よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1) (その2) (その3)
複数の名を持つ天智天皇
日野市 橘髙 修
【複数の名前を持つ人物】
古代史に登場する人物には複数の名前があることは珍しくない。出世魚のように成長につれて名前を変えた人もいるし、複数の人の事績が一人に集約されたことによる場合もある。あるいは後世の人が都合がよい名前を付加したケースもあるだろう。
●聖徳太子
「聖徳太子」という名は、記・紀には一度も出てこない。古事記では上宮之厩戸豊聰耳命。日本書紀では厩戸皇子・豊耳聰聖徳・豊聰耳法大王・法主王・厩戸豊聰耳皇子などさまざまである。「厩戸」と「豊聰耳」が主流で、誰がいつ「聖徳太子」と呼ぶようになったのだろうか。後世の人が都合の良い名前を付加したケースかもしれない。
●大国主命
出雲の大国主命は、古事記だけでも大国主神・大穴牟遲神・葦原色許男神・八千矛神・宇都志国玉神と五つの名前が列挙されている。それぞれに輝かしい説話がある。ひとりひとりが出雲国に君臨した王であり、彼らをあわせて大国主神あるいは大国主命と呼んでいるのだとすると、歴代の著名な王の事績を大国主命に集約したということになる。
【天智天皇の六つの名】
七世紀の天智天皇にも多くの名前が残されている。天智天皇の他、天皇名としては天命開別天皇・近江宮御宇天皇、皇子時代の名前では葛城皇子・中大兄・東宮開別皇子(単に開別皇子とも)、ざっと探しただけでも六つの名前を見つけることができる。天智天皇を指す複数の名前から少しだけ古代史の秘密に迫ってみたい。
●天智天皇
「天智」は淡海三船が八世紀後半に撰進した漢風諡号といわれている。したがって、日本書紀の原文に出てくるわけではない。一見すると天の智を兼ね備えた名君という意味を持った名前かと思われるが、それほど単純なことではなさそうだ。
中国史では「天智」と言えば殷(商王朝)最後の王で中国史上最も暴虐な君主といわれる紂王の天智玉てんちぎょくのことをさす。森鴎外は『帝諡考』で天智の名の由来について真っ先に『逸周書』世俘解に記された、周の武王に滅ぼされる時に紂王が身に着けていた天智玉を焼き捨てようとした説話、を取り上げている。淡海三船がその説話について知らないはずはないので、酒池肉林などで知られる悪徳の王のイメージが強い紂王を意識した諡号であると思われる。淡海三船が天智天皇の子孫だということで美化した名前を付けたに違いないと速断することは危険であろう。『逸周書』の記述から、滅ぼされた悪徳の殷の紂王を天智に、滅ぼした周の武王を天武に擬えて漢風諡号を付けたという説もあるという。したがって「天智」については徳を失い王朝を滅亡に導いた天皇という意味をもっている可能性も考えねばならない。
●天命開別天皇
日本書紀に記された和風諡号である。普通に解釈すれば天命によって新たに王朝を開いた天皇ということになる。「別」の字の意味を漢和辞典で調べてみると、「本から分かれでたもの」という意味があり、原義は「肉と骨を分け離す意」とある。白村江の戦が終わった後、倭国=九州王朝から離れて分王朝を建てたという意味が含まれていると解釈することもできそうだ。
●近江大津宮御宇天皇
近江大津宮で統治した天皇という意味。日本書紀によると天智天皇は近江大津宮で即位している。『懐風藻』には淡海帝と略称で記されている。
舒明紀二年正月十二日条の葛城皇子の細注に「近江大津宮御宇天皇」、持統紀六年閏五月十五日条に「御近江大津宮天皇」とある。
●葛城皇子
舒明紀に宝皇女所生の第一子として「葛城皇子」が出てくる。舒明紀には、「一を葛城皇子」、「二を間人皇女」、「三を大海皇子」と記されている。なぜこの箇所だけ「葛城皇子」が使用されているのかは不明。舒明紀の同一ヶ所に記された異母兄の古人皇子が細注で「更名大兄皇子」とあるので、古人大兄が死去するまでは葛城皇子、あるいは二番目の皇子なので中皇子と呼ばれていたとも考えられる。
●中大兄
日本の古代史の中で、最も知名度の高い皇子名であろう。どの歴史教科書にも必ず登場する名前である。乙巳の変の首謀者であり立役者として描かれている。中臣鎌足と知己を得て蘇我入鹿の横暴に相対していくストーリーはあまりにも有名。ちなみに日本書紀にはすべて「中大兄」と記されており、「中大兄皇子」という使われ方は一度も出現していない。
日本書紀の中で「中大兄」が使われているのは以下の箇所である。
皇極紀では、中臣鎌子との出会いから乙巳の変を完遂するまで一貫して「中大兄」が使われている。
孝徳紀になると、即位前紀で中臣鎌子の言に従って即位を辞退する場面の他、大化元年九月三日条の古人大兄謀反事件の顛末で「中大兄」が登場する。
中臣鎌子とのからみの場面と暗殺事件(蘇我入鹿、古人大兄)だけで「中大兄」が使用されていることになる。その他の箇所には出現していないということは「中大兄」が登場する部分は元々の原史料が異なっていたのかもしれない。
【東宮開別皇子】
舒明紀十三年(六四一)冬十月、舒明天皇の殯宮において、「東宮開別皇子、年十六而誅之。」とある。この記事によって、推古三十四年(六二六)生まれであることがわかる。この皇子名は天智天皇の和風諡号「天命開別天皇」に合わせたのだろう。「東宮開別皇子」が使われているのはここだけである。
【皇太子】
以上のほかに日本書紀には「皇太子」と肩書だけで記されている箇所が多数見受けられる。
孝徳紀では、前述した「中大兄」となっている箇所以外は全て「皇太子」が使用されている(十九回+「太子」が一回)。
斉明紀には、有間皇子謀反事件、漏剋の製造、斉明天皇の喪の場面で「皇太子」が出てきている。
天智紀には称制時代が七年間あるので、その間は「皇太子」と記されている。(天智三年二月九日条は「天皇」と誤記。)
【ヒールとしての役割も】
日本書紀において天智天皇(中大兄)は英雄の一人として描かれているように一般的には思われている。たしかに横暴を極めた蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変は痛快である。ところが日本書記には、古人大兄、有間皇子、蘇我倉山田麻呂の三人をそれぞれ謀反の罪で葬り去った説話も記載されているが、三話とも濡れ衣であることをふくませている。英雄というよりむしろいかなる手段を使ってでも対抗勢力を排除する権力志向に凝り固まった存在として描かれているようにも感じられる。孝徳大化五年三月是月条に記された倉山田大臣謀反事件の後日譚では、倉山田大臣の資産の中で価値の高いものに「皇太子の書」、「皇太子の物」と記させて自分の所有物にしたとの記述がある。たとえ史実であったとしても日本書紀編纂者があえて取り上げなければ後世に残らずにすんだことである。「天智」が紂王の天智玉を意味していることも納得できるのである。
崇敬の部分と批判的な部分とが混在し、天智天皇の取り上げ方に対する日本書紀の編纂方針がダブルスタンダードであることを感じることが少なくない。八世紀初頭の朝廷内における天智系と天武系との確執が反映されているのであろうか。今後の大きなテーマの一つである。
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