2021年6月8日

古田史学会報

164号

1,女帝と法華経と無量寿経
 服部静尚

2,九州王朝の天子の系列2
利歌彌多弗利から、「伊勢王」へ
 正木裕

3,何故「俀国」なのか
 岡下英男

4,斉明天皇と「狂心の渠」
 白石恭子

5,飛鳥から国が始まったのか
 服部静尚

 編集後記

6,「壹」から始める古田史学三十
多利思北孤の時代 Ⅶ
多利思北孤の新羅征服戦はなかった
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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野中寺弥勒菩薩像銘と女帝 (会報163号)
本薬師寺は九州王朝の寺 (会報165号)
倭国の女帝は如何にして仏教を受け入れたか 服部静尚(会報172号)

YouTube講演九州王朝の仏教から王朝交代を語る -- 我が国にあった王朝交代 服部静尚


女帝と法華経と無量寿経

八尾市 服部静尚

一、はじめに

 我が国の女性は仏教をどのように受容したのだろうか、女性の目で見て釈迦信仰か阿弥陀信仰かという問題を考えてみます。『日本書紀』では欽明十三年(五五二)百済聖明王が経論若干巻を伝え、これが仏教初伝とされています。しかし、そこには一五〇年も後の七〇三年に成立した金光明最勝王経の一文が見られます。つまり、どのような経典で仏教が伝わったかについては、この記事からは不明なのです。
◆(日本書紀欽明十三年十月条)是法、於諸法中最為殊勝、難解難入、周公・孔子尚不能知。
此法、能生無量無辺福徳果報、乃至成弁無上菩提

◆(金光明最勝王経)是金光明最勝王経、於諸経中最為殊勝、難解難入、声聞・独覚所不能知。
此経、能生無量無辺福徳果報、乃至成弁無上菩提

 その後、敏達六年(五七七)律師を受け入れ、敏達十三年(五八四)および推古元年(五九三)に佛舎利が見え、推古十四年(六〇六)に勝鬘経・法華経の講義があるので、日本書紀上では、我が国の仏教受容は釈迦信仰で始まったと見られます。その後、舒明十二年(六四〇)に至り、無量寿経があらわれ、白雉三年(六五二)には内裏で無量寿経の講義がされていることから、続いて阿弥陀信仰も取り入れられたと考えられます。
 一方、『二中歴』によると、僧聴元年が五三六年であることより、九州王朝が遅くとも五三六年には仏教を授受したと確定されます。細注によると、端政年間(五八九~五九三)に法華経が伝わり、僧要年間(六三五~六三九)に一切経三千余巻(当然ここには無量寿経も含まれるであろう)が伝わっている。ここでも釈迦信仰そして阿弥陀信仰という順での仏教受容と考えられます。
 この稿では、釈迦信仰を代表する法華経と、阿弥陀信仰を代表する無量寿経を比較して、日本書紀が伝える聖徳太子の仏教施策の矛盾を示します。

 

二、法華経の変成男子へんじょうなんし

(1)妙法蓮華経に見える女性蔑視

 法華経の代表的な漢訳に、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』二十八品(四〇〇年)があります。なお二十八品の内、第十二品提婆達多だいばたった品は鳩摩羅什訳には無くて、四九〇年に至って法意によって加えられたとされています。

 楊曽文氏(註1)は法華経の特色として次を挙げます。
①一切衆生がすべて成仏できると説く。(成仏とは悟りを開いて輪廻から解脱すること)

②釈迦仏が絶対理念を体現した法身仏であり、法身を体得して成仏する報身仏、衆生に法を伝える応身仏であると説く。

③諸法実相、十如是など哲学的概念を説く。

④現世で苦難を救う観世音菩薩信仰へ導く。

 白景皓氏(註2)によると、釈迦は「人には男女の区別があるが、人の本性に差異があるのではない。男も女も道を修めれば、然るべき心の道筋を経て悟りに至る」と語っており、①の通り男女の差別観はもっていなかったようです。しかし、釈迦入滅後に女性差別の思想が入り込み、女性は「救いがたき者」「仏になれない」という考えが仏教の常識的な思想となります。女性蔑視でないと到底世間に受け入れられないという当時の現実があって、釈迦の思いに蓋をしたのでしょう。
 次に現代語訳で示すように、提婆達多品の後半部に当時の仏教界の女性観が見えます。この提婆達多品の前半部は悪人成仏を説き、後半でこのように龍女成仏を説いていて、つまり悪人と女性を同列に扱っているわけです。
◆その時舎利弗が(八歳で成仏したという)龍女に言った。「あなたは瞬時に悟りを得たと言うが信じがたい。なぜならば女身は穢く法器にあらずとされるからだ。つまり女性は悟りを開けない。無量劫の苦行や菩薩行の積み重ねの後に、仏道はかなうものだ。そして、女人の身には五障あって、一に梵天、二に帝釈、三に魔王、四に転輪聖王、五に仏身にはなれないと言う。どうして女身で瞬時に成仏できたと言えるのだ。」
 その時、龍女はすばらしい宝樹を持って仏に捧げ、仏はこれを受け取った。龍女は舎利弗に言った。「私は宝樹を献じて、仏はこれをすばやく受け取られたでしょう。」舎利弗は「すばやく受け取られた。」と答えた。
 龍女は言う。「あなたの神力をもって私が成仏するところを見なさい。これよりもすばやく成仏するでしょう。」そして皆の目の前で、龍女は瞬時に自らの身を男子に変じて(変成男子)、つぶさに菩薩行を修め、宝蓮華に座して悟りを開き、あまねく十方一切衆生のために妙法を説いた。
 
 舎利弗(釈迦の弟子)の言葉で、「女身垢穢非是法器」「女人身猶有五障」と女性が差別されるものとした上で、その女性である龍女が皆の前で突然男子に変成して成仏する姿を描き、本来成仏できない女性であっても、男性に生まれ変わって成仏できると述べているのです。戸田氏(註3)はサンスクリット原典を現代語訳して、「さて、その時、海龍王の息女は、一切の世人の眼前で、舎利弗の眼前で、その女性器官を内蔵せられ、そして男性器官を現出せられ、そして菩薩(の姿)に成った我が身を(衆目にさらして)見せる。」とする。原典も、明らかに女性は「仏になれない」という前提の元に書かれているのです。

 

(2)六・七世紀の中国での「変成男子」の解釈

 変成男子を六・七世紀の中国ではどう解釈したかを、当時の注釈書で見てみましょう。(註2)
◆『法華義疏』吉蔵(五四九~六二三)。亦男亦女 則龍女是也 本是女変為。
 「男また男にしてまた女なり。則ち龍女がこれなり。本、これ女なり。変じて男となす。」

◆『妙法蓮華経文句』智顗(五三八~五九七)。
南方縁熟宜以八相成道 此土縁薄祇以龍女敎化 此是権巧之力。
「南方の縁熟して道成じょうずべし。此の土の縁薄く龍女を以て教化せり。これ方便の力なり。」

◆『妙法蓮華経玄賛』基(六三二~六八二)。
経当時衆会至演説妙法 賛曰 示現道成有二 一見因二見果
 「道成じょうずることを示現するに二つ有り。一は因を見せしむ。二は果を見せしむ。」
 
 吉蔵は「変成男子」という表現のみに注目し「龍女は男子でありかつ女子であり、変化前が女子、変化後が男子である」というように、龍女は男女両性をそなえるので男子に変わり得ると解します。智顗は物語の構造に注目し、「南方世界において、龍女が菩薩であることを衆生が受け入れる縁はすでに成熟しており、龍女は〈成仏の姿〉を示現します。一方この世では衆生が受け入れる縁は薄い、つまり未だ成熟していないので龍女は〈龍女の姿〉を通じて教化する」と解釈し、龍女の〈成仏の姿〉及び〈龍女の姿〉の示現は方便であるとします。基もまた同物語の構造に注目し、「龍女は成仏の因と成仏の果を見せる」と解釈し、龍女はこの世において成仏の因である菩薩行を具える〈菩薩の姿〉を見せ、南方世界において成仏の果である〈仏の姿〉を見せるとするのです。七世紀に至ると、女性は「仏になれない」の前提には触れずに、方便としての龍女変成男子論が生まれて来たようです。

 

(3)鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』に見える変成男子論

 中村元氏(註4)によると、維摩経は、出家の生活を否定して在家の世俗の生活の中に仏教の理想を実現させようとする経典です。そこに天女と舎利弗の問答があって、二(1)で引用した釈迦の男女観がみえます。
◆舎利弗が天女に、「あなたはどうして女身を転じて男の身とならないのか」天女「幻に一定の特性はない。なぜそれを転ずる必要があるのか」天女は神通力で、舎利弗を天女に、自らを舎利弗にならしめ、舎利弗に問う。「どうして女身を転じて男の身にならないのか」舎利弗は天女の姿で答える「私は女人の身となったが、どうしてこうなったか解らない」天女が言う「もしあなたがご自分の女人の身を転ずることができるなら、一切の女人もまた女身を転ずることができるでしょう。あなたがじつは女でないのに女人を現されたように、一切の女人も同じです。かれらは女身を現しているが、じつは女ではないのです。だから仏は一切のものは男に非ず、女に非ずと説いたのです。」

 さらに中村氏は、在家女人の勝鬘夫人が教えを説き、これを釈迦が賞賛する求那跋陀羅ぐなばつたら訳『勝鬘経』の解説の中で、次のように少し強引に変成男子を否定します。「注目すべき所は勝鬘夫人という女人が未来に仏となるのであって、男子に生まれ変わってのちに仏になるとは説かれていない。変成男子ということはしょせん仏教の一部の思想であったということがわかる。」

 『上宮聖徳太子伝補闕記』は、聖徳太子が勝鬘経・維摩経・法華経の注釈書、いわゆる三経義疏をあらわしたとしていうので、少なくとも聖徳太子の時代にこのような変成男子解釈があったことは否定できません。しかし私には仏典に女性蔑視的諸々の観に対する言い訳・弁解のように聞こえるし、ともかく難解です。

 

三、無量寿経における女人往生

 無量寿経は、法蔵菩薩が四十八願の成就を果たして、極楽浄土に阿弥陀如来として出現し、衆生を極楽浄土への往生に導くと説きます。その代表的な漢訳が次であり、浄土教諸宗ではもっぱら後者が用いられています。
『仏説無量清浄平等覚経』後漢(一四七年頃)の支婁迦讖しるかせんの訳
『仏説無量寿経』曹魏(二五二年頃)の康僧鎧こうそうがいの訳

 後者の四十八願の内の第三十五目の願を次に示す。
◆設我得佛。十方無量不可思議諸佛世界。其有女人聞我名字。歓喜信楽発菩提心厭悪女身。寿終之後復為女像者。不取正覺
「たとえ私が仏になったとしても、十方の無量不可思議の諸仏世界に女人がいて、わが名を唱えて菩提心を発してその女身を憂いたのに、死んだ後にまた女として生まれ変わるというのであれば、私は悟りを開かない。悟りを開いてもしかたがない。」

 この第三十五願(法然によると「女人往生の願」)は支婁迦讖訳には欠けています。浄土教では、当時の家父長制・女人従属視という社会的事実をどう考えるかということが問題となって、支婁迦讖以後に加わったものです。
 実はすでに第十八願において男女老少のあらゆる衆生が救われると誓っています。これに加えてさらに第三十五願で女人往生の願をかけているのです。これは判り易い。もちろん変成男子を土台にしているのですが、この世から極楽浄土へ往生する場面は男女平等です。女性にとって受け入れ易いと思われます。

 

四、聖徳太子時代(六世紀末から七世紀初頭)の仏教受容

 日本書紀および二中歴の記載より、聖徳太子時代の仏教は法華経に代表される釈迦信仰が主体だったと考えられます。その聖徳太子は推古天皇の摂政として、推古十二年(六〇四年)十七条憲法を制定したとされます。
 十七条憲法は、「二曰く、篤く三宝を敬へ」「三曰く、詔を承れば必ず謹め、君を天、臣を地とす」と、承詔必謹と篤敬三宝の要求をします。この両者要求は、天皇自身が篤敬三宝側の立場に立つことによってのみ克服できる矛盾をかかえています。つまり十七条憲法は天皇を中心とする国家仏教の方針を示しているのです。
 その推古天皇が女帝だったと『日本書紀』は伝えます。当時の法華経およびその解釈では、女性は「救いがたき者」「仏になれない」存在だったのです。もちろん維摩経・勝鬘経がありますが、十七条憲法は僧を敬えと要求していて在家信仰の賞賛はされていない。出家中心です。「釈迦信仰仏典には女性蔑視がみられるが、実は釈迦はそうは考えていない」というような解釈は言い訳くさく難解です。
 つまり、十七条憲法制定時の天皇が女帝とは考えにくいのです。隋書俀国伝が示す倭の男帝、阿毎多利思比弧で、法隆寺釈迦三尊像後背銘が示す上宮法皇である菩薩天子によって、十七条憲法が制定されたと考えざるを得ません。そう考えると釈迦三尊像後背銘には、「鬼前」太后・「干食」皇后という地獄絵図を連想するような、敬虔な仏教信者の呼称とはとても考えられない名前が記されています。
 六世紀末から七世紀初頭の我が国の女性は、法華経の変成男子論を聞いて受け入れたのでしょうか。我が国の古代には、イザナギ・イザナミ夫婦神に始まり、天照大神、卑弥呼・壹与の例をはじめ、推古・皇極・斉明・持統に至る女帝の記録があるように、少なくとも女性蔑視までの思想は見られません。その伝統を引継ぐ女性達には、仏典に内含される女性蔑視観に対して抵抗があったのではないでしょうか。これをもし受け入れるとすれば、七世紀以降、方便としての龍女変成男子論へ昇華するに至って後の話ではないでしょうか。

 

五、七世紀以降、女性達は阿弥陀信仰へと向かった

(1)
 法華経と無量寿経を並べた時に女性はどちらを選ぶでしょうか。「女性は仏になれない」という古代インドの差別社会の遺物を抱えて、何とかそれを方便だったと昇華させる過程の七世紀の法華経認識と、方や、ずばり明確に「女人往生の願」を示す無量寿経、明確ではないでしょうか。

(2)
 長々と前段の話しを述べてきましたが、実はこの論考の隠れた主題は善光寺文書(註5)にあります。善光寺の阿弥陀如来と斑鳩厩戸勝鬘の間で取り交わされたとされる往復書簡です。三往復計六通が伝わっているのですが、勝鬘から阿弥陀如来に出した一通目で要件は完遂しており、あとの五通は信憑性に疑いがあると私はみています。

         御使 黒木臣
名号称揚七日巳(ママ) 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
       斑鳩厩戸勝鬘 上

 一通目には命長七年(六四六年)という九州年号が使われており、後代の偽作と考えることは困難です。これに対して三通目以降は法隆寺釈迦三尊後背銘にある法興年号(五九一年~)が使われ年代が合わないことから後代の偽作と考えられるのです。
 一通目は阿弥陀如来に斑鳩厩戸勝鬘が「我が済度を助けて欲しい」と祈願する文書です。済度とは「仏が、迷い苦しんでいる人々を救って、悟りの境地に導くこと」なので、「私(斑鳩厩戸勝鬘)が極楽浄土へ往生できるように助けて欲しい」という祈願です。
 一般には斑鳩厩戸勝鬘を聖徳太子としますが疑問があります。日本書紀は厩戸皇子が六二一年に亡くなったとします。その二十五年後に現われているわけです。次に勝鬘と言うと、勝鬘経の勝鬘夫人を連想します。阿部周一氏によると鬘は髪飾りだそうです。阿部氏が指摘するように、斑鳩厩戸勝鬘は女性の名前と考えざるを得ません。善光寺縁起にはこの阿弥陀如来が月蓋長者の娘を病から救ったとか、地獄に墜ちていた皇極天皇をこの世に引き戻した話が記されています。長野善光寺は女人救済・女人往生の寺とされているのです。
 「斑鳩厩戸勝鬘」が女性であれば、(上宮法皇の釈迦如来信仰とは違って)長野善光寺の阿弥陀如来への祈願は理に適っているのです。
 阿毎多利思比弧(上宮法皇)を継いだ利歌弥多弗利は女性だったのか、もしくはこの時既に利歌弥多弗利は亡くなっていて、その妻が「斑鳩厩戸勝鬘」であった可能性も考えられます。利「歌弥多弗」利は「阿弥陀佛」に通じているのではないかという、西村秀己氏の説があるのですが、非常に興味深い説です。

 

(註1)楊曽文、菅野博史訳『中国の歴史における法華経と二十一世紀における意義』一九九九年

(註2)白景皓『法華経提婆達多品「変成男子」の菩薩観』東洋文化研究所所報第二〇号平成二十八年四月

(註3)戸田裕久「法華経提婆達多品龍女成佛譚の一解釈」二〇一三年

(註4)中村元「現代語訳大乗仏典3『維摩経』『勝鬘経』」二〇〇三年

(註5)『善光寺縁起集註』大日本仏教全書 第一二〇巻 寺誌叢書第四三四一頁~三四三頁


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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