三星堆の青銅立人と土偶の神を招く手 ( 会報157号)
狂心の渠は水城のことだった (会報166号)
大噴火と天岩戸神話と埴輪祭祀
京都府大山崎町 大原重雄
ここでは今城塚の大規模な埴輪列(祭祀埴輪)と天岩戸神話との関係、及び昨今明らかになりだした巨大な火山噴火の歴史的な関与について考察したい。
【1】西暦五三五年の大噴火
インドネシアのクラカタウ(クラカトア)山の噴火が尋常でなく、地球全体の気候変動をもたらして人々に甚大な影響を与えたのは確かのようである。詳しくは参考文献を見ていただくとし、この火山は近年(一八八三年)に記録に残る噴火があり、三万六千人以上の犠牲があったという。過去にも同様の噴火が繰り返された可能性はあっても実証できるものはなかった。それがNASAの研究者の膨大な文献研究(一九八三年)から認識が広がり、五三五年前後(当初は五三六年とも言われていた)に氷床コアや各地の年輪の乱れが検出され、デヴィッド・キーズは綿密な調査をもとに大著(「西暦535年の大噴火」文芸春秋)をあらわして、大異変の事実は揺るがないものになってきた。彼によると、文献としては中国の『南史』に南方からの雷鳴が二度あったという記事が該当する例の一つとされる。
(中大通六年)閏十二月丙午(西暦五三五年二月),西南有雷聲二
さらには、
(大同元年・五三五年)冬十月,雨黄塵如雪
(大同二年・五三六年)十一月,雨黄塵如雪,攬之盈掬
雷鳴のような噴火の大音響が二回、中国の西南、すなわちインドネシア方面から聞こえ、その後黄色い塵がすくえるほどに降り積もったと書かれている。このちりが大気圏を蔽い、太陽光が弱まり寒冷化し、地球規模の天候異変が長期間に渡り、東ローマ帝国の衰退、中南米の古代文明の崩壊など当時の支配体制が激変することになったという。
クラカタウ地図
中塚武氏の酸素同位体比年輪年代法では、この日本では、五三四、五三六、五三七年に大干ばつの発生を指摘されているが、中国の記述にあるような火山噴火の痕跡はみとめられていない。放射性炭素年代測定のより正確な較正に貢献した福井県水月湖の七万年前からの年稿には、図の鬼界カルデラの大噴火のような明瞭なものは見つからないが、まだ研究途上であり、いつかその痕跡を見いだせるかもしれない。
火山灰写真
【2】日本にも影響があったのか?
では日本にはこのような異変を示すような事象はあるのだろうか。キーズ氏は日本書紀の宣化元年(五三六年)の詔が好例であるとする。
夏五月辛丑朔、詔曰 食者天下之本也。黄金萬貫、不可療飢、白玉千箱、何能救冷。(食は天下の本である。黄金が万貫あっても飢えをいやすことはできない。真珠が千箱あっても、どうしてこごえるのを救えようか)
これはまさに異常気象と飢饉を表している。続けて屯倉の籾を運ばせる記事となる。しかも前年の安閑紀には国中に屯倉を設置する記事がある。天候異変に急いで対応しているようにとれる。
ただし日本書紀の記事を見るには中国の漢籍からの引用が多いことと、年次が恣意的に動かされている可能性を考慮しなければならない。はじめの宣化の詔も、実際の異変があったことを中国の漢籍を使って記載したと考えてもよさそうだ。年次については連続する記事の内容からして、噴火の時期と対応するとしても間違いではないかもしれない。
キーズ氏の仏教伝来も噴火の影響とされる記述には躊躇するが、従来の儀式では解決できない危機を背景に仏教導入をめぐる対立があったと解釈してもよさそうだ。それにしても中国での大量の死者やヨーロッパでのペストなどの伝染病の大流行などに匹敵する話が、日本の伝承などには見受けられない。これは日本の場合、食料が米だけでなく、その他の穀類が主食であったことや、魚貝類、野生獣の獲得で、極端な被害はなかったとも考えられる。よって大陸での民族あげての大移動などは起こりえないが、その余波はうけたであろう。半島の政局の不安定さや渡来人の記事も関係するかもしれない。高麗からの移住記事も見られる。高句麗では五三五年、平壌以南の国南地方で大洪水の発生によって二〇〇人死亡との記事がある。
他に四世紀から六世紀にかけてオホーツク人の北海道への移住があり、特に六世紀は目立つようである。また欽明六年(五四四年)に粛慎が佐渡島に船一艘で停泊して住み着くという記事もあるが、これも関係するかもしれない。さらには六世紀に急増する、各地の横穴墓、群集墳などの大量の古墳群ももしかすると、異常気象に連動するかもしれない。その多くに渡来人と考えられる副葬品が目立つことから、難を逃れた大量の移住民により作られたとすると説明しやすいかもしれない。
【3】天岩戸神話の大噴火説
太陽神である天照が姿を隠すことから、天岩戸神話は日食のことではないかという説は以前よりあった。中にはパソコンを使ったデーターで、古代の日食発生の時期を特定して論じられるものもある。しかし日食はわずか数分のできごとであり、しかも暗くなっても直視できない明るさであり常闇の説明はできない。これを前述の大噴火と関係すると論じる説もある。
河合潤氏はこの大噴火の解説の中で、「天岩戸神話がはるか昔の伝説と(略)大災害の記憶とが結び付いて伝説ではなく事実に近い事件」(西暦536年の謎の大噴火と地球寒冷期の到来)とされた。アマテラスが怒って隠れることになった原因のはじまりであるスサノオの田を壊したり馬を投げたりの乱暴行為が、異常気象を意味しているという。またヨーロッパでは「日光は一年中輝きを失って月のようだった」という記録もあるように太陽が隠れた状態が長期間続いたことが常闇に該当する。
確かに日食説よりは納得できるものであるが、ただ問題はある。それは前述のように日本書紀や古事記は漢籍から参考にされることが多く、特に神話の場合は、各氏族の伝承がまとめられたり、移住民が出自の地で語り継がれた話を持ち込んでいる。この神話と類似した説話が東アジアを中心に広範囲に存在する由縁となる。さらには、前述の酸素同位体比年輪測定法では、洪水ではなく、この年に際立つような干ばつが確認されるという。これでは、常闇にはならないであろう。地域によって洪水発生が集中する一方で別の個所では干ばつに悩まされるという現象は考えられる。現に地上絵のナスカでも、この時期の干ばつの悪化から滅亡につがったようだ。ただ次のような話もある。中国雲南のミャオ族には、二年間隠れてしまった太陽を呼び戻すために鶏がときの声をあげる、という説話がある。この二年間隠れたというのは、この大噴火による実際の状態をあらわしたようで偶然とは思えないのだが。天岩戸神話は直接には関係は認めがたいが、この神話を構成する一部分に噴火の影響の記憶が反映している可能性はあるかもしれない。ただしこの場合も、弥生時代中期にも異常気象が襲っており、その時の記憶の伝承が神話に反映したとも考えられる。なかなか断定はしづらい。高見乾司氏によると、『春秋左氏伝』の日蝕儀礼が三七回の記録のうち三五回が天文学データーとほぼ一致するという。中国では、繰り返し儀礼が行われており、これも参考にされたかもしれない。
【4】天岩戸神話と埴輪祭祀
岩戸山神話が大噴火が直接に関係するとは言えないが、異常気象への対応としての祭祀を描いたものとは言えるかもしれない。
アメノウズメは古事記では天岩戸の前で桶を伏せて踏み鳴らしたとある(日本書紀では神がかりするだけで、音を出す動作はない)。天照を呼び戻すための仕草だが、神事の行いではあるが少し奇妙ではないか。だいたい小さな桶の上にのって女性が裸足で踏み鳴らそうとしても、大きな音は出ないのでは。能舞台では床下に大きな甕を置いて共鳴させて踏み鳴らす音を大きくしているようだが、小さな桶では下駄をはくとかしないと音は出ないが、それでもせまい桶の底面から足を踏み外す恐れもあって現実的ではない。
踊る女
この場面は、大阪府高槻市の今城塚古墳の巫女埴輪を参考にしたのではないか。伏せた桶とは、思うに今城塚の巫女埴輪が乗っている台であり、両手をあげて祈る姿を参考にしてアメノウズメの祈りの姿を描いたのではないか。埴輪の土台は桶ではなく、円筒埴輪と同じもので、下半身も表現するために安定するように短めのものにしたと考えられる。埴輪については数多く論じられているが、馬などを除いてほとんどの埴輪が円筒埴輪を土台にしていることについて言及がない。私はこの円筒埴輪に乗っていることに大きな意味があるとするが、説話の採録者はこれを伏せた桶とみなしたのではないか。
ニワトリ
力士
岩戸神話では長鳴き鳥も登場するが、これも埴輪ではよく登場する。しかも今城塚の鶏は頸のところの羽を逆立てて今にも鳴こうとしている様子を表していると解釈されている。これはまさに常世の長鳴鳥を集めて鳴かせたという場面になるのではないか。さらに天手力男あまのたあぢからをは怪力を示すように片手をあげたポーズをとる力士埴輪と重なるのではないか。
さらに古墳の墳丘上には埴輪だけが置かれていたのではなく、柱穴の検出や遺物から、複数の木柱を立ち並べてそこに祭器を吊り下げるなどの木柱祭祀もあったと考えられている。古事記や日本書紀の天岩戸神事には、さか木の枝に、勾玉や鏡、白や青の織物を垂れ飾る記事がある。今城塚でもこの埴輪列だけでなく、当時はしめ縄が張られたり、祭器を飾った木柱が立ち並ぶといった、現代の祭りに似た光景があったのではないか。現在の埴輪だけをみて、古墳上の行いを判断してはならないだろう。馬や武人の整列や太刀の連なる様子。さらには牛や猿と考えられる四脚獣など、なんらかの目的を持った祭祀と関係するのではないか。馬や牛は水の祭祀と深く関係していることからも、天候異変に対する祀りごとと考えられる。
【5】今城塚古墳の埴輪群の祈り
淀川は水害が何度も発生しており、河川堤防や水路の整備の乏しい古代ではさらなる被害を繰り返し受けたことは間違いない。内側の堤につくられた埴輪列の場所は後から作られたことがわかっている。想像だが古墳造営の頃に大きな水害が発生し、追加工事を施し大規模な埴輪祭祀をおこなったのではないか。今城塚も大量の葺石が積まれており、それは芥川の川原石が運ばれている。川の整備とその河の神への安寧を願うためとも考えられるのではないか。
西川寿勝氏は年輪測定から五三〇年代の気候変動にふれておられる。今城塚の造り出しから出土した須恵器がTK10段階のもので、大和川水系にあたる河内国渋川郡集落の竹渕遺跡・渋川廃寺遺跡の溝や流路にこの須恵器が大量に見つかっている。水の祀りで多数の土器群が使われていたわけであり、同様に今城塚でもおそらく古墳完成以降に同様の祭祀が行われていたのだろう。
今城塚は三代の王の埋葬があったことなどから五世紀後半から六世紀前半まで機能した古墳と考えるが、完成後の天候異変に対応するように大規模な埴輪祭祀や造り出しでの須恵器などの祀りがされたと想定する。以前からあった祈雨祈晴や春秋や迎日の祭祀からこのような埴輪集団を創出したと考える。
東国の古墳には今城塚の影響があることは祭祀面でも指摘されている。群馬県の榛名山の噴火なども重なり、関東地方も自然災害に悩まされたであろう。多種多様な埴輪を作り活発に祭祀を行うことになったのであろう。その一方で九州や近畿では六世紀後半には埴輪祭祀から、仏教による祈りにシフトしていくのだった。
まとめ
①五三五年のクラカタウ火山の大噴火は世界史を激変させる影響を与えたとされる。日本でも書紀の記述にある異変や屯倉の集中的な設置記事なども関係し、渡来人の増加による混乱や籾の移動対応にもつながるであろう。天候異変や伝染病の蔓延などが、仏教の普及につながった可能性もある。既に正木裕氏が天然痘と仏教の関係を明快に論じられている。
②大噴火に限らず、六世紀は概して気象の寒冷化があったようで、洪水、干ばつなどの天候異変が、社会の混乱をもたらし、歴史が変化してきたという視点も重要である。堤や水路の敷設などの治水事業も活発になりだしたのではないか。今後の研究によって新たな影響の発見、また書紀の安閑、宣化紀の記事の実年代や九州王朝の治政の様子をうかがい知る手がかりにもなるだろう。
参考文献
ディヴィッド・キーズ「西暦535年の大噴火」訳畔上司 文芸春秋2000年
河合潤「西暦536年の謎の大噴火と地球寒冷期の到来」ディスカヴァー・トゥエンティワン2014年
後藤明「世界神話学入門」講談社現代新書2017年
高橋照彦「阿武山古墳小考 」待兼山論叢. 史学篇2004年
「埴輪群像の考古学」(大阪府立近つ飛鳥博物館)青木書店2007年
石田英一郎「桃太郎の母」講談社1966年
「樹木年輪と古代の気候変動」大阪府立狭山池博物館2019年
中塚武「気候適応史プロジェクトの活動」ネット掲載など
吉野正敏「古代日本の気候と人々」学生社2011年
これは会報の公開です。史料批判は、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。古田史学会報一覧へ
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"