波朝廷の「常色律令」
前期難波宮が律令制下の宮殿・官衙であり、九州王朝律令による「大蔵省」「兵庫職」や大蔵省配下の「漆部司」がその宮域に存在した痕跡や史料について説明してきました。こうした史料は九州王朝律令の復元研究に役立つものと思います。
前期難波宮にあった「難波朝廷」でどのような律令が施行されていたのか、いつ施行されたのかなど、わからないことばかりです。おそらくは大和朝廷の大宝律令に内容的に近いのではないかと推定しています。というのも、王朝交代したばかりの近畿天皇家にとって、九州王朝律令は国内では唯一のお手本でもあり、おそらくは九州王朝の官僚群の一部は大和朝廷に徴用されたり、新王朝設立に参画したと思われますので、この推定はそれほど荒唐無稽ではないと考えています。
その施行時期についても一つの試案があります。それは九州年号「常色」年間(六四七~六五一)ではないかとするものです。九州年号研究の初期段階では、九州年号に仏教に関する文字が多いことから、この「常色」も仏教に関係する「用語」ではないかと考えていました。ところが正木裕さんの研究(注②)により、この常色年間に九州王朝(倭国)で様々な制度改革や政治的事績の痕跡が諸史料に見られることから、「常色」の「常」は「のり、典法」のことであり、法律や制度を意味するという説が有力となりました。
評制(行政区画「国・評・里(五十戸)」制)が全国で開始(天下立評)されたのも、「常色」年間頃とされていますし、常色六年は改元されて白雉元年(六五二)となり、この年には国内初の朝堂院様式の巨大宮殿である前期難波宮が完成しています。こうした一連の国家的事業とともに常色年間に九州王朝(倭国)は新たな律令「常色律令」を施行したのではないかと考えています。これはまだ作業仮説(思いつき)の域を出ませんが、有力な視点ではないでしょうか。引き続き、研究を深めます。(二〇一八年二月十四日、筆了)
(注)
①次の論稿で、前期難波宮天武朝造営説が成立しないことを指摘した。
○古賀達也「前期難波宮『天武朝』造営説への問い」『東京古田会ニュース』一七六号、二〇一七年九月。
○古賀達也「洛中洛外日記」第一四八四話(2017/08/20)「7世紀の王宮造営基準尺(2)」(古田史学の会・ホームページ)
○古賀達也「洛中洛外日記」第一四八七話(2017/08/25)「7世紀の王宮造営基準尺(3)」(同前)
○古賀達也「洛中洛外日記」第一六〇三話(2018/02/11)「前期難波宮と藤原宮の『尺』」(同前)
②正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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