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『後漢書』「倭國之極南界也」の再検討
神戸市 谷本 茂
一、「倭國之極南界也」の読み方について
范曄『後漢書』(五世紀前半中頃に成立)巻八十五・東夷列伝第七十五・倭の条に、
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
と独自の価値ある情報が記載されていることは周知の史料事実である。
ここの「倭國之極南界也」の読(訓)み方については、江戸時代の研究者以来現在まで、通説は、「也」を「ナリ」と断定の助辞とみなし、「倭奴國」=「倭國の極南界」と理解してきた。
たとえば、倭刻本正史『後漢書』(江戸時代・十八世紀刊・汲古書院復刻)では、「倭國ノ之極南界ナリ也」と訓じ、松下見林『異称日本伝』(十七世紀後半刊)では、「倭ハ國ノ之極南界ナリ也」と訓じている。
中国や台湾においても、たとえば、中華書局の標点本(一九六五年刊第一版二刷)や「諸子百家・中国哲学書電子化計画」(インターネットのサイト)で、「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。」と句読点を打ち、「也」を断定の助辞と解していることが分かる。
岩波文庫『新訂 魏志倭人伝 他三篇』(一九八五年)においては、「建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす。」と読んでいる。
これらの理解に対して、古田武彦氏が「倭国の南界を極むるや、光武賜うに印綬を以てす」との見解(読み方)を提示された。これにより、「裸国・黒歯国」が「南界」であり、「倭人の世界がそこまで広がっている」という認識から、その情報に対して光武帝が「金印」を倭奴国へ授与したのである、との理解を示されたのであった。著書では、『古代通史』(原書房・一九九四年十月刊 二三二~二三六頁)や『古代史の未来』(明石書店刊・一九九八年二月刊 八四~八五頁)以降に力説されている。漢文の読(訓)み方は、文法的・用字的に、従来説も古田氏説も両方可能なので、内容的な整合性を再検討する。
二、文脈上で自然に理解できるか?
最初に古田氏の「新解読」を知った時に、文脈上の自然な理解が難しい、と率直に疑問に思ったのは、「倭國之極南界也」の前に「裸国・黒歯国」の説明が無い文章構成であることだ。版本(百衲本・岩波文庫に影印掲載)で十行後に出てくる国々を「南界」の実態と読み取れと読者に要請するのは、本文の理解のさせ方として、困難なのではないかと思える。
「裸国・黒歯国」の説明文の直ぐ後に本件の記述が続いていれば分かり易いはずなのに、范曄は何故このような記載の順番にしたのか、理解に苦しむのである。
本件の記述の十行後の記載は、「自朱儒東南行舩一年 至裸國黒歯國 使驛所傳極於此矣」である。用語の点からは、「裸国・黒歯国」は、「使驛が伝えるところが極まる領域」ではあるが、倭の国とは別の国であり、あくまでも倭人からの伝聞情報なのであり、中国側はその友好・支配関係や中国との服属関係を直接確認できていない存在である。古田氏は、この部分の「極」(きわまる・自動詞の用法)を本件の「極」(きわめる・他動詞の用法)と関連するものと考え先の「新解読」に至ったものである。
ここで「極」の字を『後漢書』全体で検索してみると、粗い調査ながら、「中国哲学書電子化計画」の武英殿本テキストでは、二百二十四個使われている。ちなみに、「南界」は五箇所、「印綬」は百四十四箇所出現している。
「極」は、形容詞・副詞用法および名詞用法が圧倒的に多く、動詞用法では、自動詞の用法が多くて、他動詞の用法は極めて僅か(極天下之麗、極侈など)である。文法的には古田氏の読解は可能だが、用字の状況証拠としては可能性が低いのではないだろうか。しかし、これはあくまでも用法の印象論でしかないので、以下、具体的に問題点を検証していく。
三、当時の後漢に「裸國・黒歯國」の情報があったか?
問題は、当時の後漢(一世紀~三世紀初め)の同時代(または直後の)史料(范曄より前の所謂「七家後漢書」あるいはその源になったような史料)に「裸國・黒歯國」の情報が存在したのか?という点であろう。古田氏は、《范曄の“見た”後漢代(光武帝当時)の史料には、「倭国の使者の『伝』としての裸国・黒歯国の情報」 「光武帝の倭国に対する金印授与」 この両者が、なんらかの「因果関係」をもって記載されていたものとみられる》と想定されたが、この件に関して「別論文に詳述する」としながらも、詳細は提示されずじまいであった。
私見では、この想定の蓋然性は非常に乏しいと思われる。
陳壽『三国志』巻三十の東夷列傳(序)に、景初時期(二三七年~二三九年)になって、東夷諸国の情報が増えたので、これらの最新情報を「前史のいまだ備わざるところに接す」と明記してある。陳壽のいう「前史」が、『史記』、『漢書』、三世紀後半当時存在した(范曄の著作ではない)『後漢書』を指すことに異論は無いと思う。したがって、『三国志』魏志・東夷列伝・倭人の条に詳しく記載されている(女王國より南四千餘里にして至る)朱儒國や(朱儒より東南に船を行ること一年の)裸國・黒歯國の情報は「前史」に記載されていたが敢えて『三国志』に陳壽が重複して採用したとの想定は成立する余地は無いように思う。また、「短里」と思われる「四千餘里」が朱儒國への行程として記載されていることも、この情報が(一世紀の)後漢時代にもたらされていたと想定することを拒否している。
范曄『後漢書』の「裸國・黒歯國」記事は、范曄が後漢時代からその情報が存在したと見做して、陳壽『三国志』の倭人伝の記事に依拠して要約し記載した可能性が高いと考えられる。なお、范曄『後漢書』東夷列伝の倭の条で、後漢時代の独自記事として確実な価値を有するのは、建武中元二年、安帝永初元年、「東鯷人」の部分であろうが、「その大倭王は邪馬臺國に居る」、「倭面土國(地)」、「桓・霊の間倭國大乱」、「拘奴國」の位置などは、俄かに情報の源初性あるいは信頼性の正否を判断できない。
四、印綬の記事には特別な理由が必要か?
古田氏の「新解読」への主な動機は、
①「倭奴國」(博多湾岸周辺)が倭の「極南界」であるはずがない。
②印綬を下賜する特段の理由が記載されていない。
③「極」は「地の果て」を示す概念である。という三つであった。
①は、当時(一世紀中頃)の博多湾岸周辺領域が「倭」の南端領域であったのかどうかは、別途検討しなければならない問題であり、最初から、「博多湾岸をもって「極」と指ししめすこと、それはおよそ理解不能なのではあるまいか」とされるのは、(③の理解とも関係しているが)僭越ながら、古田氏の思い込み(先入見)である。「倭奴国=極南界」の解読からは、逆に、“当時(一世紀中頃)の「倭」の領域が(朝鮮半島南部から筑紫北部にかけての海峡を主とする)比較的狭い領域だったのではないか”という仮説が措定できる。私見では、この情報の方が重要ではないかと考えられるので、古田氏の「新解読」は、この重要な情報を欠落させかねない理解であり、賛同することはできない。
②は、蕃夷への印綬下賜の記事を全数調査すれば、理由の記述の仕方が分かるのであるが、『後漢書』の印綬記事の中には、理由が特記されている例はあまり多くない。ほとんどが、国・種族への「朝貢」に対するものと個人への論功行賞の類である。情報提供や世界認識の拡大に貢献した個人への下賜例は僅かに有るものの、貢献と下賜理由が直結する形で明記されている。したがって、本件の場合も、十行後に記述されている「裸國・黒歯國」に関連する世界認識の拡大情報に対する下賜と考えるよりも、直前に記載されている「奉貢朝賀」に対する下賜と理解する方が妥当である。後漢への「朝貢」に対する「漢委奴國王」印であったと理解する方が自然であり、他の記述とも整合している。
③「極」が“地の果て”を意味するのは、名詞用法(八極、北極、南極など)の場合であり、動詞用法や形容詞用法では、“地の果て”の意味に限定はできない。古田氏が例示した『後漢書』東夷列伝・挹婁の条の「東濱大海 南與北沃沮接 不知其北所極」の記載は、挹婁の領域の認識を示すもの(『三国志』東夷伝・挹婁ゆうろうの条とほぼ同じ)であり、「極」は「その北の極まる所を知らず」とあるように自動詞用法で用いられており、“地の果て”を示す概念としては使われていない。挹婁という特定領域の北限というだけの意味である。実際、『後漢書』では“北の地の果て”には「北極」という用語が使われているのである。ここでの古田氏の解釈は明らかに妥当でない。
五、古田氏の「新解読」の背景
古田氏が「新解読」へ進まれた背景として、土佐清水市での巨石現地調査/実験(一九九三年十一月)や..メガース女史の訪日/講演(一九九五年十一月)が催されたように、「倭人の太平洋航海」のテーマが大きな課題になっていた時期であったことが関係しているように思われる。
当時の古田氏が倭人の「裸國・黒歯國」認識と「印綬」の関係を強く意識していた事は確かで、そのような情況の中で至られたアイデアのうちの一つが、本件の「新解読」であったに相違ない。しかし、今、冷静に考えると、文脈上も用語法でも無理を重ねた解読ではなかったであろうか。「倭奴國が倭の極南界である」と素直に解して、その情報の重要性を再検討すべきであると信じる。
最後に、誤解の生じないように、本稿の意図を明記させて戴く。本稿は二〇一八年九月度の関西例会にて発表した内容に加筆修正したものである。発表前後に、ある会員の方から、「(古田氏の)極南界理解を否定することは、南米の倭人の問題を否定することに連なり、古田先生の基本的なところを否定することになりかねないのでは?」という疑問のメールを頂戴した。
私見は、范曄『後漢書』の記述において、「裸國・黒歯國」の認識と「印綬」とを直結して理解する説は無理である、と主張しているだけで、「裸國・黒歯國」問題を否定する意図はまったく無い。陳壽『三国志』東夷伝の情報に大きな信頼を置いており、そこに記載されている倭周辺の国々の情報を切り捨てるのは、現代の研究者の瑕疵であると考える。
古田史学の会の中で、「いろは歌留多」にも詠まれている、「【な】南界を 極めた倭国 金印賜う」で古田氏の「新解読」に親しみ馴染んだ方も少なくないとは思うが、この歌留多の趣旨には遺憾ながら諸手を挙げて賛同を示す訳にはゆかない。しかし、東アジアとアメリカ大陸の環太平洋文化圏における古代人の交流は、今後とも新しい視点で積極的に立論していく所存である。
以上
(二〇一九年正月二十日稿了)
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