2019年 4月10日

古田史学会報

151号

1,五歳再閏
 西村秀己

2,盗まれた氏姓改革
 と律令制定(下)
 正木裕

3,前期難波宮
 「天武朝造営」説の虚構
整地層出土「坏B」の真相
 古賀達也

4,乙巳の変は六四五年
天平宝字元年の功田記事
 服部静尚

5,複数の名を持つ天智天皇
 橘髙修

6,「壹」から始める古田史学
 十七「磐井の乱」とは何か(1)
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する (会報150号)
天平宝字元年の功田記事より (会報152号)


乙巳の変は六四五年

天平宝字元年の功田記事

八尾市 服部静尚


一、はじめに

 皇極紀四年(六四五)六月に、当時専横を極めていた蘇我入鹿臣を、中大兄皇子が中臣鎌子連・佐伯連子麻呂等の協力を得て(三韓の調の儀式で、十二通門を封鎖して、)討ったとある。これが乙巳の変であるが、この変が五〇年後の乙未の年(六九五)とする説や、六〇年後の乙巳の年(七〇五)とする説が提起されている。しかし三項に示す続日本紀の記事から、日本書紀に記載通りの七世紀中頃の出来事であることを述べる。

 

二、六九五年説の根拠

 六九五年説を推す西村秀己氏は、当会報での斉藤里喜代氏との論議(注1)で、次を指摘(要旨)する。
(1)六四五年説の斎藤氏は「六九五年には三韓は存在しない」とする。しかし六四五年にも三国が「同時」に「調」と「表文」を倭国の「一藩国」に送ってくることはありえない。

(2)一方「十二門」は藤原宮造営より遡ることを禁止する。乙巳の変は六四五年で、日本書紀の執筆者が存在しない「十二門」を書き加えたのか、あるいは六九五年に起った事件を五〇年遡らせ、その際「新羅」を「三韓」に書き換えたのか、どちらかと言うと、もちろんあり得るのは後者である。

(3)続日本紀天平宝字元年(七五七)の乙巳功田記事は、元来「下功(子に伝えるのみ)」か「中功(孫まで伝える)」であったものを、「大功(永世)」にして欲しいとの嘆願があり、その結果「上功(曾孫まで伝える)」にしたのだと考えられる。ところが乙巳年からこの年まで百十二年もある。仮に乙巳年に古麻呂二十才でその曾孫まで全員が六十才まで生存し且つ、その世代交代が二十五年とすれば古麻呂の曾孫死亡まで百十五年である。つまり、天平宝字元年は曾孫死亡予定年まであと三年。つまり、元々「中功」だったとしても、それが失効して二十二年も経っている。相当好条件で計算しても、この年古麻呂を「上功」にする意味が殆どないのである。これが実は「六九五年功」であればリアリティがある。

(4)(この間)もうひとつの乙巳年(七〇五)が挟まれる。とすればこの条の「乙巳年」は例えば「先の乙巳年」という表現でなくてはならないのではあるまいか。

(5)九州王朝説に立った場合、乙巳の変はそれほど重要な事件なのだろうか。~これが六九五年のことであれば~大いに意味がある。~その登場人物も不比等から鎌足に書き換えているはずだ。藤氏家伝に不比等伝が存在しないという摩訶不思議な理由であるまいか。

(6)日本書紀と続日本紀は九州王朝抹殺に関しては共犯関係にある。~続日本紀の証言をもとに日本書紀の記事の正当性を証明することはできないのである。

 以上六点の西村氏の指摘を検討する前に、天平宝字元年の功田記事を確認する。

 

三、天平宝字元年の功田記事

 続日本紀天平宝字元年(七五七)十二月壬子条に、大和朝廷の(乙巳以来)それまでの(国家的)報償をまとめた記事がある。過去百年以上の歴史の中で、当時の大和朝廷が重要であったと認めた(家臣の)業績がここにある。以下に私訳を示す。
◆太政官奏して曰く、「功をあらわし命を賜うは、聖典の重くするところ、善を褒め封を行うは明王の務める所なり。我が天下、乙巳(六四五年)より以來人々功を立て各封賞を得たり。但し、大功・上功・中功・下功と(田)令で指定しているが、功田を賜ったという記事にはその等級が記載されない場合があった。今、それ故にこれら昔・今を比校してその等級をはかり定める。

 大織藤原内大臣の乙巳年功田百町は大功なので世々不絶である。小紫村國連小依に壬申年功田十町、正四位上文忌寸祢麻呂と直大壹丸部臣君手に贈られた壬申年功田各八町、直大壹文忌寸智徳へ贈られた壬申年功田四町、小錦上置始連莵に贈られた壬申年功田五町は、五人ともに中功なので二世に伝えられる。
 正四位下下毛野朝臣古麻呂と正五位上調忌寸老人と從五位上伊吉連博徳と從五位下伊余部連馬養に贈られた、大寳二年の律令作成の功田各十町は四人ともに下功とし、これは其の子に伝えられる。〈以上の十條は先朝の定める所である〉
 大錦上佐伯連古麻呂に贈られた乙巳年功田四十町六段は、他(中大兄の太刀)に続いたものであって誅姦に功は有るが大功とまではならず令の上功である。三世に伝えられる。
 從五位上尾治宿祢大隅に贈られた壬申年功田四十町は、淡海朝庭の諒陰の際、(大海人皇子が)義を興し声を挙げ潜かに関東に出でし時、参じて迎え導き自らの館を行宮として併せて軍資を差し出した。その功は重く、大功には及ばないが、中功には余りある。令の上功とし、三世に伝えられる。
 大紫星川臣麻呂に贈られた壬申年功田四町と、大錦下坂上直熊毛に贈られた壬申年功田六町と、正四位下黄文連大伴に贈られた壬申年功田八町と、小錦下文直成覺に贈られた壬申年功田四町は、四人ともに戦場を駆け忠を成した功績は異なるが効果は同じである。比べるに村國連小依等に同じである。よって令の中功であり、二世に伝えられる。
 大錦下笠臣志太留に贈られた告吉野(古人)大兄密(乙巳の変と同じ六四五年)功田二十町は、この密告は証拠に基づくものでなく、大事な密告ではあったが軽重を考慮すると令の中功である。よって二世に伝えられる。
 從四位下上道朝臣斐太都の天平宝字元年(橘奈良麻呂の謀反を密告)功田二十町は、謀反を密告することにより未然に防ぎ効果は大きい。しかし一人の通報によるものではないので令の上功である。三世に伝えられる。
小錦下坂合部宿祢石敷功田六町は、奉使唐國漂著賊洲したことによるもので、功とまでは言えない。令の下功であり其の子に伝えられる。
 正五位上大和宿祢長岡と從五位下陽胡史眞身に贈られた養老二年修律令功田各四町、および外從五位下矢集宿祢虫麻呂と外從五位下鹽屋連古麻呂に贈られた同年功田各五町と正六位上百濟人成同年功田四町は、五人ともに刀筆を持って律令の条文を刪定しその功は多いのだが、難事を正すものではない。比べるに下毛野朝臣古麻呂等に同じである。令の下功とし、其の子に伝えられる。〈以上十四條はここに定める所である〉

 

四、考察

 ここで、西村氏の六点の指摘について検討する。
(1)氏は、六四五年に三国が「同時」に「調」と「表文」を倭国の「一藩国」に送ってくることはありえないとする。おそらく氏はこれが九州王朝下の(近畿天皇家の)小国が舞台であると見られているようだ。しかしこれが九州王朝内で(後の近畿天皇家の関係者間で)起きた事件と考えるとどうか。孝徳紀のこの年七月には、三韓の使いが来て進調する記事がある。ほぼ同時代の隋書には「新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。」と記載するので、十分ありうることである。

(2)乙巳の変は六四五年であって、日本書紀の執筆者が存在しない「十二門」を書き加えたのか、あるいは六九五年に起った事件を五〇年遡らせ、その際「新羅」を「三韓」に書き換えたのか、どちらも可能性はある。
 太平御覧に「史記に曰く、大梁城有十二門」、旧唐書巻二十二に「置九州於一宇。堂周回十二門」等々、当時の人にとって藤原宮でなくとも宮城十二門であると思い込む可能性はある。

(3)氏は、天平宝字元年の乙巳功田記事で、(乙巳の変が六四五年であれば)佐伯連古麻呂をこの年に上功にする意味が殆ど無いとする。しかし、三項傍線部の通り古麻呂子孫よりの嘆願によるものとはされていない。

 この太政官奏は「過去の褒賞記事をみると、等級の記載のあるもの(十件)もあるが、記載のされていないものもある。記載のなかった十四件について大・上・中・下をあらためて査定した。」ものであって、この時期が各功の有効期間内かどうかは関係しない。
 ちなみに坂合部宿祢石敷の場合は、斉明五(六五九)年遣唐使の功を其の子にのみ伝えると言う査定だ。笠臣志太留の功も、これは乙巳の変と同じ年であって、古麻呂の場合の三世よりも短い二世に伝えると言う査定だ。氏の論理で言えば、はるかに意味が無いことになる。

(4)氏は、例えば「先の乙巳年」という表現でなくてはならないとする。しかし同記事(傍線部)に「我が天下、乙巳より以來人々功を立て各封賞を得たり」とある。氏の表現を適用すると「我が天下、乙巳(七〇五年)より以来(七五七年まで)人々功を立て各封賞を得たり」となる。古人大兄の事件・坂合部宿祢石敷の遭難・壬申の乱もこの間に含まれない。

(5)日本書紀も続日本紀も近畿天皇家が造った史書である。その近畿天皇家にとって、天平宝字元年の功田記事が示すとおり、乙巳の変は重要な事件であったということであろう。後の天智天皇他の地位基盤をつくる上で、近畿天皇家が七〇一年以降の列島支配者となる上で、乙巳の変での入鹿誅殺は欠かせない事件であったのだろう。
 氏の言う、不比等から鎌足に書き換えたと言う話は、乙巳の変が五〇年後もしくは六〇年後のものであるとの証明が前提にあって後の研究課題であろう。

(6)氏は、日本書紀と続日本紀は九州王朝抹殺に関しては共犯関係にあるのだから、続日本紀の証言をもとに日本書紀の記事の正当性を証明することはできないとするが、乙巳の変は近畿天皇家にとっては重大な事件であるが、九州王朝史の本筋からは外れた話と考えられる。故に共犯する動機が無い。

 以上、続日本紀天平宝字元年の功田記事が、「乙巳の変は日本書紀に記載通りの七世紀中頃の出来事である」ことを証明する。

 

(注1)古田史学会報№一〇三『入鹿殺しの乙巳の変は動かせない』斉藤里喜代、および№一〇四『乙巳の変は動かせる』西村秀己


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