難波の都市化と九州王朝 古賀達也(会報155号)../kaiho155/kai15504.html
『日本書紀』への挑戦《大阪歴博編》 (会報153号)難波の都市化と九州王朝
京都市 古賀達也
一、はじめに
六月十六日、I-siteなんばで開催された古代史講演会(「古田史学の会」共催)で考古学者の南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)による「日本列島における五~七世紀の都市化 ー大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」という講演を拝聴しました。南さんは三十年以上にわたり難波を発掘してこられた方だけに、広範な出土事実に基づく説得力ある講演でした。
紹介された上町台地北端の都市化の歴史は、九州王朝(倭国)との深い関係を示していると思われました。その中で前期難波宮九州王朝複都説を指示する、あるいは整合する考古学的出土事実について解説します。
二、南講演、四つの注目点
講演で、わたしが特に注目したのは次の四点でした。
①古墳時代の日本列島内最大規模の都市は大阪市上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)、奈良盆地の御所市南郷遺跡群であるが、上町台地北端と比恵・那珂遺跡は内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。
②上町台地北端は居住や農耕の適地ではなく、大きな在地勢力は存在しない。同地が選地された最大の理由は水運による物流の便にあった(瀬戸内海方面・京都方面・奈良方面・和歌山方面への交通の要所)。
③都市化のためには食料の供給が不可欠だが、上町台地北端は上町台地や周辺ではまかなえず、六世紀は遠距離から水運で、六世紀末には後背地(平野区長原遺跡等の洪積台地での大規模な水田開発など)により人口増を支えている。狭山池築造もその一端。
④上町台地北端の都市化の3段階。
a第1段階(五世紀) 法円坂遺跡前後
古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群(十六棟、計一四五〇㎡以上)が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模で、約千二百人/年の食料備蓄が可能。
b第2段階(六世紀) 難波屯倉の時代
六世紀前半に人口が急増しており、台地高所に役所的建物群、その北西に倉庫の建物群が配置され、工房も漸増する。港(難波津)から役所へ至る道も造営される。
c第3段階(六世紀末~七世紀前半) 難波遷都前夜
台地中央の役所群が整い、それを囲むように工房群が増加(7ヶ所程度。手工業の拡大と多角化)する。
こうした考古学的知見は、「洛中洛外日記」一九二一話(2019/06/14)〝「難波複都」関連年表の作成(2)〟で論じた次の「難波複都関連史」の実態を推し量る上で重要です。
【難波複都関連史の区分と概要】
Ⅰ期(六世紀末頃~七世紀初頭頃) 九州王朝(倭国)の摂津・河内制圧期
Ⅱ期(七世紀初頭~六五二年) 狭山池・難波天王寺(四天王寺)・難波複都造営期
Ⅲ期(白雉元年・六五二~朱鳥元年・六八六) 前期難波宮の時代(倭京・太宰府と難波京の両京制)
Ⅳ期(朱鳥元年・六八六~) 前期難波宮焼失以後
この中のⅠ期とⅡ期に相当するのが今回の講演で解説された時代です。
三、難波と筑紫の類似古代都市
中でも、わたしが驚いたのは①の見解です。
わたしが九州王朝(倭国)の複都と考える前期難波宮・難波京が置かれた上町台地北端が古墳時代の日本列島内最大規模の都市であるという事実と、その内部構造や性格が同じく最大規模の遺構とされる博多湾岸(比恵・那珂遺跡)と類似しており、「その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである」とまで述べられたことは重要です。上町台地の遺跡を三十年以上にわたり調査発掘されてきた南さんの指摘だけに格段の重みがあります。
この考古学的知見はわたしの前期難波宮九州王朝副都説にとって有利なことは、おわかりいただけると思います。しかも、当地への九州王朝の影響が古墳時代(五世紀)まで遡ることも示唆するものです。九州王朝の難波・河内進出時期の考察にあたり、その時期を「Ⅰ期(六世紀末頃~七世紀初頭頃)」としてきた、わたしの作業仮説の再考を促すものです。
質疑応答では、上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)の共通した土器の出土など、両者の交流の痕跡の有無について質問が出されました。南さんはそうした調査に関する知見をお持ちでなかったようで、回答をひかえられましたが、わたしの調査では次の報告書に難波から出土した筑紫の土器の報告などがあります(古墳時代とは時期が異なるかもしれません)。「古田史学の会」HP収録の「洛中洛外日記」で紹介した当該部分要約を掲載します。
◆「洛中洛外日記」二二四話(2009/09/12)
古代難波に運ばれた筑紫の須恵器
(前略)わたしは前期難波宮の考古学的出土物に強い関心をもっていたのですが、なかなか調査する機会を得ないままでいました。ところが、昨年、大阪府歴史博物館の寺井誠さんが表記の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第八三号、二〇〇八年十一月)を発表されていたことを最近になって知ったのです。(後略)
◆「洛中洛外日記」二四三話(2010/02/06)
前期難波宮と番匠の初め
(前略)寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。(後略)
◆「洛中洛外日記」一八三〇話(2019/01/26)
難波から出土した「筑紫」の土器(2)
(前略)『難波宮址の研究 第七 報告編(大阪府道高速大阪東大阪線の工事に伴う調査)』(大阪市文化財協会、一九八一年三月)を精査していたところ、次のような難波宮下層遺跡出土須恵器の生産地についての記述があることに気づきました。
「5.その生産地について
(中略)難波宮下層遺跡は須恵器の生産地でなく消費地であり、そこで使用した須恵器は単一の生産地のものだけではないことが想定されよう。もちろん、土器群の大部分は近畿の生産地によっていることもまた十分想定される。(中略)
杯身のたちあがり部と体部内面との境が不明瞭なものは、管見の限りでは畿内地域より九州地方の窯跡出土の土器中に散見されるものに似ていると思われる。ただ、天観寺山窯出土土器の胎土とは肉眼観察の上では異なっており、現在のところこれら一群の土器が即九州等の遠隔地で生産されたとはいえない。しかし、その形態上の類似から何らかの系譜関係を考えることも不可能ではあるまい。また、難波宮下層遺跡が畿内以外の地域との交流があった可能性は考えておいてもいいのではなかろうか。このことはまた、難波宮下層遺跡の性格を考える上で重要な手がかりとなり得るであろう。」(一八六頁)
(中略)ここでの類似した九州地方の須恵器として次の報告書を紹介されています。
○北九州市埋蔵文化財調査会『天観寺山窯跡群』一九七七年
○太宰府町教育委員会『神ノ前窯跡-太宰府町文化財調査報告書第2集』一九七九年
○北九州市教育委員会「小迫窯跡」『北九州市文化財調査報告書第9集』一九七二年
四、法円坂巨大倉庫群の論理
次に注目したのが④の見解、「a第1段階(五世紀) 法円坂遺跡前後」の部分です。
ここで示された〝古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群(十六棟、計一四五〇㎡以上)が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模で、約千二百人/年の食料備蓄が可能。〟という指摘は、必ずしも九州王朝説にとって有利なものではありません。この出土事実は、九州王朝説よりも「河内王朝説」というような仮説を指し示すからです。質疑応答で南さんも「河内政権」という言葉を漏らされてもいました(南さんが「河内政権」という概念を支持されているか否かは講演内容からは不明)。
そこでわたしは次の質問を投げかけてみました。
「古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群はその規模から王権の倉庫と考えられるが、その規模に相応しい最大規模の王権の遺跡や王権中枢の所在地はどこと考えておられるのか。」
この質問の回答として奈良盆地内のどこかの遺構を挙げられるのではないかとわたしは想像していたのですが、南さんの回答は「そうした遺構は見つかっておらず、大阪城の場所に宮殿遺構があったのかもしれない」というものでした。考古学者らしい誠実で慎重な回答です。大和朝廷一元史観の論者なら、奈良盆地内のどこかにあったはずという〝答え〟なのでしょうが、上町台地北端の都市化を研究されてきた南さんは、大規模倉庫群の側(大阪城の場所)に王宮はあったと推定されているのです。
これは『日本書紀』の記述を妄信しない、出土事実に基づく学問的な姿勢と思いました。この姿勢は「洛中洛外日記」一九〇六話(2019/05/24)『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)〝七世紀後半の難波と飛鳥〟でも紹介した佐藤隆さんの主張「『日本書紀』の記事を絶対視しない」に通じるもので、両者のこうした姿勢は大阪歴博考古学者の学風ではないでしょうか。
五、共通する難波池と水城の工法
続いて、③も注目されました。
上町台地北端の都市化による人口増を食料供給の面で支えたのが、六世紀末では後背地での大規模な水田開発とされました。その水田開発と古代において最大の灌漑施設である狭山池(六一六年。年輪年代測定値)との関係について質問したところ、平野区長原遺跡等の洪積台地へも狭山池は灌漑用水を供給したと返答されました。
この質問の真の目的は難波と筑紫との関係を裏付けることにありました。難波池の築堤には太宰府の水城と同じ敷粗朶工法が用いられたことが知られており、このことは難波池の築造を九州王朝による難波複都建設に先立つ食糧増産を目的としたものとするわたしの考えを支持するものでした。南さんは上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)について、「その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如く」と指摘されているのですが、両者の類似は都市構造だけではなく、その人口を支える食糧増産施設(狭山池)と太宰府防衛の巨大防塁(水城)の工法にも及んでいたとできそうです。
六、全国支配のための前期難波宮
最後に、②の見解の重要性についても解説します。
上町台地北端は居住や農耕にも適さず、そのため大きな在地勢力も存在しないと考えられています。それにもかかわらず、五世紀には古墳時代最大規模の巨大倉庫群(法円坂遺跡)が造営され、七世紀中頃(六五二年、九州年号の白雉元年)にはこれもまた国内在大規模の前期難波宮が造営され、同時に難波京(条坊都市)へと発展します。その選地の最大の理由が〝水運による物流の便〟と考えられていることは重要です。
倉庫群も前期難波宮も当時国内最大規模ですから、その造営主体もまた国内最大の権力者とするのが真っ当な理解です。しかも前期難波宮が造営された七世紀中頃は全国に評制が施行された時代です。その施行主体も「難波朝廷、天下立評」(『皇大神宮儀式帳』)と史料に遺されているように前期難波宮にいた権力者によるものです。九州王朝説に立つならばこの前期難波宮にいた権力者は九州王朝(倭国)と考えざるを得ません。
評制とは全国を行政区画「評」に分割し、それぞれに評督らを任命し、中央集権的律令体制による全国支配を行うという制度です。そのためにも「中央行政府」における交通の便は必須です。各地の物資(兵士・防人も)を集める物流拠点であり、同時に各地に軍隊を派遣できる交通の要所であることが不可欠ではないでしょうか。そうでなければ、律令を制定し、それに基づく中央集権による全国支配などできません。同時に、律令体制による政治を行うために必要な八千人(服部静尚説)もの中央官僚が勤務できる宮殿や官衙、そしてその家族を含めた数万人にもおよぶ人口を維持できる大都市(条坊都市難波京)の造営が不可欠であることもまた言うまでもありません。大和朝廷が『大宝律令』による郡制で全国支配するために国内最大規模の条坊都市、藤原京や平城京を造営したのも同様の理由からです。
七、謝辞
今回の南さんの講演内容が、前期難波宮九州王朝複都説を結果として支持する考古学分野での知見を数多く含んでいることを解説してきました。こうした考古学的事実を教えていただいた南さんに感謝いたします。また、南さんを講演者に推薦していただいた久冨直子さん(市民古代史の会・京都)や原幸子さん(古代大和史研究会・代表)にも御礼申し上げます。(令和元年八月十四日記了)
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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