壬申の乱 服部静尚(会報154号)
七世紀後半に近畿天皇家が政権奪取するまで(会報157号)
三種の神器をヤマト王権は何時手に入れたのか
八尾市 服部静尚
一、神器の重要性について
九鼎は古代中国における王権の象徴と知られる。『史記』周本紀では、九鼎が周王朝の正統性を示し、まるで九鼎が奪われたため周が滅んだかと思わせるような記述をする。
◆(西)周君が亡くなり、周民は東へ逃亡した。秦は九鼎の宝器を取り、(中略)その後七年、秦の莊襄王は東周を滅ぼし東西の周は皆秦に入った。
藤田友治氏は「王朝であった限り、主権を持ち、古代国家特有の神宝を持つはずである~古代人の意識は王権が神宝によって護られ、神宝を持つことでその王権が正統化される。」(『出雲王朝の「五種の神宝」』『市民の古代』第十三集一九九一年)とする。古田武彦氏は「昭和天皇の敗戦の時の談話、それを岩波新書や中公新書で読んでびっくりした。なぜ昭和天皇は敗戦を決意したか。それは日本の制空権をアメリカに握られて、伊勢神宮も熱田神宮もその下にある。いつアメリカ軍が伊勢神宮の鏡や熱田神宮の剣を奪うかもしれない。わたしは北朝の身である。(わたしは昭和天皇がそういう台詞を言うとは思いもしなかった。)三種の神器がなければ天皇で居ることは出来ない。だから降伏を決意した。」と伝える(『古代に真実を求めて』第九集、講演時の質疑にて)。
二、古代日本の統治の大義名分と正統性のしるし
(1)記紀による統治の大義名分とそのしるし
『日本書紀』神代紀下によると、(国生みをした伊弉諾・伊弉冉の子の)天照大神がその孫の瓊瓊杵尊を葦原中国の主としようと望んだ。これが天皇による日本列島統治の大義名分だ。旧訳聖書にある「神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地・カナン」に似ている。聖書で言う神が国生み神であり天照大神である。アブラハムの子孫が瓊瓊杵尊、約束されたカナンの土地が葦原中国だ。アブラハムの子孫はユダヤ民族全体を指すが、瓊瓊杵尊とその後継者は個人であって、約束されたのは葦原中国の統治権だという違いがあるのだが、似ている。
そして、その約束の地、葦原中国へ天降るその際に「故天照大神、乃賜天津彦彦火瓊瓊杵尊、八坂瓊曲玉及八咫鏡・草薙剱、三種宝物。」と、瓊瓊杵尊に三種神器を与える。ちなみに、
①素戔嗚尊が天に昇る際に羽明玉にもらって、その後天照大神に見えた際に献上(天照大神の剱と交換)したのが八坂瓊之曲玉。
②天照大神が怒って天石窟あまのいわやに隠れた時に、中枝にかけて祈ったのが八咫鏡。
③素戔嗚尊が八岐大蛇を斬って出てきたのが草薙剱であって、本の名は天叢雲剱(大蛇が居る所の上に常に雲気有り、故に以て名づける)、日本武尊に至って草薙剱と名を改めたのだ。素戔嗚尊は、これは神の劒なり私の私物とはしておけないと言って天神に献上したものだ。
『古事記』では、天照大御神と高木神が、邇邇藝命が天下る際に八尺勾璁・鏡・草那藝剱を与え、「この鏡を我が御魂と為し、吾が前の如く拝せよ。」と伝える。
太安万侶は、「寔知、懸鏡吐珠而百王相續、喫剱切蛇、以萬神蕃息與。議安河而平天下、」(鏡を懸け、珠を吐きて、百王相続をここに知り、剱で蛇を切り、万の神蕃と天の安河にて天下の平定を協議した)と、序文の冒頭部で三種神器の重要性を記述する。
ここまで書くのだから、『古事記』が編纂された和銅五年(七一二)には、近畿天皇家の手元にこの三種神器があったに違いない。
(2)九州王朝の神器
私は当初、漢よりもらった金印とか、卑弥呼がもらった「親魏倭王」の印・黄幢が九州王朝の神器ではないかと考えていた。しかし、これらは後ろ盾が中国王朝だとする印であって、その中国王朝は変遷する。少なくとも九州年号を定めた六世紀初頭以降の九州王朝の神器としては相応しくない。
これに対して、『日本書紀』『古事記』が伝える三種神器は、いずれも九州王朝の源流であるアマ国からの天孫降臨に遡る神器であって、北九州に降臨して出雲を含めた西日本統治の正統性を示すのは相応しい。つまり記紀が伝える三種神器は九州王朝の神器であったのではないかと言う結論に至った。
この三種神器が、少なくとも七一二年には近畿天皇家に渡っている。ではいつ頃渡ったのであろうか、この点について以下検討する。
三、『日本書紀』に出現する神器を年代順に検討する
①神武即位前紀戊午年十二月―長髄彦は天皇に「かつて天磐船に乗って天降った天神の子がいる。櫛玉饒速日命と云い、私の妹を娶って可美眞手うましまで命が産まれた。天神の子が二人もいるはずがない。」天皇は「天神の子は大勢いる。天神の子であれば必ず表物がある。それを見せなさい。」と。長髄彦は饒速日命の『天羽々矢一隻と歩靫』を天皇に見せた。天皇はこれを見て「これは偽りではない。」と言って、今度は天皇の『天羽々矢一隻と歩靫かちゆき』を長髄彦に見せた。
この記事から、神武天皇が三種神器を持っていなかったことは歴然だ。長髄彦に対して自ら「天神の子はたくさんいる」とし、その天神の子である証拠として、神武もまた『天羽々矢一隻と歩靫』を示す。日本列島の統治者として選ばれた天孫、その証拠は三種神器なのだから、三種神器を持っていたなら、これを示さないはずがない。東征の時点で神武天皇は三種神器を持っていなかったのだ。
当然、三種神器は九州王朝が持っていたことになる。
②景行紀四〇年―冬十月壬子朔癸丑、日本武尊は出発した。戊午、寄り道をして伊勢神宮に拝し、倭姫命に「今私は天皇の命で東征し反逆者を誅伐する」と暇乞いした。倭姫命は草薙剱を日本武尊に授けて「慎重に、決して油断なさるな。」と言われた。
伊勢神宮(この時期に三重県の伊勢神宮は存在しないが)に居る倭姫命が、三種神器の一つ草薙剱(この時点では天叢雲劒だが)を所持しており、これを(天皇ではない)日本武尊に授けている。この時点でも近畿天皇家は(天皇自らの正統性を示すための)三種神器を持っていなかったわけである。ここに至っても三種神器は九州王朝側にある。倭姫命は九州王朝の天子であったと考えざるをえない。
③以下、允恭紀~孝徳紀に「天皇の璽」が出てくるが、これらは具体名で三種神器を指しているとはみられない。又、もしこれが三種神器であれば、何時それを入手できたかの(近畿天皇家にとって非常に重要な)エピソードが、ここまでに書かれないはずがないがそれは見られないのだ。これらの記述は、あたかもこの時期に近畿天皇家の手元に三種の神器があったとする偽装と見るのが妥当であろう。
◆允恭紀―即位前紀「即選吉曰、跪上天皇之璽」―元年十二月「皇子將聽群臣之請、今當上天皇璽符。於是、群臣大喜、即日捧天皇之璽符、再拜上焉」
◆清寧紀―即位前紀「冬十月己巳朔壬申、大伴室屋大連、率臣連等、奉璽於皇太子」
◆顕宗紀―即位前紀「十二月百官大會、皇太子億計、取天皇之璽、置之天皇之坐」
◆継体紀―継体元年「二月辛卯朔甲午、大伴金村大連乃跪、上天子鏡剱璽符、再拜・・・乃受璽符」
◆推古紀―即位前紀「皇后辭讓之。百寮上表勸進至于三乃從之、因以奉天皇璽印」
◆舒明紀―元年「春正月癸卯朔丙午、大臣及群卿、共以天皇之璽印、獻於田村皇子」
◆孝徳紀―即位前紀「天豐財重日足姫天皇、授璽綬禪位」
④天智紀七年(六六八)―是歳、沙門道行が草薙剱を盗み新羅に向かって逃げた。しかしその路中で風雨に遭い行く先を見失って戻ってきた。
この盗難事件は九州王朝で起きた事件なのか?あるいは九州王朝から近畿天皇家に三種神器が渡るその過程で起きた事件なのか?不明であるが、非常に興味深い事件である。この年に何が起こっていたかを調べてみよう。
◆(天智七年)二月丙辰朔戊寅、古人大兄皇子の女、倭姫王おほきみを立てて皇后とする。六月、伊勢王とその弟王が相次いで薨じた。
この倭姫王は、天智天皇が崩御する一ヶ月半前、病床の天智天皇が大海皇子に「後事を任す」と伝えた際に、大海皇子はこれを断り、後任の天皇に推挙した大后だ。西村秀己氏・正木裕氏が、九州王朝の正統なる後継者とする人物である。しかも不思議なことに②で日本武尊に草薙剱を授けた倭姫命と尊称部分を除くと同名だ。
そして、正木氏は伊勢王を九州王朝の天子とする。倭姫王を残して九州王朝の血筋が絶えたのだろうか?ただし、斉明七年(六六一)六月にも伊勢王が薨じたとの記事があって、不可思議な記述である。
⑤天武紀朱鳥元年(六八六)六月―天皇の病気を占ったところ、草薙剱の祟りであった。その日に尾張国熱田社にこれを送って安置した。
この記事により、この時点で三種神器が天武天皇の手元に渡っていたことが判る。つまりこれ以前に三種の神器を近畿天皇家が手に入れたわけだ。その草薙剱の祟りで天武天皇が病気になったというこの記事は、誰がみても天武天皇が正統な持ち主ではないと言うことを示す。これを(出所は不明だが)草薙の剱を直接見たせいで祟ったのだと言う話がある。そんな馬鹿なことはあり得ない。素戔嗚尊・天照大神・邇邇藝命・日本武尊等々、歴代の持ち主は当然直接この剱を見ているに違いない。しかし、その祟りで病気にあった話はどこにもない。
⑥持統紀―四年(六九〇)春正月戊寅朔、物部麻呂朝臣が大盾を立て。神祗伯中臣大嶋朝臣が天神壽詞を読み終えると、忌部宿禰色夫知が神璽剱鏡を皇后に奉り、皇后が天皇の位につかれた。
四、三種神器をヤマト王権は何時手に入れたのか
以上の考察の結果、次のような結論に至った。
(1)三種神器は、国生み神の子孫の天照大神がその孫の瓊瓊杵尊を葦原中国の主と指名した、その大義名分を示すものであり、記紀の思想からは天皇のみが所持できるものだ。
景行紀では、その一つである草薙剱を倭姫命が(天皇では無い)日本武尊に授けている。この倭姫命は九州王朝の天子であって、この時期(景行紀)近畿天皇家は三種神器を持っていなかったのだ。
(2)この倭姫命と同名の倭姫王が天智天皇の皇后となったとされる六六八年に、草薙剱が沙門道行に盗まれて、あわや新羅へ流出する寸前までの事件が起きている。倭姫王の立后と時期を同じくして三種神器が近畿天皇家に渡った、あるいは近畿天皇家が管理に関わる立場になったと考えられる。なぜならば、九州王朝の天子でなければ三種神器を所持できないからだ。
倭姫王もまた九州王朝の天子であって、その天子を娶った天智天皇は初めて三種神器に関われたのだ。経緯は不明だが、その際に盗難事件が起きたのであろう。
(3)その後、未だ正統な持ち主では無かった天武天皇は草薙剱の祟りで病気になり、この剱のみは熱田神宮に安置された。
一方、『日本書紀』では倭姫王のその後の消息を伝えない。三種神器を手放した倭姫王は、(昭和天皇が怖れたように)もはや九州王朝の天子としての資格を失ったのではないか。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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