九州王朝系近江朝廷の「血統」 -- 「男系継承」と「不改常典」「倭根子」(会報157号)
松江市出土の硯に「文字」発見 -- 銅鐸圏での文字使用の痕跡か(会報157号)
造籍年のずれと王朝交替 -- 戸令「六年一造」の不成立 古賀達也(会報159号)
田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期 古賀達也 (会報162号)
称制とは何か 服部静尚(会報161号)
壬申の乱 服部静尚
(会報154号)
王朝交替のキーパーソン「天智天皇」
鹿児島の天智と千葉の大友皇子
京都市 古賀達也
一、明治天皇即位の宣命と不改常典
二〇二〇年九月の「古田史学の会」関西例会で、わたしは『続日本紀』元明天皇の即位の宣命に初めて見える「不改常典」について研究発表しました。その要旨は、天智の近江朝が九州王朝からその権威を引き継いだ宣言こそ「不改常典」の内実ではないかとするものでした。そしてそれは「禅譲」に近いものではないかと推定しました。
しかし、『日本書紀』は九州王朝の存在や、天智がその権威を継承したことを隠していますし、宣命で述べられた天智天皇が定めた「不改常典」という言葉さえも掲載していません。ですから、『日本書紀』成立後の聖武天皇や孝謙天皇らの即位宣命にも「不改常典」のことが記されてはいるものの、初代の神武天皇を近畿天皇家の権威の淵源とする『日本書紀』の大義名分と、天智天皇が定めた権威の淵源「不改常典」との関係が不明瞭です。
ところが、この天智天皇が定めた法(「不改常典」法)と『日本書紀』の大義名分の両方を含む即位の宣命があります。それは慶應四年(一八六八年)八月二十七日に発布された明治天皇の即位の宣命です(翌九月に「明治」に改元)。当該部分を紹介します。
「掛かけまくも畏かしこき近江の大津の宮に、御宇あめのしたしろしめし、天皇の初め賜ひ定め賜へる法の随ままに、仕え奉まつると仰せ賜ひ授け賜ひ」
「橿原の宮に御宇しろしめし、天皇の御おん創はじめたまへる業わざの古いにしへに基もとづき、大御世を弥いや益々に、吉よき御代と固かため成なし賜はむ」
このように、近世においても天智天皇と神武天皇の二人が皇室の歴史的権威の淵源とされていることは興味深いことと思います。
二、上皇陛下の天智天皇讃歌
明治天皇の「即位の詔勅」が宣命体であり、そこに天智天皇や神武天皇の業績が特筆されていることに驚いたのですが、天智天皇が日本国の基礎を築いたという認識が現在の上皇陛下へも続いていることを最近になって知りました。『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)の巻頭グラビア写真に当時の天皇・皇后(現、上皇・上皇后)のお歌が掲載されています。近江神宮の宮司、佐藤忠久さんが書かれたものです。
「近江神宮五十年祭にあたって
今上陛下 御製
日の本の国の基を築かれし すめらみことの古思ふ
皇后陛下 御歌
学ぶみち 都に鄙に開かれし 帝にましぬ 深くしのばゆ
近江神宮 宮司 佐藤久忠謹書(印)」
この御製御歌は、近江神宮御鎮座五〇周年(平成二年、一九九〇年)の式年大祭に際して、当時の両陛下から賜ったものと説明されています。御製に「日の本の国の基を築かれし すめらみこと」とあり、近江神宮に下賜されたものであることから、この「すめらみこと」とは天智天皇です。その天智天皇が日本国の基を築かれたという認識に、わたしは注目したのです。おそらくこれは、皇室や宮内庁の共通の歴史認識に基づかれたものと思われます。
古田先生は『よみがえる卑弥呼』(駸々堂、一九八七年)に収録されている「日本国の創建」という論文で、六七一年(天智十年)、近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を創建したとする説を発表されています。偶然かもしれませんが、この古田説と御製に示された認識が、表面的ではあれ一致しています。
三、天智天皇を祀る神社の分布
『近江神宮 天智天皇と大津京』には興味深い記事がいくつもありました。その中から天智天皇を祀る神社の分布記事を紹介します。
近藤喜博さんの「天智天皇に対する賛仰とその奉祀神社」に天智天皇を祭神とする神社を「管見の及ぶ限り」として、次の様に紹介されています。
○県社 村山神社(愛媛県宇摩郡津根村)
○郷社 鉾八幡神社(香川県三豊郡財田村)
○郷社 恵蘇八幡宮(福岡県朝倉郡朝倉村)
○郷社 山宮神社(鹿児島県曽於郡志布志町)
○村社 山宮神社(鹿児島県曽於郡志布志町田之浦)
○村社 石座神社(滋賀県滋賀郡膳所町大字錦)
○村社 皇小津神社(滋賀県野洲郡河西村)
○村社 早鈴神社(鹿児島県姶良郡隼人町)
○無格社 葛城神社(鹿児島県日置郡西市来村)
○無格社 新宮神社(鹿児島県伊佐郡羽目村)※「伝天智天皇」と称する。
○無格社 山口神社(鹿児島県曽於郡末吉町南之郷)
○無格社 多羅神社(鹿児島県揖宿郡揖宿村)
これらを県別に見ると、次の分布数になります、
□滋賀県 二社
□香川県 一社
□愛媛県 一社
□福岡県 一社
□鹿児島県 七社
近江朝廷があった滋賀県の二社は当然としても、鹿児島県の七社は異様な数です。これは鹿児島県や宮崎県に伝承されている「大宮姫」伝説に関わる神社が多いことが原因です。
四、南九州の「天智天皇」伝承
わたしが古田史学に入門し、本格的論文として最初に書いたのが「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」(『市民の古代』十集、一九八八年。新泉社)でした。これは三二歳のときの論文で、今読むと論証が甘く、学術論文としては恥ずかしいレベルですが、歴史の真実へ肉薄するという点では、大きく外れることはなく一定の役割を果たしたと思います。
同論の主旨は、鹿児島県に濃密に遺っている古代伝承の「大宮姫」(注①)は九州王朝の天子(筑紫君薩野馬)の皇后で、『続日本紀』文武紀四年(七〇〇)六月条に見える「薩末比売」のこととするもので、薩摩に落ち延びた薩野馬の事績が後に「天智天皇」として伝承されたとしました(注②)。そのことが、鹿児島県に「天智天皇」を祀る神社が多い理由と考えられます。
ところが拙論執筆の三十年後、この拙論を超える研究発表が正木裕さんからなされました。二〇一七年十二月の「古田史学の会」関西例会で発表された「『日本書紀』天智紀の年次のずれについて」において、天智が称制から正式に天皇に即位した天智七年に皇后として登場した倭姫王こそ九州王朝(倭国)の姫であり、天智は倭姫王を皇后に迎えたことにより九州王朝(倭国)の権威を継承(不改常典の成立)したのではないかとされました。そして、壬申の乱以後、倭姫王は『日本書紀』から消えますが、鹿児島県の『開聞古事縁起』(注③)に壬申の乱で都から逃げてきた大宮姫の伝承が記されており、この大宮姫こそ倭姫王ではないかとされたのです。(注④)
まだ検証中の仮説ですが、多元史観・九州王朝説による「倭姫王」や鹿児島県の「大宮姫」伝説についての最有力説ではないでしょうか。
なお、『近江神宮 天智天皇と大津京』巻末掲載の「天智・弘文天皇関連神社」によれば、次の神社が「大宮姫」を御祭神としています。
○倭しどり神社 滋賀県大津市滋賀里 祭神:不詳(伝倭姫皇后)
○山宮神社 鹿児島県曽於郡志布志町安楽 祭神:天智天皇・倭姫皇后・大友皇子・持統天皇・他
五、大友皇子を祀る神社と伝承
「天智・弘文天皇関連神社」には、大友皇子(弘文天皇)やその関係者を御祭神とする神社も紹介されています。次の通りです。
【大友皇子(弘文天皇)関連神社】
○白山はくさん神社 千葉県君津市俵田 祭神:大友皇子・日本武尊・他
由緒:創立年月日不詳。大友皇子が逃れてきて当国に築城したが、ゆえあり屠腹、放火炎上したので、天武天皇十三年に勅使が下向し、社殿を造営、皇子を祀って田原神と称したと伝えられる。本殿に接して「小櫃山古墳」があり、地元では弘文天皇御陵と伝える。房総における弘文天皇伝説の中心的な神社であり、千葉県内に関連の神社がいくつかある。
子守こもり社 (君津市 俵田字姥神) 弘文天皇の乳母を祀る
末吉すえよし神社 (君津市末吉字壬申山) 蘇我赤兄を祀る
拾弐所じゅうにしょ神社 (君津市戸崎) 伊賀采女宅子郎女を祀る
福王ふくおう神社 (君津郡袖ケ浦町奈良輪) 弘文天皇の皇子福王を祀る
大嶽おおたけ神社 (君津市長谷川) 大友皇子の随臣長谷川紀伊を祀るという
○白山はくさん神社 千葉県木更津市牛袋 祭神:大友皇子
○白山しらやま神社 千葉県市原市飯給 祭神:大友皇子
○筒森つつもり神社 千葉県夷隅郡大多喜町筒森字陵 祭神:大友皇子・十市皇女(大友皇子妃)
由緒:十市皇女が当地に逃れ、流産でなくなった所という。
○十二所神社 千葉県木更津市下郡 祭神:耳面刀自命みみめとじのみこと
由緒:当社は、大友皇子弘文帝の皇妃以下十二人の宮人を祭祀する所で、伝記によれば、弘文帝が戦(壬申の乱)に敗れて当地に潜伏していたが、西軍に襲われ、皇妃耳面刀自以下十二人は遂に自刃し果て、十二人の遺骸は土地のならわしに従って棺に納め、葬るところとなった。後世この一帯を望東郡小杞の谷、あるいは望陀郡小櫃の作(ママ)という。
○内裏だいり神社 千葉県旭市泉川 祭神:弘文天皇・耳面刀自命(弘文妃)
由緒:社伝に「弘文天皇の御妃耳面刀自は藤原鎌足の女、難を東国に避けて野田浦に漂着、病に罹りて薨ず。中臣英勝等従者十八人悲痛措く能はず、之を野田浦に葬る。今の内裏塚是なり」とあるが、この内裏塚は匝瑳郡野栄町内裏塚に現存する。従者たちが生活の場を求めて移動したとき、内裏塚の墳土を分祀したのが内裏神社といわれ、近くに大塚原古墳があって妃の従者の筆頭中臣英勝の墓とされている。泉川地区では神幸祭(通称「お浜下り」)が三十三年ごとに行われるが、神輿や山車に千人近くの従者が従い、大塚原古墳を経て内裏塚浜まで延々八キロを行進する。妃の霊をなぐさめるため、妃とその一行の上陸コースを逆にたどるものという。最近では昭和四六年十一月十日に行われた。
○大友天神社 愛知県岡崎市西大友字天神 祭神:弘文天皇
由緒:近江国志賀の住人長谷権之守の長男長谷木工允信次、白鳳年中、故あって三河国碧海郡に潜居、大友皇子のために一祠を創建奉崇し、その所在地を大友と称す。
○若宮八幡神社 岐阜県不破郡関ヶ原町藤下字自害峰 祭神:弘文天皇
由緒:当社近くの丘陵を自害峰と称し、弘文天皇の御自害の地とも、御頸を移して奉葬した処とも伝える。壬申の乱の戦場であり、藤古川をはさんで西側の藤下、山中(次項)の住民は弘文天皇を祀り、東側の松尾は、天武天皇を祀った(井上神社)。
○若宮八幡神社 岐阜県不破郡関ヶ原町山中字了願寺 祭神:弘文天皇
○鞍掛くらかけ神社 滋賀県大津市衣川 祭神:弘文天皇
由緒:壬申の乱に弘文天皇の軍は瀬田、粟津の一戦に利らず、衣川町本田の離宮に於て柳樹に玉鞍を掛け、悲壮の御最期を遂げられた。随従の侍臣等この地に帰農して、天皇の御神霊を奉斎し、子孫相伝えて日々奉仕して来た。第五十七代陽成天皇の勅命により元慶六年社殿の新営成り、はじめて社号を鞍掛と称し、今日に至る。
○石坐いわい神社 滋賀県大津市西の庄 祭神:天命開別尊(天智天皇)・弘文天皇・伊賀采女宅子媛命・他
由緒:創祀年代不詳。壬申乱後、天下の形勢は一変し、近江朝の神霊の「天智帝・大友皇子・皇子の母宅子媛」を弔祭できるのは一乗院滋賀寺のみとされ、他で祭祀するのは禁じられていた。そこで持統天皇の朱鳥元年に滋賀寺の僧・尊良法師が王林に神殿を建て御霊殿山の霊祠を還すと共に相殿を造り、表面は龍神祠として、近江朝の三神霊をひそかに奉斎した。この時から八大竜王宮と称え、石坐神社とも称した。
光仁天皇の宝亀四年、石坐神社に正一位勲一等を授けられ、「鎮護国家の神社なり」との勅語を賜っている。ここにはじめて、近江朝の三神霊が公に石坐神社の御祭神として認められたのである。
○御霊神社 滋賀県大津市鳥居川町 祭神:弘文天皇
由緒:社地を古来「隠山」というが、壬申の乱の際、大友皇子の戦没せられた故に、かく称せられたという。乱後三年目の白鳳四年、大友皇子の第二子与多王の指図により皇子の神霊を奉斎し大友宮または御霊宮と称した。
○御霊神社 滋賀県大津市北大路 祭神:弘文天皇
由緒:元来は近江国造・治田連が祖霊を祀った所という。
○羽田はねだ神社 滋賀県八日市市羽田町 祭神:弘文天皇・他
○大郡おおこうり神社 滋賀県神崎郡五個荘町北町屋 祭神:弘文天皇・十市皇女
由緒:弘文天皇崩御の地との伝えがある。
○山宮やまみや神社 鹿児島県曽於郡志布志町安楽 祭神:天智天皇・倭姫皇后・大友皇子・持統天皇・他
由緒:和銅二年、天智天皇の寵妃倭姫の草創という。天皇薩摩行幸の際、安楽の浜より御在所岳に登り開聞岳を望まれたといい、同山上に山宮を創建、帝を祀った。大同二年周辺の御由縁の神社を集めて山口六社大明神を建てた。これが山宮神社である。
以上のように大友皇子(弘文天皇)やその関係者が祀られているのですが、とりわけ千葉県に濃密分布していることがわかります。
今から三十年ほど昔のことですが、大友皇子の奥方が壬申の乱敗北後に関東まで逃げたという伝承が関東にあることを古田先生から教えていただいたことがあります。そのときは、あまり気にとめていなかったのですが、今回、こうした分布状況を知り、そのときのことを思い起こしました。多元史観・九州王朝説の視点で、千葉県の大友皇子関連伝承を研究したいものです。関東方面の方のご協力や情報が得られれば幸いです。
〔令和二年(二〇二〇)十月二日筆了〕
(注)
①『日本伝説大系⑭』所収「大宮姫」に大宮姫伝説が紹介されている。
②『三国名勝図会』第二四巻「薩摩国頴娃郡」では、大宮姫伝説を俗信として批判している。
④正木 裕「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』古田史学の会編、二〇一九年、明石書店。
これは会報の公開です。
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