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YouTube講演九州王朝の仏教から王朝交代を語る -- 我が国にあった王朝交代 服部静尚
野中寺弥勒菩薩像銘と女帝
八尾市 服部静尚
ここでは、大阪府羽曳野市の青龍山野中寺に伝わる弥勒菩薩像(半跏思惟像)の框かまちに刻字された左記銘文を解釈し、ここに現われる「中宮天皇」について考察する。
◆丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣 中宮天皇 大御身労坐之時 請願之奉 弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也
◆訳
丙寅年(六六六)四月八日に記する。中宮天皇が病気になられ、栢寺の信徒が詣で、回復を誓願して奉る弥勒像である。友ら百十八人、是れより六道四生人らこの教え相なるべし。
一、なぜ薬師瑠璃光如来像でなく、弥勒菩薩像を奉り請願したのか
この世界で最後に悟りを開いたのは釈迦如来であるが、その次に如来になる(悟りを開く)ことが予定されているのが弥勒菩薩である。弥勒菩薩は既にこの世界で亡くなり、輪廻により現在は天界の中の兜率天とそつてんに居る。この弥勒菩薩信仰には上生信仰と下生信仰の二つがある。弥勒上生信仰とは、死後に兜率天にいる弥勒のもとに往生することを願うもの。この信仰は病気平癒祈願には相応しくない。
それに対して、弥勒下生信仰は、はるか未来(五十六億七千万年後)にこの世界に弥勒が下生することを待望するものである。兜率天にいた弥勒が再びこの世界に下生すると、娑婆世界は物質的にも満ち足りて、争いもなく苦悩もない地上の浄土へと変化する。そして弥勒は竜華樹のもとで、三回にわたって説法し、初会九十六億、二会九十四億、三会九十二億の衆生を済度すると説かれている。
例えば、明治維新後法隆寺が天皇に献納した「銅像如来半跏像(現物はどう見ても菩薩像であって如来像と称するのには疑問がある)」にも銘文がある。こちらは左記の内容であって、夫人が南無頂礼することを願っていることより、前者上生信仰であることは明白である。
◆歳次丙寅年正月生十八日記高屋大夫爲分韓婦夫人名阿麻古願南无頂礼作奏也。
(丙寅年に高屋大夫が死別した夫人のために発願造立した)
写真2、法隆寺献納半跏像38.8cm
これに対して、野中寺の方は刻まれた四月八日という日にちがキーポイントとなる。左記に東晋の時代に漢訳された『仏説弥勒来時経』の一節を示す。まさにこの世界に弥勒が下生するその日が四月八日なのだ。その記念すべき日に像を奉るのだから、これは下生信仰による奉納だ。
◆~彌勒得道為佛時。於龍華樹下坐。樹高四十里。廣亦四十里。彌勒得佛時。有八萬四千婆羅門。皆往到彌勒所師事之。則棄家作沙門。彌勒到樹下坐。用四月八日明星出時得佛道。國王僧羅聞彌勒得佛。則將八十四王。皆棄國捐王以國付太子。共到彌勒佛所。皆除鬚髮為沙門。復有千八百婆羅門。皆到彌勒佛所作沙門。彌勒父母亦在其中。復有聖婆羅門千八十四人。皆復到彌勒佛所作沙門。~
以上のように下生信仰と考えられるのだが、下生信仰も単なる病気平癒祈願ではない。救われるのは一人中宮天皇のみにあらず、百十八人の智識衆どころか六道四生すべてが済度するわけである。
二、個別の解読
(1)成立年について
大山誠一氏(注1)は、六六六年つまり天智期には弥勒下生信仰は成立していなかったとする。これは実際には七二六年の造像であったとする。それを一運遡って六六六年の暦を持ち出して刻字したのだと言うのだ。未来の月日ならわかるが、過去のそれも六〇年前の日を刻んで、請願がかなうはずがない。請願する相手は何もかもお見通しの弥勒菩薩なのである。
さらに氏は、天智期には弥勒下生信仰は成立しておらず、像は弥勒菩薩ではなくて、菩薩時代の釈迦の半跏思惟像だとする。しかしそうであれば、四月八日は釈迦の誕生日でもあることから「天上天下唯我独尊」と天を指す「誕生仏」であろう。思索する釈迦の菩薩像に病気治癒を願う信仰は、どのような経典によるものであろうか。氏の論証は破綻しているのである。
なお(表1)に示した通り、「丙寅年四月大旧八日癸卯開」の候補日は六六六年天智五年以外には考えられない。しかし「旧」の解釈は確定できない。旧暦の旧ではないかとする説がある。しかし、旧と見える右側の字は日ではなくて縦線が少し下方へ突き抜け少し曲っているので、朔の省略字とする説もある。いずれにしても難解で現在の所不明とするしかない。開は十二直の一つ。
(表1)丙寅年の検討
一〇二六年 |
九六六年 |
九〇六年 |
八四六年 |
七八六年 |
七二六年 |
六六六年 |
六〇六年 |
五四六年 |
万寿三年 |
康保三年 |
延喜六年 |
承和十三年 |
延暦五年 |
神亀三年 |
天智五年 |
推古十四年 |
欽明七年 |
丙寅 |
丙寅 |
丙寅 |
丙寅 |
丙寅 |
丙寅 |
丙寅 |
丙寅 |
丙寅 |
四月八日小 |
四月八日小 |
四月八日大 |
四月八日大 |
四月八日小 |
四月八日大 |
四月八日大 |
四月八日小 |
四月八日小 |
甲寅 |
癸卯 |
庚寅 |
戊寅 |
乙卯 |
乙卯 |
癸卯 |
壬辰 |
庚辰 |
開 |
閉 |
収 |
収 |
開 |
開 |
開 |
閉 |
閉 |
(2)栢寺智識とは
一般には栢カヤ寺の智識衆とされるが、大山氏は栢カヤ寺を楢ナラ寺と読み、七二六年平城宮にあった寺であって、長屋王の周辺にいた百十八人の知識衆とみる。しかし、刻字は間違いなく栢であって到底楢とは読めない。平城京の宮域に楢寺があったとの記録も全く無い。根拠の無い単なる想像の仮説である。
現在のところ、栢寺というと、岡山県総社市(昔の賀陽郡)で栢寺廃寺があり、そこで素弁蓮華文軒丸瓦が発掘されていることから、候補地の一つとなりうる。しかしこの場合、なぜこれが野中寺に伝わったのかと言う説明に困る。栢寺があったのだからその智識衆が奉納するとすれば当然賀陽郡の栢寺への奉納となるだろう。河内の野中寺まで吉備の栢寺の名が知れ渡っていたとも考えにくい。やはり野中寺周辺の栢寺であって、その智識衆であろう。ところが残念ながらこの辺りには栢という地名もその他の名称も残っていない。
以下はあくまで私の想像なのだが、この栢は柏の俗字としての栢ではないかと考えるのである。
『日本書紀』では神代紀上で「八岐大蛇の背に松・柏が生えている」と松と同じ常緑針葉樹としての榧かやの木を「柏」で記述し、景行紀では「如柏葉而挙(柏の葉のように舞い上がる)」と柏餅のあの葉を持つ落葉高木としての槲かしわの木を「柏」で表記しており、榧は栢であり、栢は柏の俗字でもあるのだ。
柏原を栢原と書く例が現代でも人名・地名に多く見られる。例えば丹波にある柏原かいばら町は江戸初期の織田家柏原藩のあった場所だが、柏原陣屋跡は別名栢原陣屋敷跡とされている。やはり柏イコール栢だ。
そして野中寺が所在する羽曳野市に柏原市が隣接している。この柏原市には大県があって、『続日本紀』に左記のように智識寺の所在地とされる。
◆天平十九年(七四七)九月乙亥、河内国人河俣連人麻呂が銭一千貫を盧舎那仏智識として奉じた。
◆天平勝宝元年(七四九)十二月、聖武が河内国大県郡の智識寺盧舎那仏を見て大仏造営を思い立ったとある。
◆天平勝宝八歳(七五六)二月、天皇が智識・山下・大里・三宅・家原・鳥坂など七寺を礼佛した。
◆同歳四月、車駕が渋川路を通って、智識寺行宮に至った。
河内の地名としての柏原は残念ながら江戸時代までしか遡れていないが、人名なら『日本書紀』に遡る。
◆持統三年(六八九)七月辛未、偽の兵衞河内国渋川郡の人、柏原廣山を土左の国へ流す。
ここから、野中寺近辺の柏原市もしくは八尾市あたりに栢という地名があって、そこに栢寺があったという可能性が考えられる。ちなみに八尾市には柏村かしむら町・萱振かやふり町がある。もしくは野中寺の元の名が栢寺であった可能性も考えられる。
なお知識とは、仏教の信者が善業を積み重ねるために寺院や仏像の建立や維持、写経や福祉などの事業のために金品などを寄進することであるが、転じてまた寄進者や寄進物を指す。右はいずれもその用例である。
(3)中宮天皇とは
『史記』「巻二十七 天官書第五」には、
◆中宮とは天極星、そこに際立って明るくて動かないものである。旁に三星三公あり,或いは曰くこれに子が属す。後に四星と云う。末の大星を正妃、残りの三星は後宮に属する。この環りを十二星が衛る、藩臣なり。皆紫宮(天帝の在所)という。
一方、『漢宮春色』(東晋の書)の「漢孝惠張皇后外傳一」には、
◆太子(恵帝)即位,太后(呂公)臨朝して称制する。よりて未央宮(皇帝の居場所)正殿に居する。(張)皇后を孝恵皇后と称する。よりて中宮の椒房(びおうきゅう 皇后の御所、後宮)に居する。
つまり、中宮とは広く天帝の在所示す用語であり、後に転じて皇后の住居、あるいは皇后を指すようになる。中宮天皇の中宮が天帝の在所では意味をなさないので、皇后の住居に居る天皇という可能性がある。そうであれば女帝ということであろうか。
野中寺近辺の智識衆が中宮天皇と呼ぶのだから、この中宮がある場所は太宰府では遠すぎるし、奈良県の飛鳥でも少し離れすぎて違和感がある。もちろんこの時期に飛鳥に都があって、そこに中宮と呼べる宮殿があった形跡が無いことは発掘調査の集積で自明である。難波宮であろう。天智五年(六六六)であれば未だ難波宮が存在している。難波宮の火災は朱鳥元年(六八六)だ。そして、翌年の六六七年三月に近江遷都となる。
この時期に中宮天皇の「大御身労坐おおみいたつきいます」とは、どのような具合であったのだろうか。朝鮮半島に派遣した大軍は白村江で大敗し命からがら帰国した。麟徳二年(六六五)十月、唐の高宗は突厥、于闐、波斯、天竺国、倭国、新羅、百済、高麗等の酋長を率いて泰山奉禅の儀式を行った。この酋長のように三年経ても捕虜となって未だ帰還できない多くの重臣がいたのであろう。『日本書紀』はこの時期、如何なる人物の病気も伝えていないが、倭国の女帝としては「大御身労坐」の極みであっただろう。
三、はたして六六六年(天智五年)に倭国の女帝はいたのだろうか
(1)倭姫王皇后が即位していたという点については先行説がある(『後淡海宮御宇天皇論下』喜田貞吉)
戦前の歴史学者である喜田貞吉氏は、次の理由で倭姫王皇后が天皇に即位していたとする。もちろん、天智五年ではなく、天智崩御後から壬申の乱までのこととしての説である。喜田説が根拠とする①③④に同意できるが、③によると天武二年の際の天皇も倭姫王となるのだが、氏はこれに言及されていない。
①天智紀に天智天皇崩後には皇后即位すべしとの条件で大海人皇子は即位辞退している。
②天皇崩後に皇后が即位する実例がこの前後に(推古・皇極・斉明・持統と)多い。
③『懐風藻』の釈智蔵の伝に「太后天皇」が現われ、この時期つまり天智後であって天武二年以前(注2)に「太后天皇」とあれば倭姫王皇后以外に無い。
④大安寺伽藍縁起流記資財帳に現われる「仲天皇」も女帝であり、倭姫王皇后であることは明白。併せて『万葉集』の「中皇命」も「なかつすめらみこと」と読んで、斉明四年十月の紀温湯行幸に同行した考えられる倭姫王のことである。
(2)九州王朝説に従えば、斉明天皇・天智天皇・天武天皇は倭国王では無い
九州王朝天子の崩御、新天子の即位の年もしくは次の年には九州年号改元が必ず行われる。『日本書紀』の天皇崩御、新天皇即位と九州年号を時系列で左記に示す。斉明天皇即位および天智天皇即位、天武天皇即位時に九州年号の改元がされていないことが判る。『日本書紀』が示す三天皇は九州王朝天子ではない。
六五二年―白雉元年
六五五年―斉明天皇即位
六六一年―七月斉明天皇崩御。同月中大兄皇子称制。白鳳元年
六六八年―一月天智天皇即位
六七一年―十二月天智天皇崩御
六七三年―二月天武天皇即位
六八四年―朱雀元年
四、まとめ
前項のとおり、『日本書紀』が示す斉明・天智・天武の三天皇は倭国王ではなかった。彼らは九州王朝配下の畿内の一豪族である(後の)天皇家の当主であろう。その期間に六六六年(天智五年)に帝がいたとすれば、九州王朝天子に違いない。懐風藻の太后天皇・大安寺伽藍縁起流記資財帳の仲天皇・万葉集の中皇命、そして野中寺弥勒像銘の中宮天皇がその人であって、日本書紀に現われる倭姫王がその候補となる。
(注1)『「野中寺弥勒」の年代について』大山誠一、弘前大学国史研究第九五号、一九九三年
(注2)『懐風藻』呉學生釋智藏の段に「智蔵師は俗姓禾田氏、淡海帝の世に唐に遺学した時に、呉越の間に高学の尼有り、法師尼に就いて業を授かる。六~七年学び学業すぐれる。(中略)太后天皇の世に、師は帰国した。同伴陸に登りて経書を虫干しする。法師襟を開きて風に対して曰く、我もまた経典の奧義を虫干しすると。衆皆嘲笑して以て妖言と為す。業を試されるに臨みて、座に昇りて説いた。辞義すぐれ音詞雅麗で応対流れる如く、皆屈服し驚かないものなし。帝はこれを褒め、僧正に任命した。」とある。
淡海帝の世を天智天皇の治世とすると、その世に智蔵は唐に向い、六~七年間学んで帰国した時には太后天皇の世になっていて、太后天皇が智蔵を僧正に任命したとあるわけである。
一方、『僧綱補任』(群書類従より)には、天武二年癸酉(六七三)に智蔵が僧正に任命されたと記録がある。つまり『懐風藻』を採れば、天武二年の時の天皇は太后天皇だったということになる。
(注3)『大安寺伽藍縁起流記資財帳』より抜粋を訳す
「(斉明)天皇、筑紫朝倉吉に御幸し崩じたまわんとする時、甚だ痛み憂いて「『此の寺を誰に授けて参り来た』と、先帝(舒明)が」(あの世で)待ち問いたまわば如何にこたえ申そうか」と言われた。時に、近江宮御宇天皇(天智)奏してたまわく、「開い、髷に墨刺を刺し、肩に手斧を背負い、腰に斧を刺して為し奉らん」と奉った。仲天皇は「妾も我妋等の炊女として造り奉らん」と奏った。時に、手を拍ち慶び賜いて崩じ賜いき。」
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