「壹」から始める古田史学 I II III IV V VI(①) VII(②) VIII(③) IX(④) X(⑤)
十一 十二 十三 十四 十五 十六 十七 十八 十九 二十 二十一 二十二 二十三 二十四 二十五 二十六 二十七
「壹」から始める古田史学・十八 「磐井の乱」とは何か(2)正木裕(会報152号)
「壹」から始める古田史学・二十 磐井の事績 正木裕(会報154号)
「壹」から始める古田史学・二十一
磐井没後の九州王朝1
古田史学の会事務局長 正木 裕
1、「磐井の乱」の真実
前回まで「磐井の乱」の真相と、磐井の事績を見てきましたが、結論として、『書紀』に記す「磐井の乱の真実」とは、
➀近江毛野臣の失政に端を発し、継体二三年(五二九)から二四年(五三〇)に南加羅諸国を新羅に奪われるという「加羅騒乱」事件が起きた。
➁九州王朝の天子(大王)の磐井は、継体二四年(五三〇)に、南加羅奪還と毛野臣の討伐のため半島に目頰子めづらこ率いる大軍を派遣した。
③しかし、奪還はならず磐井は継体二五年(五三一)に崩御した。
④『書紀』編者(大和朝廷)は、この事件を「三年繰り上げ(注1)」、かつ「近江毛野臣」の悪行を「磐井の悪行」とすり替え、五二七年に「筑紫国造磐井」が謀反を起こし、五二八年に討伐されたという「磐井の乱」を造作した。
というものでした。
そして、磐井の事績として『風土記』にある「解部ときべ」「偸人とうじん」「贓物ぞうもつ」等の裁判用語から、磐井が「律令」を制定したこと、九州年号を建元したこと(注2)を挙げました。
2、「磐井」以降の九州王朝
また、磐井没後も九州年号は続き、六世紀末には『隋書』に「阿蘇山有り」と記される九州の「日出る処の天子」阿毎多利思北孤が活躍していることから、九州王朝は次代の葛子以降も我が国の代表者となっていたことがわかります。磐井没後の『書紀』欽明紀には、百済に対する新羅討伐要請記事が頻出しています。これは、磐井の死がどのような原因だったとしても、倭王武が「父兄崩御後」も中国に使者を送り、「父兄の志を申のべんと欲」し、半島で高句麗に戦いを挑んだのと同様に、葛子の政権は新羅に対し南加羅奪還と任那防衛に全力を挙げたことを示すものです。
3、「全国的な屯倉の設置」も九州王朝の大きな事績だった
そして、葛子の時代にさらなる「九州王朝の事績」を示し、また先代の「磐井の功績」を称える記事があるのです。
その事績とは「全国的な屯倉みやけの設置」です。
安閑元年(五三四)一〇月に大伴金村の奏上により、「王や皇后・妃の名を残すため」として、小墾田の屯倉・桜井屯倉・茅渟山屯倉みやけを建てさせており、また同年閏十二月には、強引に三嶋・河内の田地を貢がせています。
◆安閑元年十月甲子(一五日)。大伴大連金村奏して曰さく「(略)夫れ我が国家の天下に王とましますは、有嗣・無嗣を論いはず、要須かならず物に因よりて名を爲す。請うけたまはらくは皇后・次妃の為に屯倉の地を建立たてて、後代のちのよに留めしめて前さきの迹あとを顕あらはさしめむ」とまうす。詔して曰はく、「可ゆるす。早すみやかに安置おけ」とのたまふ。
「屯倉設置」がなぜ王や皇后らの名を残すことになるのか不明であり、岩波『書紀』解説も「金村の奏は、説明のための造作であろう」としますが、「造作した理由」は示されていません。この点、屯倉が九州王朝によって九州王朝の為に設けられたのであれば、これを糊塗するための造作だと考えられます。そして、安閑紀には小墾田屯倉等以外にも多くの屯倉が設置された記事があります。
◆安閑二年(五三五)五月甲寅(九日)に、筑紫の穂波ほなみの屯倉・鎌かまの屯倉、豊国の榺碕みさきの屯倉・桑原くわはらの屯倉・肝等かとの屯倉・大抜おほぬくの屯倉・我鹿あかの屯倉・火国の春日部かすがべの屯倉・播磨国の越部こしべの屯倉・牛鹿うしかの屯倉、備後国の後城しつきの屯倉・多禰たねの屯倉・來履くくつの屯倉・葉稚はわかの屯倉・河音かはとの屯倉、婀娜あな国の胆殖いにゑの屯倉・膽年部いとしべの屯倉、阿波国の春日部かすがべの屯倉、紀国の經湍ふせの屯倉・河邊かわべの屯倉・丹波国の蘇斯岐そしきの屯倉・近江国の葦浦あしうらの屯倉・尾張国の間敷ましきの屯倉・入鹿いるかの屯倉・上毛野国の緑野みどのの屯倉、駿河国の稚贄わかにへの屯倉を置く。
「なぜこの時期に多数の屯倉が開設されたのか」ということですが、大規模な軍事行動には必ず軍事物資の確保が必要となります。ところが継体紀には半島においては毛野臣の引き起こした騒乱事件があるだけで、大規模な軍事行動はありません。「衆六万を率て」とある毛野臣の渡海時も何らの戦闘・戦乱もおきていません。(注3)
一方、「磐井の乱」の実態が、「磐井」による、半島で新羅から南加羅を奪還し任那を護るという、「社稷くにいへの存亡是に在る一大決戦」であれば、そのための合理的な準備と考えられるのです。こうした屯倉設置を担ったのが、磐井から軍事を委ねられた「大将軍大伴金村」だと考えられるのです。(注4)
古田武彦氏は、安閑二年の一年間に先述の三十件近い屯倉を設置したとは信じ難く、これら多数の屯倉の整備は長期に亘り進められたものとされています。そうであれば、屯倉は九州王朝が磐井から葛子の時代を通じて整備したものとなるでしょう。
これを証するのが宣化元年(五三六)の、各地の屯倉から穀物を筑紫に運ばせる記事です。
◆『書紀』宣化元年(五三六)五月辛丑朔に詔して曰はく、「(略)筑紫国は、遐とほく邇ちかく朝まうで届いたる所、去来ゆききの關門せきとにする所なり。是ここを以て、海表わたのほかの國は、海水しほを候さもらひて来賓もうき、天雲を望おせりて貢みつき奉る。胎中之帝(ほむだのすめらみこと 応神)より、朕が身に洎いたるまでに、穀稼もみいねを収蔵おさめて。儲糧もうけのかてを蓄たくはへ積みたり。遥はるかに凶年いひうゑのとしに設け、厚く良客たかくまらうどを饗あへす。國を安みする方さま、更に此に過ぐるは無し。(*以下、河内国の茨田郡の屯倉・尾張国の屯倉・新家の屯倉・伊賀国の屯倉の穀筑紫に運ぶ記事等省略)。亦諸郡もろもろのこほりに課せて分くばり移して、那津の口ほとりに聚あつめ建てて、非常おもひのほかに備へて、永ひたすら民おほみたからの命とすべし。早く郡こほり縣こほりに下して、朕わが心を知らしめよ」とのたまふ。
この記事の中で、「筑紫国は・・・天雲を望りて貢き奉る」との句は、新羅、百済等の諸外国が「筑紫(九州王朝)」に朝貢していたことを示します。これは、高麗・百済・新羅・任那等が、毎年磐井に「職貢みつきものたてまつ」ったという『書紀』記事と一致します。
また、ヤマトの宣化が「凶年に備え、国を安みする最善の策」とするならヤマト・飛鳥に集積あってしかるべきです。また、単に筑紫で「賓客をもてなす」為なら、九州内かせいぜい西海道から徴発すれば良いものを、尾張や伊賀からまでも徴発するのは不自然です。
筑紫、それも博多湾岸(那津の口)に全土から大量の食糧を集積する目的は、半島との戦に備える軍事備蓄以外に考え難いのです。「胎中之帝より」と宣化の詞ことばのようにされていますが、これは『書紀』編者の潤色で、実際は磐井または磐井を継いだ「筑紫の君葛子」の詞に相応しいでしょう。
4、「磐井の功績」をたたえる記事
『書紀』安閑元年には、「継体」の事績を讃える詔勅が記されています。
◆安閑元年(五三四)閏十二月己卯朔壬午(四日)(略)大伴大連、勅みことのりを奉うけたまはりて宣のりて曰く、「(略)故かれ、先天皇さきのすめらみこと、顯號を建て鴻名ひろきみなを垂れて、廣く大きなること乾坤あめつちに配そひ、光華ひかりうるわしきこと日月つきひに象かたどれり。長く駕ゆき遠く撫でて、横に都の外ほかに逸こえいで、區域くにのうちを瑩みがき鏡てらして、垠かぎり無きに充ち塞みてり。上は九垓(ここのつのみち *九州、或いは天)に冠かうぶらしめ、旁あまねく八表(やぶ *地上)に濟わたす。禮のりを制さだめて功いたはり成ことを告まうし、樂うたまひを作おこして、治まつりごとの定まることを彰あらはす(略)。
まず「礼を制め」ですが、古代の「礼」とは「制度・儀礼・礼法など(『礼記』)」を言い、「律令」には「礼法」も含まれます。また『漢書』(刑法志第三)には聖帝の事績として「制礼(礼法の制定)」と「律令制定(立法設刑)」が挙げられています(「制礼以崇敬、作刑以明威也」「制礼作教、立法設刑」)。そこから本来は磐井の「律令」制定を称えたものだったと推測できるのです。
次に「楽を作し」ですが、九州年号『二中歴』の「教到」年間(五三一~五三五)の「細注」に「舞遊始」と書かれています。
◆『二中歴』教倒 五 元辛亥 舞遊始
これは、九州年号「教倒」年間に舞遊が始まった記事です。辛亥年は継体二五年(五三一)の「磐井崩御年」であり、次代の「葛子」の即位年と考えられます。雅楽の起源・技法を記した豊原統秋とよはらのむねあき著の『體源抄たいげんしょう』にも、教到六年丙辰歳(五三六)駿河国宇戸ノ濱で「雅楽の東遊が始まった」とあり、先述の駿河国稚贄の屯倉は同所に設置されています。そこから、磐井時代に屯倉の設置と並行して「楽を作おこし治の定まることを顕す」儀礼が始められ、葛子に引き継がれたのではないでしょうか。
また、「先天皇、顕号を建て鴻名を垂れて」の「顕号」について、通説は「いちしろきみな」と読み「継体の霊威の強く示される意」等としますが、意味不明です。そうでなく「元号」を意味する可能性が高いでしょう。「武」までは梁から称号を授かっていましたが、以後受号は途絶えており、そのうえで「号を建て」るとは「元号」以外に考えづらいのです。その点磐井は九州年号を建てました。
このように、安閑の先代の継体を称える詔勅としては不自然ですが、葛子の「先(日本)天皇の磐井」の事績を称えるなら自然なものになります。『書紀』では継体や安閑・宣化の事績とされ、あるいは継体を称えるとされている記事の実際は、本来「磐井の事績を述べ、磐井を称える」九州王朝の史書からの盗用だと考えられるのです。
(注1)『書紀』編者は、『百済本記』五三一年の「日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨みまかる」の「日本天皇」を、本来は五三四年に崩御した「継体」としたため、継体晩期の「磐井の乱」を含む『書紀』記事が順次「三年繰り上げ」られたもの。
(注2)九州年号は、磐井の時代の「継体(五一七~五二一)」あるいは「善記(五二二~五二五)」から始まる。
(注3)五二七年の毛野臣の渡海が「衆六万を率て」なら、何ら新羅との戦闘記事が無いのは不可解。そうではなく「三年ずれ」た五三〇年の、「磐井による新羅から南加羅を奪還する一大決戦」のための派兵規模としてであれば相応しい。
(注4)『書紀』継体二一年(五二七)条で、「継体が物部麁鹿火に磐井討伐を命じた」記事は、『書紀』編者によって造作されたもので、実際は三年ずれた五三〇年に「磐井が大伴金村に新羅と毛野臣の討伐を命じた」記事となる。(「壹」から始める古田史学(十九)会報一五三号)。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。Created & Maintaince by" Yukio Yokota"