2019年 2月12日

古田史学会報

150号

1,太宰府条坊の存在は
そこが都だったことを証明する
 服部静尚

2,『後漢書』
「倭國之極南界也」の再検討
 谷本 茂

3,『論語』
二倍年暦説の史料根拠
 古賀達也

4,新・万葉の覚醒(Ⅱ)
万葉集と現地伝承に見る
「 猟に斃れた大王」
 正木 裕

5,稲荷山鉄剣象嵌の金純度
蛍光X線分析で二成分発見
 肥沼孝治

6,〈年頭のご挨拶に代えて〉
二〇一九年、新年の読書
古田史学の会・代表 古賀達也

 

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乙巳の変は六四五年 -- 天平宝字元年の功田記事 (会報151号)

YouTube服部静尚 講演 大化の改新(参考)
 その1、関に護られた難波宮  その2、難波宮の官衙に官僚約八千人  その3、条坊都市はなぜ造られたのか


太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する

八尾市 服部静尚

一、はじめに

 律令政治を行うのに、
①法律(律令)の整備、
②官僚の任命、
③官僚が働く官庁の建立、
④官僚とその家族が生活する住居と町が必須である。

 藤原京や平城京をみると、③の中央官庁は主に「宮域」に配置され、④の住居は条坊内に与えられる。発掘によって(注1)、彼らの住居と、その生活を支えるインフラが条坊内にあったことが報告されている。そして養老律令によると中央官僚は九千人強を数える。(注2)
 条坊造成の主目的として他に考えられないので、逆にそれだけの規模の条坊があったのなら、そこに都があったという証拠になる。これを太宰府に当てはめ検討する。

二、太宰府条坊

 観世音寺古文書(平安後期の文書)には「左郭九條十二防」「右郭廿二條三防」などの表記がある。これを受けて一九三七年鏡山猛氏によって東西各十二条、南北二十二条の条坊域が想定された(注3)。以来、多くの太宰府条坊復元研究が行われてきた。
 井上信正氏(注4)は、一区画九〇m四方の条坊プランを発表し、このプランに合致する区画遺構の検出が相次いでいるとする。政庁Ⅱ期・Ⅲ期の条坊範囲は、文献にあらわれる最大数、南北二十二条、左郭十二坊・右郭八坊の計二十坊を提唱する。
 ちなみに、藤原京(注5)では、五三〇m四方(これを四分割する)の十坊十条説が提示されており、平城京(注1)では、五三〇m四方(これを四×四の十六分割する坪を設定)の異形九条八坊・十一坊が確認されている。後の時代の一町は三六〇尺(約一〇九m)、この一区画五三〇m四方で道幅を考慮すると一坪が一〇九m四方の一町となる。
 一方、太宰府条坊井上説の一区画九〇m四方は、一町を三〇〇尺としたのか、あるいは一尺二十五㎝の三六〇尺であったとも考えうる。
 以下、井上説で九〇m四方を一町として(平城京の一町のほぼ半分の面積となるが)考察する。

菅人居住地の分布図

官人居住地の分布図

位階による官人居住地の分布を示したもの。平城宮に近いほど位階の高い人物が
集まっている。 
※図中の数字は平城京に居住したことが特定できる人物につけられた通し番号。ちなみに1は、藤原不比等。

 

三、家地授与基準

◆(天武十二年)又詔曰「凡そ都城宮室は、一處でなく必ず両つ参つ造るものである。故に先ず難波に都を造ろうと思う。よって百寮はそれぞれ難波に往って家地をもらい受けよ。」
 律令政治を担う百寮(官僚)は、仕事場である宮域の中央官衙へ通勤するための家地をもらったのだ。

◆(舒明紀八年の詔)「郡卿及び百寮(中略)卯の時(五時)始めに朝りて、巳の時の後(十一時)に退く。よって鍾を以て節と為す。
 彼らには早朝の出勤が課せられていた。当時は一部を除いて徒歩での通勤であるから、通勤時間を考えると官衙から遠くとも六㎞程度の距離が限界であろう。そのため条坊を整備し、家地(現代で言う官舎)が左記の通り支給されたのだ。(図1)に平城京で官僚に与えられた家地を示し、通勤経路の例を示す。

 家地を与える基準が持統紀にある。

◆(持統五年)詔曰「賜右大臣宅地四町、直廣貳(四位)以上二町、大參(五位)以下一町。勤(六位)以下至無位、隨其戸口、其上戸一町・中戸半町・下戸四分之一。王等亦准此。」

 続日本紀には平城京での家地授与基準の記載はないが、発掘史料より推察されたのであろう、千田稔氏(注6)は次のように示す。
 三位以上四町、四位・五位一町、六位一/二町、六位~七位一/四町、七位一/八町、七位~八位一/十六町、八位一/三十二町、無位一/六〇町。

又、(後期)難波京での家地授与基準が続日本紀に出てくる。
◆(天平六年九月条)班給難波京宅地。三位以上一町以下。五位以上半町以下。六位以下四分一町之一以下。

 これをみると、時代を経るに従って基準が変化している。官僚人員が増大して、同じ基準では条坊面積が足りなくなったのであろうか、あるいは一度与えた家地が既得権益になって退官後の回収ができなくて、条坊面積が足りなくなったのであろう。

 

四、太宰府条坊は何のために造られたのか

 養老律令によると太宰府駐在官僚は合計五〇人、彼らに与えられるべき家地を計算し、京の中央官僚に与えられるべき家地と比較する。大宰府駐在官僚とその身分は次の通り。
◆養老律令 大宰府条
帥一人(従三位)。大弐一人(正五位)。少弐二人(従五位下)。大監二人(正六位下)。少監二人(従六位上)。大判事一人(従六位下)。大典二人(正七位上)。少判事一人(正七位上)。大工一人(正七位上)。防人正一人(正七位上)。主神一人(正七位下)。博士一人(従七位下)。少典二人(正八位上)。少工二人(正八位上)。陰陽師一人(正八位上)。医師二人(正八位上)。算師一人(正八位上)。防人佑一人(正八位上)。主船一人(正八位上)。主厨一人(正八位上)。判事大令史一人(大初位上)。判事少令史一人(大初位下)。防人令史一人(大初位下)。史生二〇人。合計五〇人

 彼らに与えられる家地を右記の(同じ養老律令の時期の)千田氏の授与基準で算出する。併せて京の中央官僚に与えられる家地を(表1)および(表2)に計算する。
 養老律令の有位の中央官僚定員から算出した必要家地は約三〇〇町、これに対して大宰府駐在官僚の方は約十一町となる。ところが、井上案の大宰府条坊は一町九〇m四方として四四〇町だ。大宰府駐在の官僚家地を支給するための条坊であれば、四〇分の一の条坊で良い。これが都であれば、必要家地約三〇〇町に対して四四〇町なので、丁度良い。十一町の(地方)官僚家地のためには、こんな条坊は要らないのだ。
 条坊は官衙で働く官僚およびその家族と生活を支える住居・インフラ整備のために造られたという、非常に簡単な原理原則でみると、太宰府が都だったことは自明だ。つまり、太宰府条坊の存在は、太宰府が都だったことを証明する。

(表1)養老律令での優位の中央官僚の定員と、太宰府駐在官僚

表1養老律令での優位の中央官僚の定員と、太宰府駐在官僚

(表2)必要家地の計算

(表2)必要家地の計算

 

(注1)「発掘で明らかになった平城京の形」田辺征夫、別冊太陽『平城京』千田稔監修二〇一〇年

(注2)「古代の都城―宮域に官僚約八千人―」服部静尚、古田史学会報一三六号二〇一六年

(注3)「大宰府遺跡」鏡山猛一九七九年によると、氏が九州大学の卒業論文『西都条坊考』で発表。

(注4)「大宰府条坊区画の成立」井上信正、『考古学ジャーナル』五八八、二〇〇九年

(注5)「日本古代都城制の研究」井上和人二〇〇八年吉川弘文館に、中村太一・小澤毅説として紹介。

(注6)「平城京の風景」千田稔著、上田正昭監修一九九七年


 これは会報の公開です。

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