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称制とは何か
八尾市 服部静尚
天智天皇および持統天皇には即位以前に称制期間がある。『日本書紀』岩波注は、称制とは「即位の式を挙げずに政務を摂ること」とし、補注は「中国では本来、天子が幼少のとき、皇太后が代わって政令を行うことを意味する言葉であったが、日本においては、天智天皇が斉明天皇の崩後に称制して、七年正月はじめて即位し、天武天皇の崩後、持統天皇が臨朝称制(朱鳥元年九月条)し、四年正月にいたって即位したことから知られるように、先帝が崩じたのち、新帝がいまだ即位の儀を行わずに執政することを称制といった。」とする。また小学館頭注は、「勅命を伝える文書を制ということから、天子の後継者が即位の式を挙げずに政務を執ることを称制という。」とそれぞれ解説する。
つまり、中国における称制と、『日本書紀』で言う称制が異なるものであるというのが通説なのだ。言葉を変えて言うと、『日本書紀』が中国と言葉は同じだが、意味が異なる称制という用語を編み出したというのである。
本当だろうか。称制とは別に、「天子に代わって政務を行う」という意味の用語として(神功皇后と聖徳太子の)摂政がある。ここでは称制と摂政ではどう違うのか、称制とは何かを併せて考察する。ちなみに摂政とは、政を佐けることを言い、まさに字義どおりである。対して称制の字義は「制を称する」であって、天子の言を制というが、天子の言ではないものを制と称することである。
一、中国における称制と摂政の例
(1)称制
称制の初出は『史記』巻九、呂太后本紀にある。「(孝恵帝の)七年秋八月戊寅孝恵帝が崩御し、~九月辛丑に太子が即位した。その元年、号令は一に太后より発せられ太后称制する。議して諸の呂氏(太后の親類)を王にしようと右丞相王陵に問うた。王陵は「高帝は『劉氏に非ずして王を名乗れば、天下共に之を撃て』と言われた。呂氏を王とすればこの命に従わないことになる」と答えたので太后は怒った。左丞相陳平と周勃しゅうぼつに問うと、『高帝は天下を平定しその子弟を王とした。今太后は称制する。兄弟の呂氏を王とするのに不可なる所はない』と答えて、太后は喜んで朝議を終えた。
◆七年秋八月戊寅,孝惠帝崩。發喪,太后哭,~九月辛丑,葬。太子即位為帝,謁高廟。元年,號令一出太后。
太后稱制,議欲立諸呂為王,問右丞相王陵。王陵曰「高帝刑白馬盟曰『非劉氏而王,天下共擊之』。今王呂氏,非約也。」太后不說。問左丞相陳平、絳侯周勃。勃等對曰「高帝定天下,王子弟,今太后稱制,王昆弟諸呂,無所不可。」太后喜,罷朝。
この呂后の例の後、前漢の王太皇太后、後漢の和熹鄧わきとう太后、かなり跳んで唐の則天武太后が称制したと、中国正史は伝える。
◆漢書:①高后紀「惠帝崩、太子立為皇帝年幼、太后臨朝稱制、大赦天下。」
漢書:②王莽伝「是為孝平皇帝。帝年九歲、太后臨朝稱制、委政於莽。」
◆後漢書:③和熹鄧皇后「元興元年帝崩~殤帝生始百日~太后臨朝」「鄧后稱制終身、號令自出」
◆旧唐書:⑩則天武后「弘道元年(六八三)十二月大帝(高宗)崩、皇太子顯即位、尊天后為皇太后。既將篡奪、是日自臨朝稱制。」
(2)摂政
『日本書紀』小学館頭注は、『蔡邕さいよう独断』に摂政という用語が用いられているので、これが『日本書紀』の摂政の語源とする。―『集解』に『蔡邕独断』の「秦漢以来、少帝位に即く。后代りて政を摂す。皇太后と称す」を引く―以下に『蔡邕独断』の該当部を示す。
◆①呂氏攝政〈八年立惠帝弟代王為文帝〉
◆帝嫡妃曰皇后、帝母曰皇太后、帝祖母曰太皇太后。其衆號皆如帝之稱。秦漢以來、
①少帝即位后代而攝政稱皇太后詔不言制漢興惠帝崩少子弘立太后攝政。
②哀帝崩平帝幼孝元王皇后以太皇太后攝政。
③和帝崩殤帝崩安帝幼和熹鄧皇后攝政。
⑤孝順崩冲帝質帝桓帝皆幼順烈じゅんれつ梁りょう皇后攝政。
⑥桓帝崩今上即位桓思竇かんしとう后攝政。后攝政則后臨前殿朝群臣、后東面、少帝西面、群臣奏事上書皆爲両通一詣太后一詣少帝」
蔡邕が示す摂政の例を中国正史では左記のように記述する。蔡邑以後の例も併せて言えば、臨朝・臨朝定策・臨朝摂万機・臨朝聴政・臨朝専政など表記に違いがあるが、摂政とは天子が存在する中で、群臣からの上奏を受けて決裁を行うことと言える。
◆後漢書:④安思閻あんしえん皇后「(帝)其夕乃發喪。尊后曰皇太后、皇太后臨朝。」
後漢書:⑤順烈梁皇后「建康元年帝崩。后無子美人虞氏子炳立是為沖帝。尊后為皇太后、太后臨朝。」
後漢書:⑥桓思竇皇后「永康元年冬,帝寢疾~及崩~無嗣~后為皇太后。太后臨朝定策。」
◆晋書:⑦明穆庾みょうぼくゆ皇后「成帝即位尊后曰皇太后。群臣奏天子幼沖、宜依漢和熹皇后故事。辭讓數四、不得已而臨朝攝萬機。」
◆魏書:⑧文明皇后「文成文明皇后馮ふう氏~顯祖即位、尊為皇太后~遂臨朝聽政。」「太后臨朝專政」
魏書:⑨靈れい皇后「宣武靈皇后胡氏~臨朝聽政」
◆旧唐書:⑩則天武后「永徽えいき六年(六六五),廢王皇后而立武宸ぶしん妃ひ為皇后。高宗稱天皇,武后亦稱天后。帝自顯慶(六五六年)已後多苦風疾。百司表奏皆委天后詳決。自此內輔國政數十年威勢與帝無異、當時稱為二聖。」
(3)称制と摂政の違い
冒頭に示したように、称制と摂政では元々持っている意味が異なる。前項に挙げた『蔡邕独断』には、「漢の天子を正式には皇帝と号して、自称する場合は朕とし、臣民は陛下と呼ぶ。その言を制詔と言う。~その命令を一に策書(札に書いた一定以上文字数の命令書)と言う、二に制書(制度の命令書)と言う、三に詔書(詔を告げるもの)と言う、四に戒書(剌史・太守への命令書)と言う。」(注1)とある。つまり、称制とは皇太后が摂政する中で、天子になり代わり、その命令を天子の命令と称することになる。
整理すると、前項の①~⑩は摂政であり、その内①②③⑩の場合は摂政であり称制でもある。
則天武后の例で考えると判りやすい。六五六年以降、高宗に代わって決裁を行っていた摂政時代から、六八三年高宗が崩御する。則天武后は、少帝を即位させて摂政を続けるが、自らの命令を制書と称する称制を行ったということになる。天子に代わって政治を行うということでは摂政も称制も同じだ。尚、則天武后は長い称制時代を終え、六九〇年正式に国号を周と改め自ら皇帝即位する。つまり、則天武后は「摂政」の後、「称制」を行い、最終的に「皇帝即位」したことになる。
二、『日本書紀』における称制と摂政
(1)摂政
『日本書紀』では神功皇后と聖徳太子が摂政であったと記述する。前者は仲哀天皇の崩御後、応神天皇が生まれるが、幼な子に代わって神功皇后が摂政として執政する、中国の例に合致する記述である。後者の場合は推古天皇が幼いわけがないので理由が不明で、しかも中国には皇太子が摂政する例が無い。しかし、存在する天子(天皇)に代わって執政するという点では整合する。
◆(仲哀)九年春二月、足仲彥天皇崩於筑紫橿日宮。時皇后、傷天皇不從神教而早崩、
(同年)十二月戊戌朔辛亥、生譽田天皇於筑紫。故時人號其産處曰宇瀰也。
(明年)冬十月癸亥朔甲子、群臣尊皇后曰皇太后。是年也、太歲辛巳、則爲攝政元年。
(応神紀即位前)皇太后攝政之三年、立爲皇太子。~攝政六十九年夏四月、皇太后崩。
◆(推古)元年夏四月庚午朔己卯、立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子、仍錄攝政、以萬機悉委焉。
(2)称制
『日本書紀』では、斉明天皇崩御後の天智天皇と、天武天皇崩御後の持統天皇が称制したと記述する。つまり、いずれの場合も天皇は存在しない。中国の例では、摂政・称制ともに天子(天皇)は存在している。天子が存在するのに、これに代わって執政すると言うのが摂政であり称制である。なぜ天智と持統の称制の場合には天皇が存在しないのだろうか。冒頭に挙げたように、これまでの歴史学者は「『日本書紀』が中国と言葉は同じだが、意味が異なる称制という用語を編み出した」と、その理由の説明を放棄する。歴史を科学と考えるなら、なぜ『日本書紀』は中国とは異なる意味で、称制という用語を用いたのか説明が不可欠である。
◆(斉明)七年七月丁巳崩、皇太子素服稱制。
◆朱鳥元年九月戊戌朔丙午、天渟中原瀛眞人天皇崩、皇后臨朝稱制。
(3)中大兄皇子の称制
中大兄皇子の称制時、別に、天子(天皇)が存在していたのだという説を初めて提起されたのが正木裕氏である。
正木氏は二〇一三年八月関西例会で発表された『薩夜麻の都督・倭国王即位と、近江朝の日本国改名(試案)』の中で、「天智元年から六年は、通常天智称制期間とされる。称制とは天子が不在の場合、事実上の天子か天子に準ずるものが代わって執政することだ。薩夜麻の帰国が天智六年十一月なら、称制期間は彼の不在期間とぴたりと一致する」と、九州王朝天子が朝鮮半島に出征して留守の期間に、中大兄皇子が称制したのだとする。
称制という用語を使う限り、先行する中国史書が用いる用語意味と同じであって、理由無く変更するはずはない。故に正木説に同意できる。
正木説では、九州王朝の天子(薩夜麻)は当時朝鮮半島および大陸に居て、これに代わって中大兄皇子が称制したとする。そして称制期間の後に、自ら即位して(九州王朝系)近江朝年号である「中元」へと改元を行ったとする。しかし、この点については次のような疑問が生じる。天子がある程度の期間出征する場合、留守役を任命して不在の間の政務を任せるのが当然であろう。留守役が天子の出征直後に、いきなり天子に代わって制書を出すとは考えにくい。古田先生によると、万葉集一九九番歌は「(前略)皇子ながら 任きたまへば(中略)大刀取り帯ばし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ(後略)」と朝鮮半島への出兵を描くとされる。
即位した天子・天皇を「皇子ながら」とは言わない。つまり九州王朝の天子は朝鮮半島に出征していないのだ。この間も列島内に九州王朝天子が存在し、それを中大兄皇子が支えていたと考えられるのではないか。
さらに、中元改元は天智天皇の即位改元とは考えられない。後漢の元号「建武」は建武三十二年に改元されて「建武中元」元年となる。この例にならえば「白鳳」から「白鳳中元」への改元とみられ、「中元」とは長く続く元号の中で区切りを持たせたという意味合いでの改元であって、当然その際に新しい天子の即位はないと考えられる。(尚、この「白鳳中元」は西村秀己氏の提起である。)
(4)鵜野讃うののさら良らの称制時、別に天子(天皇)がいた
『日本書紀』は中大兄皇子と同様に鵜野讃良も称制したと記述している。中大兄皇子の称制時に別に九州王朝の天子が存在していたとすると、当然、鵜野讃良の称制時にも別に九州王朝の天子がいたことになる。そして、この九州王朝の天子から文武天皇は禅譲を受けて、近畿天皇家の天皇として初めて即位したのである。
(5)称制は外戚による王朝交代手順の一段階
当初私は、称制という用語には天子でもないのに天子を名乗るという批判が込められていると考えていた。
しかしだとすると、なぜ『日本書紀』編者がこの用語を使ったのかという疑問に答えられない。先に示した中国の称制の例を辿ると、先ず漢の呂公は称制し外戚(呂氏)を重用した。続いて王太后が称制し後にその甥である王莽によって漢より新への王朝交代が行われた。さらに唐の武則天は称制した後に、唐から周へ王朝交代した。つまり外戚による王朝交代過程の一段階としての称制があり、特に武則天の例は『日本書紀』編纂時に記憶に新しい出来事だ。称制は王朝交代手順の一段階であるというのが八世紀初頭の認識であったのではないだろうか。ただし、鵜野讃良の称制は中国の例と異なる点がある。天武は天子天皇ではない。ゆえに鵜野讃良は皇后でも太后でもない。もし天武が天子天皇であれば、武則天の例にならって鵜野讃良による王朝交代に大義名分が構成され、堂々と九州王朝より近畿天皇家への王朝交代を示された可能性があったのであろうが、皇后・太后でなかったためにこのような『日本書紀』の記述になったのではないか。
(6)天智天皇および持統天皇の即位とは何か
古田説では、記紀に記述された歴代天皇が、北魏の魏書(初代道武帝から鮮卑族の一部族長であった頃の先祖まで遡って帝号を与えた)にならって、天皇称号を与えられた大和・河内の一毫族であったと考える。
そうであれば、歴代天皇の即位記事は全くの創作と考えざるをえない。(記紀は、元にした九州王朝史および伝承等の一部―主語・場所・時間など―のみを変えて、記紀の製作目的である万世一系での我が国統治の歴史を捏造しているのだが、この天皇即位の部分だけは躊躇無く全くの創作を行った。)つまり、天智天皇が六年間の称制期間を経た後に即位したこと、持統天皇が四年間の称制期間の後に即位したことも創作である。
それでは、なぜ天智天皇の即位が白鳳八年(六六八)で、持統天皇の即位が朱鳥五年(六九〇)とされたのであろうか。前者は、天智六年つまり白鳳七年(六六七)の『日本書紀』記事「十一月の十一月丁巳朔乙丑、百濟鎭將劉仁願が熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等を遣わし、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。」こそが、筑紫都督府の設置記事であって、これに対抗して天智即位と設定したのであろう。
後者の六九〇年は、唐の則天武后が正式に国号を周と改め自ら皇帝即位した年である。これに合せて持統天皇即位時期とした、あるいは逆にこの年より鵜野讃良の実質的な称制が始まったとも考えられる。
注
(注1)後漢の文人蔡邕が朝廷の制度・呼称について書いた『蔡邕独断』には次のように記載されている。
◆漢天子正號曰皇帝、自稱曰朕、臣民稱之曰陛下。其言曰制詔、史官記事曰上車馬、衣服器械百物曰乗輿、所在曰行在所、所居曰禁中後曰省中、印曰璽、所至曰幸、所進曰御。其命令一曰䇿書、二曰制書、三曰詔書、四曰戒書。
これに対して、『養老律令儀制令』には、
◆天子祭祀所称。天皇詔書所称。皇帝華夷所称。陛下上表所称。太上天皇譲位帝所称。
乗輿服御所称。車駕行幸所称。
とあって、『儀制令』の文言は『蔡邕独断』に習っている。八世紀初頭の人々が、『蔡邕独断』の記述を法制度の整備に利用していたことがうかがえる。
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